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初恋。  作者: 冬鳥
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俊介の甘美と壮太への帰服と彰の罪深さ

樹里の長い髪を僅かに揺らす弱い風が教室のなかを吹き抜けていく。ほんの小さな冷たさが宿りはじめる渇いた秋の風だった。


そして数秒遅れで付き従うのは甘美なバニラの香り。

固い風を彩る甘い香りは、鋭い目つきと不均衡な香りを携える彼のことが明確に浮かびあがる。


樹里にはこの香りが落ち着きを与える役目になっているのを知っていた。


鋭い針のように怖い人物だが、平穏を付き従えている。

祖母が裁縫をするのを見ていたときのような温もりのある時間。

沢村俊介は不思議な人だ。

対して大橋彰は。


樹里は乱高下を繰り返えす感情にときに疲れきってしまう。


彰の香りは季節で変わるのを知った。それに晴れと雨でも違う。

春と夏、夏と秋、快晴と梅雨の長雨では香りも表情も変わるのだ。


彼からは一点に留まらない無限さを感じてしまう。

心の奥底まで見透かされるような眼差しに優しさに満ち溢れた笑顔。


どれもこれも息苦しくなるほどに引き付けていく香りであり表情だった。


そう。


彰の存在は罪なのだ。


樹里は色濃い青空に訴えたい。

私を狂わしていく。

毎日が苦しい。

すぐに会いたくなって顔が見たくなってね!




いま

樹里は隣り合わせに座る彰と目を合わせていた


彰の、心を根こそぎ引き込んでいく瞳


彰を抱きしめてみたい。

抱きしめられてみたい。


いま行動に移したら私はすべてを放り出すことになるのかな。



そのとき風とともに俊介の香りが樹里の横を駆け抜けていく。


日常的なくすぐりとなるこの香りは樹里の後ろを少しばかりの勇気と俊介の睨みが支えてくれる。


樹里にはそんな気がした。

ゆっくりと俯いた。心を現実に引き戻す。


部活動の時間に自分を引き入れていく。


見えてくる悲惨な光景。



「大橋君。あのね…杉田先輩は…部活内で酷いイジメにあってるの」






彰は無言のまま樹里から目を反らすと校庭に顔を向けた。

破裂してしまった風船を手にする少女のように項垂れながら話す樹里と、虚空に浮かぶ小さな雲のようにいまにも掻き消えそうな彰の眼差し。


奈緒ちゃんはイジメにあっている。


それはもう。


わかっていること…。



杉田奈緒子は


”蔑む対象者”

なのだ。


彰は下唇を切るほどに強く噛んだ。



「須田。言ってくれ。杉田…杉田奈緒子は何をされているんだ」


どこまでも広がる青空を見上げるように顎を上げた彰の言葉は一転して刃が含まれていた。


また風が吹き抜ける。


冬を感じさせる冷たい風だった。



抜き差す刃は誰に向ければいいのだろうか。虚空をつかむ彰のその手はひどくひどく哀れであった。


ただすべてを切り裂こうとするその意志の強い切っ先は、樹里を単純なまでに圧迫した。


張り詰めた空気に薄い酸素。樹里は小刻みに呼吸をする。肺が酸素を求めている。


想像以上。


樹里は一瞬にして恐怖を覚えた。


彰が与える圧迫から逃れるために、樹里の全身はここから逃げ出したくなっているのだ。


身体と心が分離をはじめている。



心はここに居続けようとする。


圧迫を受け止め解放したい。

すでに片足はどっぷり浸かっているのだから。


大橋彰への恋。杉田奈緒子への同情。


もう前に行くしかないのだ。


浸かる片足が私を引っ張っていくのだ。


樹里は震え出す両手を机の下にしまい込んで強く組んだ。

身体が逃げ出そうとするのを心が止める。

必死に。


彰を恋しいが故に。




「杉田先輩がどういうことをされているかってこと?大橋君は聞きたいんだね?」


「ああ。教えてくれ」



こちらを見つめる彰の瞳はひどく攻撃的でそして悲しげだった。


樹里は彰の奈緒子への想いの強さを知った。


ああ、この人はこんな表情もするのか。と。


こんなに強い負の感情を包み隠さず表に出すのかと。

きっと大橋彰は杉田奈緒子を好きなのだ。


樹里の組まれた10本の指は徐々に緩んでいく。



きっとたまらないほどに。

いや。きっと。ではない。自分の推測が実現する可能性が高いというレベルの言葉ではあまりに物足りない。




樹里はあらゆる想いによって尻込みしたかのように顔をのけ反らせた。

そして唾をゴクリと飲み込む。


「わかった…わ…言う。先輩は…幼なじみなんだよね…なら…」


樹里は突然いまにも泣き出しそうな顔になった。

そして話しだした。

吹奏楽部で日々何が行われているか。

奈緒子が何をされているか

叩かれ蹴られ罵声を浴びせられる日々。

萎れきった花はいつ散ってしまうのだろうか。


杉田奈緒子はいつも涙をこらえるように震えながら堪えていた。


樹里が思うにそれはただただ

悄然とうなだれながら、ある限界のぎりぎりの場所で彼女は堪えているかのようにみえた。


あと一歩後退したら彼女は得体の知れない恐ろしい者に引っ張られてしまうような、そんな瀬戸際に彼女はいる。


彼女はひどく疲れ悲しみそして怖れていた。一日一日確実にそれらが色濃く彼女を包んでいった。


彼女は何を糧に生きているというのだろう。

頭を楽譜帳で叩かれる音、背中に落書きされる卑猥なる言葉、

髪を引っ張られたときの奈緒子の小さな悲鳴は小動物の断末魔のように聞こえた。


込み上げる感情。樹里の前の席の男子が聞き耳を立てているのがわかる。


前の席が誰だっていい。いまは名前すら顔すら思い浮かばない。


眼鏡を外し涙をハンカチで拭ってから樹里は最後にこう強く言った。

日々目の前で行われるあまりに不条理なことに対して何もしない自分が悔しいなどとはまったく感じないのだ。と。

いま目頭を熱くさせ、それが涙となり頬を滑り落ちていくのは。


”杉田先輩は戦おうとしない”。


樹里はそれが悔しいのだと言った。


涙が止まらなくなる。


すぐ右隣りに沢村俊介がいるのがわかった。バニラの香りがここから生まれている。


彰と俊介。


遠藤壮太もいた。

樹里のすぐ背後に大きな気配を感じた。


いつもの温かい安心感を与える気配だった。


こちらから帰服を求めたくなるような感覚だ。

男子ならば堪らない衝動が生まれるのだろう。

統率される喜びを彼は平等に与えていく。


樹里は鳥肌が立っていることに気付いた。恐怖に近いような強い気配が三方向から感じるのだ。


誰もがこの三人を敵に回したくはない。



すぐに恐怖は喜びに変わっていく。



遠藤君もいる。


樹里の心は急速に平穏を取り戻す。


いま私を囲む男子三人がいるのだ。

すぐに杉田先輩は救われていく。


樹里を囲む男子によって日々奈緒子がされていることがすぐに止まる。

奈緒子には笑顔が生まれていく。

まるで映画のように。


ヒーローが必ず最後に悪を退治する。


強くかっこよく。



そして私はいまヒーロー達にきっかけを作り与えている。

そんなワンシーン。


決まっているシナリオ。


樹里にいま与えるのはそんな安心感だった。


彼らは気配だけで樹里のなかに大きな安堵を生ませていた。

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