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初恋。  作者: 冬鳥
40/85

佐野の鼻

@


須田樹里は長い廊下を掻き分けるように小走りに駆けていく。

B組教室から勢いよく出てきた男子生徒の背中におでこからぶつかっていき眼鏡がずれる。


男子のつんとした汗のニオイが鼻孔に入り込んでくる。



「あっ痛い。ごめんなさい。急用があってぶつかっちゃってごめんね!」


スカートのポケットからハンカチを取り出し鼻を擦るように拭く。


授業の合間の時間帯、廊下に出てきて休憩をする一年生の生徒たちを右に左へとかわしていくのに樹里の全神経が注がれる。


もう!



いかにも運動が苦手そうな足の運びをしながら口を尖らせた。


最近の私はあいつらのおかげでよく走らされているわ!


なんで私が見ず知らずぬの男子の背中の香りを嗅がないといけないわけ?



脳裏に彰が現れる。


彰君…。


樹里は鼓動が高鳴る。


でもいまは彰だけを想像することができなくなっている。


俊介が発するバニラの甘さが鼻の周りを漂い、壮太の広大な山岳を思わせる笑い声が耳を包み込む。そして彰の校庭を見下ろすを眼差しが瞳の前に広がっていく。



ほんとに!


私を掻き乱していく。



もう…。


彰君。

喧嘩なんてしたらダメなんだよ



…止めないと。


杉田先輩を救うにはもっと違う解決策があるはず。


正義は必ず勝つものなの。

だから暴力には暴力という安易なものではなく


四人で模索していかないといけない。


なのに。


とにかくいま私に課せられた任務は二人の助っ人を連れて二年生の教室がある北校舎へと向かうこと。


助っ人?

それは先生ではなく?


樹里はG組へと走る自分の誤りを感じて一瞬足を止めようとスピードを落とした。


脳裏にはいまだ俊介の睨む瞳とバニラの香りが浮かんだままだった。


また彼女は駆けはじめる。

眼鏡のブリッジに指を当てスカートをはためかせて。


D組の教室を横目で見ながら走っていく。衣川真一の顔はわかる。


何故G組から行かないといけないわけ!


沢村君。その段取りは合っているのよね?。


樹里は走る。


やがてG組のプレートが視界に入りはじめてくる。



彼の洞察力は凄まじい。と、樹里は俊介のよく見せる自分への睥睨を猛禽類の飛翔そして俯瞰へと重ね合わせていく。


いまは大人を呼ぶべきではない。

呼べば事は深刻さを増すだろう。


俊介の予測に付き従う自分がいる。


これは彼への絶対的な信頼感なのか。



樹里はもう一度足を止めようとした。F組の前だ。


そんなわけがない。

何を言う。



ただ私は三人の無能さと切っ先と無鉄砲を案じ、そして吹奏楽部先輩の杉田奈緒子を案じ、そしてそして、大橋彰が大好きで、ただただ沢村俊介に怖じ気ついてるだけ。


…私がいま頑張っているのはただ沢村君が怖いだけ。


怖いから言われたことに従うだけ。


私は私の知恵で彰君を救う。杉田先輩を救う。


樹里はG組入口までくると息を切らしながらもこれでもかと大きな声をだした。


「松田君!松田裕吾君いる!」



あまりに大きな声だったので教室にいた全生徒がびっくり仰天するかのように会話を止めて、入口で大声を張り上げた長身で眼鏡をかける女子を注視した。



樹里はもう一度、松田君いるの!と張り上げた。


すると中央付近にいたリーゼントスタイルの男子が勢いよく立ち上がった。そのとき膝も机に勢いよく当たったらしくまったくの同じ勢いで机が倒れ、そしてがちゃんと音をたてて寝転んだ。机のうえにあったあらゆるものが床に散乱した。


「あ、あれ?す、須田じゃないか。いったいどうしたというんだ?」


樹里は松田裕吾とは昔から面識があった。彼とは同じ小学校出身なのだ。

これから引き返し向かうD組の衣川真一も沢村俊介も同じ小学校だった。


「松田君!沢村君がねいますぐに来てほしいって!」


「いま?シュンが?どこに行けばいい?」


「私が連れてくから!いいから早く来て!」



松田は倒れたままの机をそのままに須田のもとに駆け寄った。が目の前まで来ると急にもじもじとし始めた


「須田がここに来るとはびっくりだなぁ。いゃあびっくりびっくり」



「もう!」



後頭部を摩りながらもじもじと話す松田の手を樹里は掴みあげた。


「いいから早く!あと衣川君も連れてくから!走って!」


「お、おう」



右手にある感触。

なんて柔らかいんだ。

リーゼントスタイルの男は顔を真っ赤に染め上げる。


男はいかに

硬派に生きるかだ!


を日々モットーにする松田であったが、


須田樹里を前にすればいとも簡単に掻き消されれる。


突如現れた幸運。


その幸運に感謝。

リーゼントの盛り上がった部分を片手で軽く撫でてやる。


感謝。生きてることにも感謝。


松田は大好きな初恋の女の子に手を引っ張られるという幸運に対してにんまり笑って敬意を表した。






「ぐぎゃぁぁぁ!」


鼻骨が折れる鈍い音に追尾するかのように佐野の絶叫が廊下に響き渡っていった。



「うわぁぁ!佐野君!大丈夫ですか!」


吹っ飛ばされるように廊下に転がった佐野の巨体に宮崎や山下が駆け寄る。



「すげえな」



俊介は感嘆なる声をだして小さく笑った。


剛なる力が迷いなく顔面へと吸い込まれてくるのだ。

しかも圧倒的なスピードで。


突如眼前に迫りくるなにか。


佐野では彰に何百回と同じことをやられても避けれないのだろう。


しかし…


美しいものだ。


空手仕込みの蹴り技か…。

彰によく似合う。


空手…



俊介は自分と同じように彰の脇を占める両翼のもう一人の男を見る。



怒りによって躍動をした彰と同様に、険しい表情をしていた。


壮太の強く握りしめられた両拳は解放される時を待っているかのようだった。大木のような体型からは殺気が張り巡らせており、相手のどんな些細な動きにも敏速かつ的確に対応できるようにあらゆる部分をロック解除している。



「ぐぅぅぅ。鼻が!鼻が折れたぁ。いてえ…いてえよ〜」


灰色の床に赤い鮮血がぽたぽたと垂れて小さな溜まり場を作りあげていく。


彰は無言のままに第二の動きを開始する。膝を軽く曲げて踵を浮かす。深い呼吸をしてから再び踏み込みを。

いざ。


「待て」


そのとき壮太が彰の肩を掴んだ。


目を見開いて怒りの形相をする壮太の顔はまさしく鬼そのもの。


佐野は血が吹き出る鼻を押さえながら煩悶を繰り返す。


「いてー、いてーよ。やべえよきっと鼻が折れてるぅぅぅ。よ、よくもやったな…俺にこんなことして…こ…後悔することになるからな」



佐野が涙目で彰を睨みつけると、彰の前に進み出た壮太はまるで猫にするように佐野の襟首を片手で掴みあげて持ち上げるように無理矢理に立たせた。


「奈緒ちゃんには何もするな。わかったな?」


顔を近付けてそう言うと、ほかの二年生達も見回していく。



「よくも佐野君をやったな!く、くそ!いまから一年生と二年生は戦争だ!」



「何言ってんだ。お前ら多勢だ。いまやろうぜ」



俊介は血の味を求めるように舌舐めずりをした。


壮太が動いたときに俺もいく。


そう俊介が思い、拳を握りしめたときだった。


「シュン!」



背中を向ける南側校舎から俊介を呼ぶ声が聞こえてきた。


「シュン!」


何度か名前を呼ばれ振り向くと、須田樹里に呼びに行かせた俊介の友人である松田裕吾と衣川真一がいた。樹里も一緒にいる。



こちらを見ながらおろおろしている樹里の表情を見て口元を緩める俊介の耳に鉄をやすりでかけるような声が聞こえてきた。


「大橋。遠藤。覚えておけ…よ…後悔することになるからな」



佐野が赤く染まる唾を壮太のズボンに付くように吐くと、壮太は巨体の佐野を持ち上げるように襟首を捻りあげた。



「おいお前ら!何してんだ!」


連絡通路での異変に気付いた教師二人が北校舎から走ってくる。



早いな。

しかも二人。


俊介は舌打ちをした。



佐野の鼻から吹き出る血を見た教師は壮太に詰問する。


「お前がやったのか!」


教師の問い掛けに何も返答しない壮太に変わるように彰がなにか言おうとする。だがその前に佐野が口を開いた。



「ち、違うよ先生。俺はここで転んだだけだよ。こいつらはなんにも関係ねえ。よーし帰るか」



佐野は痛みで顔を歪めながらも壮太と彰を一瞥してから来た道を引き返えしていく。



残りの二年生達も佐野にへばり付くように立ち去っていった。



ここに残されたものは床に溜まる佐野の血だった。

まるで怨恨を示すかのようにどす黒い模様が床に出来上がっていた。


「おい。いったい何があったんだ?壮太君がやったのか?」


後ろから俊介の肩を叩いたのは真一だった。


「ちっ。大人が現れるのがやけに早い」


俊介は壮太を囲む二人の教師を睨みつけた。




佐野は宮崎から渡されたティッシュを鼻に詰めながら教室に戻っていく。


佐野はまずは やらねばいけないことがあると思った。

鼻が折れているかもしれない不安や痛みなんかよりも、まずはこの怒りと悔しさを少しでも沈めないと発狂しそうだった。

佐野は二年C組の教室に入るなり杉田奈緒子がいる席にどたどたと向かっていった。


奈緒子は姿勢正しく椅子に座り次の授業の教科書を開いていた。


お下げ髪に結わえらる長い黒髪。瞬きする度に揺れる長い睫毛。リボンに隠れる胸の膨らみ。机の下から僅かに見える白い足首。



それら全てがいま憎く感じた。

いままで性の対象として見ていたそれらがいまは憎悪でしか見えなくなっていた。


佐野は鼻を押さえながら奈緒子の前まで行くと躊躇なく奈緒子の白い頬を平手で思い切り張った。


「キャッ!」


短い悲鳴と一緒に椅子ごと床に転げ落ちる奈緒子を見ながら佐野は声を荒げて言った。


「杉田!お前もっとイジメ受けろ!」


転げた奈緒子のスカートの裾がはだける。

透き通るような肌の小さな膝が佐野の視界に飛び込んできた。


佐野は舌打ちをしてから痛みに顔をしかめながら奈緒子から離れていく。


頬を張られる音。椅子ごと転げ落ちる奈緒子の音。そして佐野の怒声。

激しく鳴り響いた音に、教室にいる全生徒が奈緒子と佐野に注目をしてそして逸らしていった。


頬を真っ赤に腫らした奈緒子は何も言わずに下を向きながら椅子を立たせてからゆっくりと起き上がる。

それを待っていたかのように山下が机のうえにある教科書を床にばらまいていく。


奈緒子がまたしゃがんで教科書を拾いはじめると女子生徒のせせら笑う声が教室を包み込んだ。


奈緒子は必死に泣くことを堪えた。





一年A組の前の廊下に風が通り抜けていき、俊介が発するバニラの甘美な匂いが風に付いていくように駆け抜けていった。



「このあとどうなるの…?」



樹里は腕を組む俊介の隣りにいる。



あの後、遠藤壮太と大橋彰は職員室に連れていかれた。

だが俊介は形式的なものだろうと踏んでいた。


小心物の大人達が壮太や彰をとことん絞るとは考えられない。


まあそんなに騒いだらダメだからなで終わる。

メンツを保つための形式的なもの。


俊介は教室に戻ってくるとすぐに須田樹里と体を寄せ合った。


樹里は開口一番に、裕吾や真一を呼びに行かされた不満をくどくどと言い、続けて連絡通路での揉め事はなんだったのか、これからどうなるのかとくどくどと聞いた。


最初は怒るまいと心に決めていた俊介だったがやがて痺れを切らしたように大声で一蹴した。


「いい加減だまれ」


一転、破裂した風船を手にする少女のように項垂れていた樹里だったが、彰と壮太が教室に戻ってくると顔を勢いよく上げた。



俊介はなにかひっかかるものを感じとっていた。


腑に落ちないなにか…


俺はなにか重大なものを見落としているのか。


俊介はポケットからチョコレートを取り出した。

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