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初恋。  作者: 冬鳥
4/85

奈緒子の初恋

@


六年生の修学旅行から二ヶ月が経ち、空はぎらぎらとした夏色に染まっていた。公園前まで差し掛かると、向かいの田園からの湿度を大量に含んだ熱気が小学五年生の彰と壮太に触れた。


壮太は纏わり付く熱風を身体に浴びると顔をしかめながら吹き出る額の汗を袖口で拭った。


「しかし、今日もあち〜な。デブには厳しいんだぞ彰」


ランドセルに吊された水筒を引き千切るように手にしてがぶがぶと飲みだした壮太の隣りには彰がいる。


「壮太はデブなんかじゃないよ、先週も渡辺先輩に言われてたじゃん。『おお壮太、また一段とゴツくなったな。よし。もっとしごいてやろう』ってね」


空手の渡辺指導員の口真似をした彰を見て「なんか似てるぞ」と、ケラケラ笑う壮太。


「先輩は絶対来週からしごいてくるよなぁ。あの人ならするぜ。だって俺達のバテる顔見て喜んでるからな。って今日、土曜日じゃないか?」



「そうだよ。今日はプールから帰ってきたら空手行くんだよ。渡辺先輩が待ってるからね。『おお。壮太。そんなもんか?お前は。がっかりだな。もっとやれるんだろ?』」


また彰が渡辺の真似をする。


「ガハハ!似てるぞ。今日は忙しいな。プールのあとに空手か。厳しいな。しかもこの暑さだしな」


毎週土曜日に会う渡辺を想像して二人ともどこか嬉しそうに頷きあった。


真夏の陽射しが辺りを強く照らしている。

彰の長い黒髪からも汗が滴り落ちる。頭をブルブル振れば飛沫となってあらゆる角度に飛び散るのだろう。


夏休み間近の7月。

猛暑となる土曜日の昼前だった。

二人は学校からのいつもの道をてくてくと歩いていく。

前面で揺れ動く陽炎と無数の蝉時雨が暑さを増長させる。


マンションの前まで来ると二人は揃って「あっ」と声をだした。


杉田奈緒子が自転車置場にいたからだ。


奈緒子は何か物思いに耽ているように、自転車のスタンドを立てたままサドルに腰を掛けていた。


いますぐに動き出す様子は微塵もなく、腰を据えるように景色と同化していた。


奈緒子がこちらに気付くのと、彰と壮太が大きな声をだすのが同時だった。


二人はニコニコと笑いながら奈緒子のもとに手を挙げながら走っていく。

背中で揺れる黒いランドセルは二人の気持ちを表すかのように楽しげに左右にリズムを刻んでいた。その動きは夏の暑さをいくらか和らげるように爽快な風を生んでいた。


間近まで行くと奈緒子も笑顔なのがわかり、それはまるで二人の帰りをここで待っていたんだよと思わせるほどに純朴な笑顔だった。


「二人ともお帰り〜」


奈緒子が自転車から降りると白いスカートの先が、蝶が羽を広げ戯れるようにひらひらと動いた。


学年が一つ上になる杉田奈緒子。

奈緒子の背は平均より少し低いくらいになるのか。

身体の線は細い。

特徴的なのは背中まで伸びる黒い髪と大きな瞳だ。

笑うとアクセントのように両頬に小さなエクボができる。


笑顔が似合う少女だった。


「奈緒ちゃーん。ただいま」


坊主頭の壮太は昨日バリカンで刈ったのか頭全体が青々としていた。対照的に彰の汗で濡れた前髪は左目まで届こうとしていた。


壮太は溌剌(はつらつ)としており、黒く日焼けした顔に、細く垂れた瞳と強く張った顎。外見には明朗な性格と骨太さを表していた。

それに比べて彰の肌は白く瞳が大きく顎が細い。繊細と鋭敏なイメージが先行する外見だった。

体格は一回り以上、壮太のが大きい。


二人は暑さも忘れるほどに心を弾ませたまま奈緒子と対面をする。



「おかえり。今日はすごく暑いよね。お昼からはどこか行くの?」


「えーと。奈緒ちゃんも一緒に遊ぶ?遊ぼうよ」


彰がいうと奈緒子に見られないように壮太が彰の背中を突いた。


「えっと…」


なにやら壮太が言い淀んでいると奈緒子が先に口を開いた。


「じゃあ、家にお昼ご飯食べに来ない?私ね、オムライス作ったの」


奈緒子はいい終わると少し恥ずかしそうにした。


奈緒子の着るスカートを拾いあげた微風は彰の長い睫毛をそよいで南へ流れていった。


彰と壮太は一瞬だけ顔を見合わせた。

昼からクラスメートの友達大人数で市民プールに行く予定を立てていたからだ。


「え!いいの?行く!オムライス大好きなんだよなぁ。彰も大好きだよな?」


なっ!

と壮太は彰の肩を抱いて重い体を乗せてくる。


「当たり前じゃん!大好きだよ。あーもう、壮太!重い重い!しかも暑い!壮太はやっぱデブなんだからな!僕は潰れちまうよ!」



「あ!言ったな!いまデブって言ったな。カチーン。俺はいまから石になりまーす。彰食らえ!」


彰にのしかかる壮太と、呻きながら必死に抜け出そうとする彰を見て奈緒子は口元を押さえて笑いだした。


それを見て二人も同じく笑いだす。


「オムライスかぁ、楽しみ」

壮太と彰は額から汗を光らせ


「すぐに行く!」


と、声を揃えた。


「やった!じゃあ来て来て!いまからすぐ来て。ね!」



彰と壮太はそのまま奈緒子と一緒に402号室に行く。

その30分後にはクーラーが効く涼しい部屋で、奈緒子が作ったオムライスを三人で食べようとしていた。


彰がケチャップでオムライスの真ん中に”あ”と大きく書いた。それから小さな”き”と、”ら”が端っこに書かれていく。


「よし!これは僕のオムライスだ!」


それを見ていた壮太も書き始める。

”そ”が大きく書かれ、あとの”う”と”た”が右隅に小さく描かれる。

それを見ていた奈緒子は楽しそうにまた笑った。


「二人とも最初の文字が大きすぎるんだよ」


彰と壮太も奈緒子の笑顔を見て笑った。


「いただきます!」


二人はスプーンを取り貪るように食べ始めた。

奈緒子は微笑みながらそれを見続ける。


「お代わりあるからね。麦茶もたくさんあるから」


「うん!すごく美味い!な!彰!」


「うん!美味しいよ」



そのあと三人は食器を片付けてからファミコンを始めた。

彰と壮太の家にはまだファミコンがない。


二人はコントローラーを手にしてテレビ画面に映し出される映像に夢中になりながら指を動かす。

奈緒子は後ろから二人を同じように応援する。

その声は二人のライバル心を激突させることになる。


「うわ!負けた!ちきしょ壮太めもう一回!」


「へへ。彰弱いなぁ。次も負けたらさっきデブって言ったのを訂正しろよ。約束だからな!この泣き虫ちびすけめ」



舌を出して「へへーんだ」と彰を馬鹿にする壮太を見て


「ぐっ。カッチーン。言ってはいけないことを」



「いー」と歯を出したままの彰は何かを思い出したのか急に振り返り、後ろにいる奈緒子に顔を向けた。


「あ、そういえば奈緒ちゃん。壮太ね、昨日さ隣の公園に落ちてた雑誌を一生懸命見てたんだよ。ぶらんこがあるとこの隅っこにね落ちてたんだけどさ」


「うぁ!やめろ彰!それは、それだけは言うな!」


壮太が彰の口を必死に大きな手で塞ぐ。


「ふはふぁふふ」


大きな手で塞がれてしまい言葉にならない彰はゲームのコントローラーで壮太の横っ腹をつついて抵抗をする。


「ギャハハやめろ彰!」



「え?どんな雑誌だったの?」


奈緒子が聞くと

彰は壮太の手を強引に振り払い


「女の人の裸!」


と言ってから壮太を見て、にっと笑った。


途端に壮太は肩を落として首を垂れた。


「彰…言っちゃったんだ」


「にゃはにゃは」


彰と壮太は、またゲームに没頭する。


「彰め!次はボコボコに打ち負かしてやる!覚悟しとけよ!お前クラスでなんて言われるか知ってんのか!『色白コンニャクマン』だ!」


「カッチーン。ふん!お前はクラスでなんて言われてるか知ってるか?『あっぱれデブ大将』だ!負けないから!」


「ちちちっ!また言ってはいけないことを。このウジウジもやしマンめ!」


「カッチーン!汗っかきデブヒグマめ!」


彰は口癖なのか「カッチーン」を反論前の冒頭では必ず言う。奈緒子も「カッチーン」と小声でいってみる。彼女は可愛い言葉だなと思った。彰に似合う言葉だなと思った。


「カッチーン」


お互いに笑いながらけなし合う二人を見て奈緒子も楽しげにクスクスと笑い続けていた。


外はうだるような暑さが続いている。カーテンの隙間から覗かせる陽射しは濃い。


壮太が次第に壁にかかる時計をちらちらと見て時間を気にしだした。


「なぁ彰。そろそろ…」


壮太が彰の腕を触りながら呟くとすかさず奈緒子が彰の横に座った。


「彰くん!頑張って!ああ欲しい。もうちょっとだったね!もう一回やる?」


「あー!またやられた〜。はい次は奈緒ちゃんの番だよ。やりなよ奈緒ちゃん対壮太。どっち応援しようかなぁ」


「彰は俺を応援するわけないだろ。て、なぁ彰。そろそろ…」


「よ〜し壮太君。負けないからね。彰君の敵を打つわ」



奈緒子が座を前に進めるとコントローラーを彰から渡される。


「なぁ…彰。そろそろ…」


壮太が奈緒子の後ろから彰に見えるように、必死に泳ぐゼスチャーをする。


「あ、そうだった。奈緒ちゃんそろそろ行くよ。これからみんなで市民プール行くんだ。ありがとう。オムライス美味しかったよ。あそうだ奈緒ちゃんもプールに一緒に行かない?」


「うーん…私はやめとく…」


彰が立ち上がると壮太はすでに玄関で靴を履いていた。


「奈緒ちゃんまた来るね!」

壮太が手を振ってから玄関を開けようとしたその時だった。


奈緒子は立ち上がると大きな声を出した。


「あの…彰君と壮太君!…」


リビングにいる彰と玄関にいる壮太が相互に奈緒子に視線を送った。



「あのね…。さっき壮太くん言ってたよね…ほら。公園で見たとか…、女の子の身体に…」


男子二人の動きは完全に制止した。まばたきすることすら忘れていた。


「興…味ある…の?」


彰は壮太と顔を見合わせる。心臓が高鳴るのがわかった。それは痛いほどに胸が熱くなった。


「え?…興味っていうか……」


玄関でもじもじとする壮太。対して奈緒子は真剣な表情をしたままだった。


「いま…見たい?…私のでよかったら…」



奈緒子は下を向きながら呟いていた。白いスカートの両裾に指先が当てられていた。彼女は困惑と緊張が入り混じる表情を浮かべながら細い人差し指の恥じらいをスカートの先端に引っ掛けていた。


壮太の固唾を呑みこむ音が彰のところまで届いてくる。


「え?…奈緒ちゃん…何言ってるの…え…スカートのなかってこと?」



壮太はなんとか声を絞り出したが、喉の奥に何かが詰まっているような小さくかすれた声だったので玄関付近の天井を浮遊しては消えていった。



「恥ずかしいけど…興味あるなら…見せてもいいよ。だからもうちょっとここにいてほしいの…」



奈緒子は二人の有無を確かめようとせずにそのまま人差し指に力を入れた。



「奈緒ちゃん何してるの!」

彰が大きな声を出す。

その声は奈緒子の脳天に突き刺ささったかのように、彼女の行動を瞬時に停止させた。


「いいよ。見せなくても。奈緒ちゃん恥ずかしいでしょ?俺だって奈緒ちゃんにパンツ見せるの恥ずかしいよ」



彰の素っ気ない言葉は奈緒子を現実の世界に戻らせる。醜態をさらした後悔と孤独がはびこるこの世界へと。




「あの…そういう意味じゃなくて…違うの…違う。ごめんなさい、私何言ってるんだろ。あ、もうちょっとゲームやりたいのかな…。そうだ、今日はこれから夕立になるかもしれないし…プール行ったら風邪ひいちゃうかも…しれないし…だからあの…」


「…」


壮太は動きを止めたまま、自分の足元を見続けている。


「ごめん…」



いまにも泣き出しそうな奈緒子。




「え!奈緒ちゃんどうしたの?泣いちゃうの?」


彰が近付こうとするとさっと奈緒子は広げた片手を前に突き出した。


「いいの。泣いてないよ。ごめん…雨は降らないよね…きっと」



俯いて声を静める奈緒子がとても弱々しく虚ろげで、彰には見えた。なんだか心が泣いている。


奈緒子の背後では画面に映るゲームのキャラクターが中央に佇んだまま停止していた。コントローラーが二つ奈緒子の足元に転がっている。ゲームの単調な曲とクーラーの機械音が部屋から玄関へと流れていく。


「ううん。ごめんね。いってらっしゃい。また食べに来てねオムライス」


奈緒子がふっ切れたように上げた顔はいつもの笑顔に戻っていた。

目尻がわずかに濡れた笑顔だった。いつもの小さなえくぼが頬に浮き上がっているが天使が降り立つような輝きはなかった。

それと白いスカートの裾は奈緒子の両手でしっかりと押さえられていた。



二人は402号室を出て一旦それぞれの家に帰ってから再び公園で待ち合わせをした。


公園で他の友達が来るのを待つ最中、奈緒子の家で大量に飲んだ麦茶によって同時に尿意を催したので、草むらがある片隅まで連れ立っていきそこで立ち小便をした。


「なぁ彰。なんかさ、さっきの奈緒ちゃんおかしくなかったか?なんていうか元気なかったよな。しかも泣いてなかったか?」


壮太がズボンを下ろすと、隣りにいる彰も同じく半ズボンを下ろした。


「うん。なんか寂しそうだった。やっぱ泣いてたよね。しまったな。もっとプール誘えばよかった。行きたかったんだよほんとは」



「だめだ。今日は男ばっかなんだぞ。そこに奈緒ちゃん一人で加わるなんてかわいそうだろ?」



「そうかなぁ。奈緒ちゃんも一緒に行けばよかったのにな。僕が思うに誘わなかったからさっき泣いてたんだよ。行きたかったんだプールに。間違いない。だから壮太が泣かしたんだ」


「無理だ。プールには来てくれないよ。奈緒ちゃんは六年生だしうちのクラスの女子ですら一緒に行かないぞ。そんなもんだ」



「なんだよそれ。わけわかんない。壮太は女子のこと苦手なのか?裸見せるのが恥ずかしいのか?わかった、デブってしてるとこ見られるの嫌なんだろ」


笑う彰を睨む壮太。


「ば、ばか。違うって。彰はまだわかんねえの。お前はこんにゃくまんだからな」


彰は何が可笑しいのか、にたにたと笑ったままだった。



「さっき奈緒ちゃんさ、パンツ見せてくれようとしたんかな。壮太は見たかった?」



「ば、ばか!お前はほんと大馬鹿もんだ」



彰は壮太が下腹部でぶらんぶらんさせてるものを横目で見る。


「あれ?壮太のちんちん、今日でかくない?。え!なんでそんなにでかいの!すげえ!」


「うるせえ!声でけよ!黙れ!馬鹿!ちび!泣き虫!」


「カッチーン」



彰がおしっこを壮太の靴に引っ掛けると、負けじと壮太も彰の靴にやり返すが的が外れて半ズボンから覗く白い脛に飛んでいった。


「ぎゃー!」


彰の絶叫が蝉時雨に混じり合った。



壮太は先程の奈緒子がしようとしたこととエッチな本で見たこと。それに奈緒子が見せた涙が頭から離れなかった。


どうして泣いてたんだろう…。


彰は最後に奈緒子が泣いていたように見えたことだけが気になっていた。



次は奈緒ちゃんをプールに誘うべきだ…。




彰と壮太が公園片隅の日陰の下ではしゃぎあってると公園入口に自転車に乗った二人の友達が現れた。

その後からも続々とクラスメート達がやってくる。



「お、来た来た。さてと、プール行こうかな」



「うん。行こう」



奈緒ちゃん…



彰は強烈に照り付ける太陽を右手で隠しながらマンションの四階を見上げた。汗だくの顔をしかめ目を細めて見る先。奈緒子の部屋にかかる白いカーテンは閉められたままだった。@



2010年。12月27日。

大橋彰が渋滞する国道一号線を西へ向かって走っているとき、彼女は東海市にいた。


名古屋市東南に位置する愛知県東海市。


いま彼女がいるのは小高い丘の上にある大型スーパーの一階食料品売場。

グレーのコートを着た女性が会計を済ませた食品を袋に詰めている。


年末の書き入れ時である食料品のレジは非常に混んでいた。彼女は食材を袋に入れ終わってから小さなため息を漏らした。ひどく疲れているように見えた。

彼女は物憂いな表情のまま買物袋を片手に歩いていく。ふと目をやったガラスの向こうではすでに空が暗い褐色を帯びていた。大きな窓はくもっているところもあれば結露が滴となって下へと流れていくところもあった。彼女は冷気によって濡れてくもった窓ガラスに顔を向けると歩んでいた足を突然に制止させた。両手に持つ買い物袋のなかでなにかが細かくぶつかった。

彼女は思う。どうして思い出すのだろう?かと。どうして私は過去から決別できないのだろうかと。過去に縛られたまま生き続ける自分が嫌いだった。醜いとさえ思った。だが。こうして結露で濡れた窓ガラスを見ただけで彼を思い浮べてしまっている。彼の笑顔。泣き顔。はにかむ表情。抱きしめられたときの温もり。キスをしたときの彼の唇の感触と吐息。

自動的にコマ送りされていく映像。たった一つの記憶の断片によって蘇る彼のあらゆる面影は残映を背景に浮かび上がっていく。


忘れないといけない。


それはわかっているのだ。

忘却の彼方に。彼を。


私はきっと15年間戦い続けているのだ。

彼を忘れるための戦いを。


彼女は窓ガラスから目を離して歩きだした。

記憶が前衛部分を支配する。





彼は息を吹き掛けた窓ガラスに指先で文字を書きはじめた。


彼女は息を吹き付けるときの彼の仕草に顔を赤らめていた。


彼の長い指は文字を刻んでいく。



―好きだよ―



彼はそう書いて私を見つめはにかんだ。そして私を抱きしめた。





出入口の自動ドアが開くと共に、ひんやりと冷たい風が彼女の身体を一気に冷えさせた。


彼女は買い込んだ食材を自転車の前カゴに入れて、手に息を吹き掛ける。

両手のなかで白い息がわずかな時間を留まった。


悴む指をもう一度さすり、息を吹き掛けてから白い毛糸の手袋をする。


西の空。


彼女はいつもの儀式のように西の空を見つめる。

この場所に来るとここから見える景色に目を奪われてしまうのだ。

広がる東海市の排他的な景色は、彼女にとって不思議に懐かしく穏やかにさえ見えた。


上空を立ち込める汚染された空気が彼女を包み込む。

汚れ朽ち果てそうな自分自身の身体と心を鎮魂し存在意義を肯定も否定もしない情景へと導くのだ。この街は。


ここにあるのは膨大な人と膨大な資源を使い、膨大な鉄を生産するだけの節理なる風景。


東海市の海際が一望できるこの場所からは、製鉄工場の煙突から流れる煙りの流れがよく見える。三本の長い煙突はまるで競いあうように白い煙りを南へと長い尻尾のように吐き出していた。


その遥か上空では雪雲が急ぎ足で駆け巡っていく。

ときに強い北風が、世の人々の浮つく心を戒めるように吹き荒れた。


その風は彼女の長い黒髪とマフラーを横になびかせていた。



いま彼女には心から愛すべき人がいる。


その愛は彼女を必要とし、その愛を彼女も必要としている。


過去の自分と現在の自分はいつしか別々の世界に分断されたのだ。



あのころの記憶。


彼女の追憶はあの事故から始まる。


幼い彼女の毎日は輝いていた。


「奈緒ちゃんと美椙ちゃんは今日は何したい?かくれんぼ?ドッジボール?」


「うーん…彰君と壮太君がやりたいことでいいわ。美椙はどっちがしたい?」


「えっと!お兄ちゃんたちのやりたいこと!やりたいこと美椙もする!」



奈緒子に手を繋がれたまま美椙は飛び跳ねていた。



「ふーん…なら…」



彰と壮太は声を合わせて言った。


「よーし!今日は探検だ!」


彰と壮太は探検といっても未知なる場所ではなかった。事前に二人で探検をして細かいところまで点検をした場所だった。ここなら奈緒ちゃんと美椙ちゃんを連れてきても大丈夫だと。


それは鉄道が走る鉄橋の下の流れが弱い川だった。


轟音とともに通り過ぎる列車が真下から見える。


「美椙ちゃん。次は特急列車が来るよ!」


「ねぇ彰お兄ちゃんも見て!すごいよ!すごいなぁ」


美椙はけたたましく駆け抜けて行く列車の隠された機械部分を見上げながら飛び跳ねて喜んでいた。


奈緒子は川縁の大きな石に腰掛けて、妹の喜ぶ姿を微笑みながら見ていた。



帰り道では、日が沈んで辺りが急に暗くなってきたのと、騒いで疲れが重なったのとで、美椙が怖がりだしいまにも泣き出しそうになっていた。


「お姉ちゃん…おうちに帰れるの…?…コワいよ。ねぇお姉ちゃん…」


奈緒子の繋ぐ手には美椙の恐怖感がひしひしと伝わってきた。


それを見ていた彰と壮太の二人がそれぞれにポーズを決めながら言った。


「なにかあったらお兄ちゃん達が守るからな!」


彰は両足を大きく開いて前屈しながら顔を股下から出して、壮太は大きく万歳をしている。

二人の最高にカッコイイと思われるポーズを見た美椙は泣き顔から一転して笑いだした。


「うん!」



奈緒子は美椙と繋ぐ手を大きく振り出した。


「強くてカッコイイお兄ちゃん二人が付いてるから怖いもの無しだよね。美椙」


「うん!コワくない!全然コワくない!」



ねぇまたお兄ちゃん連れてってね!デンシャのお腹が見えるとこ。



また行こうぜ!


うん!


さあ帰ろ。


帰ろうね。






彼女の人生を大きく狂わせたものは突然に訪れた愛する家族との別れだった。


愛する人々と突然なる永遠の別れ。

悲しみと後悔が長く彼女を苦しめた。



「なぁいいか!杉田のこと今日からみんなで無視な!もしこれからあいつと話した奴は同じ不幸な奴ってことでよろしく。そいつには必ず天罰があるから」




小学六年生のとき、彼女が廊下から教室に入ろうとしたら聞こえてきた会話だった。10人くらいの男女のクラスメートが固まって話していた。


「え?なんで不幸女なの?え!まじであいつの母親と妹って事故で死んだの?そりゃめちゃ不幸女じゃん。じゃああいつのせいだな。俺達の最悪な修学旅行って」



「不幸女!杉田は不幸女!あいつに近づいたら不幸になるぞ!なるぞ!死ぬぞ!死ぬぞ!」



彼女は扉を思い切り開けて怒りを全面に表した。



「やめて!そんなこと言わないで!」



奈緒子は涙目で怒鳴りながらも目を見張っていた。親友だと思っていた香織もそのなかにいたのだ。




彼女は幼い自分の記憶を網膜の裏に戻らせながら自転車に乗って漕ぎだす。



変わらない風だ。


何年経っても変わらない。いま感じるのはあのときと同じ、冷たく温かい風だ。



遠い昔。


遠い…

忘れないといけない過去の記憶。



「ねー、奈緒ちゃん」



彼は自転車を漕ぎなら後ろから話しかけてきた。



「風が気持ちいいよ。今日の風はすごく気持ちいい」


同じく自転車に乗る彼女は横に並んだその人を見た。彼は瞳を閉じていた。彼の長い睫毛が風を感じ安らぐままに彩っていた。

そして顔を少し上に向けて風を感じるその表情に彼女は心を震わせたのだ。

高鳴る鼓動が彼にも聞こえるのではないかと思うほどに彼女は抑え切れない感情を抱いた。



「すごく冷たいけど温かい。風は…僕達が大人になってもさ、きっと同じ風だよね。冷たいけど心温かくなる風。ねぇ奈緒ちゃん。僕らが大人になってもさ、一緒にこの風を感じようね」


彼はそう言った。


そのとき彼女も瞳を閉じて鼻から息を吸った。


「ほんとだ温かいわ」


「だろ!」


その人は満面の笑顔を浮かべた。


彼女は顔を真っ赤に染めあげて心をときめかせていた。


「アハハ奈緒ちゃん!早く漕いで!置いてくよ!小学校まで競争だ」



「あ、待って!彰君!」


奈緒子は付いていく。その人の背中を見ながら必死にペダルを漕ぐ。また笑顔が見たい。すぐにこの人の笑顔が…

いますぐに見たいから。


私の初恋…。




彼女は瞳を開けた。



彰君が言った通りね。風はいつも温かい。

表面に惑わされちゃ駄目。

感じないと。


たくさんたくさん。


彼女は強くペダルを漕ぎ出した。コートの裾がひらひらと揺れてマフラーが揺れる。


冬の冷たい北風が一瞬だけ彼女を自由にさせた。

すこしの時間だけ自由を得た彼女は一言だけ本音を口にする。


「彰君。いま君は何をしてるの?元気にしてる?」


その言葉は横を走っていく大型トラックが瞬時に消し去っていった。



「よし。帰ろう」



彼女はペダルに入れる力を強める。


家路を急ぐ。


私にはいま掛け替えのない愛がある。



奈緒子は過去と現在が分断された世界を生きている。

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