壮太との約束
乗り物で何故かエレベーターだけが酔います。
なるべく避けます。階段使います。
は!もしや
過去のなにかのトラウマ?
こちらに向かってくる女性が経理部の顔馴染みの波多野美雪だと理解した彰はおもむろに微笑みを作り上げた。
「なんだ波多野か。まだ人がいたとはな。こんな時間まで残業だったのか?」
広い駐車場の一角には営業車の白いバンがぎっしりと止められている。それ以外の車となると彰の自家用車しか見当たらなかった。ぽつりとある車の運転席のドアに手をかけたままの男とおそるおそるといった様子でヒールを鳴らしながら近付いていく女。壁際の上にある街灯は冬の風によって小刻みに揺らされながらもそれらを照らし出していた。
波多野と呼ばれた女は彰の前で足を止めると、かけるショルダーバックの紐を強く握りしめながら顔を綻ばせた。
「部長、遅くまでお疲れ様でした。あ、もしかして私って危なかったんじゃないですか?」
「え?なんだよ危なかったって」
素っ頓狂ぎみな声を出した彰に対して、波多野美雪は口に手を当てながらくすくすと笑いだした。
「だって、こちらを振り向いたときの部長の目はすっごく怖かったんです。だから私は思わずこうやって両手を上げて抵抗の意思が無いのを示しながら、私は波多野です!って叫ぼうかなって」
波多野は悪ふざけのように両手を顔の位置まで上げた
「なんだよそれ」
彰は苦笑いをしながらその手を下ろせと、上げた指先を上下に振った。
クリスマスの夜空の下、二人は笑いあう。
「ギクリとしながら思ったんです。そういえば大橋部長は武道の達人だったなって。あの瞳は私を不審者と捕捉した威圧なんだなって」
「ふっ。なんだよそれ。俺はもう達人でもなんでもない。最近は道場行けば子供達の相手だし腹も出てきたよ」
「嘘ばっかり。じゃあお腹触らせてください」
彰の肩から力が抜けていくのが波多野美雪の目にもわかった。
「でも有名なのは事実です。うちの会社の営業部長は空手の達人でテレビに出たこともあるって。いまでも経理部のみんながそう噂してます。モテモテですね。相変わらず」
彰はやれやれといったふうにそっぽを向く。
「何言ってんだよ。今日はクリスマスイブだ。こんなとこで油を売ってたら駄目だろ。彼氏が待ってんじゃないのか」
途端に子供のように口を膨らます美雪の仕種を彰は笑顔のまま見続けていた。
「あ、部長。そこは触れてはいけないとこなんです。いま私に彼はいないんです。ああ、もう。一人寂しいクリスマスがばれちゃったじゃないですか。ショックです」
美雪はこうして彰と対面しながらも親近感に包まれた話しができることに喜びを感じていた。
「部長はいまからデートですよね?」
美雪は四歳年上の若き営業部のトップである大橋彰がいまだ独身だと聞いたときは思わず身震いがしたのをいまでも覚えている。会社では彼とすれ違うこと自体が稀ななか美雪は事あるごとに営業部に顔を出した。そして遠目に見える彰の存在。
彰はいつも中央奥のデスクで何かを真剣な眼差しで取り組んでいた。白のシャツを腕まくりして覗かせる固く太い腕。そして無我夢中で仕事に打ち込む姿。端整な顔立ち。それらは美雪にあるものを連想させた。
まるで。まるで彼は白くそびえる灯台のよう。
一日に何度もその姿を変えていく灯台。見る者を魅了させていく佇まい。そして崖の上で真夜中の日本海の荒波を照らす勇ましさ。休日の彼は、夜の彼は、いったいどんな姿を贈り物として心のずっとずっと奥にまで届かせてくれるのか。
美雪は同期入社の営業部の男性に何度も探りを入れてみたのだが、幸いなことに大橋彰の浮いた話しはいままでに一切聞いたことがないとのことだった。
美雪は幾度となく同僚や大学の友人からコンパに誘われた。街を歩けば見知らぬ男が気安く声をかけてきた。
だが彰と出会ってからの美雪は、ほかの男に全く魅力を感じなくなっていた。近付く男達の何もかもが軽く薄っぺらい張りぼてのように見えたのだ。コンパでミニスカートを着て行ったときは最悪だった。男達の足元から胸元までを見る視線は獣のように臭く汚らわしいだけでありそれ以降は彼らの呼吸を感じるだけで苦痛に思えた。男達の語る言葉はただただ興醒めさせ、見せる素振りはすぐに飽きさせた。
学生の頃に何度も貪りあうように体を重ねあった男達の顔が思い浮かぶ。美雪は自らの過去にも悪寒を走らせた。
毎日、目が眩むほどの荒波を照らす灯光を求めた。営業部に足を運ぶことが何よりの至福に感じた。
彰が外回りでいないときは落胆し、デスクにいるときはこの上ない喜びを感じた。
もし。もし彰に告白をしてフラれてしまったら。もし彰を失ってしまったら。それからの私は男に恋を抱くことができるのだろうか。
美雪がここまで彰との距離を近付けさせるまでに一年以上が経過した。まずは営業部との飲み会で仲良くなった人から徐々に繋がっていき、彰と会話ができるところまで来たときは灯火の温もりを全身で感じた。
いまも彰から見れば自分は妹のような存在かもしれない。だが。
もう限界なのだ。
私は。
彰は美雪の問いに間を置いてから答えた。
「デートか。無いな。俺は帰って寝るよ。波多野は彼氏にここまで迎えに来てもらうのか?。もう遅いからな。気をつけて行けよ。じゃあな」
彰が片手をあげて車へと身体を向けたときに美雪が「あ、待って」
と引き止めた。
「あの…大橋部長」
彰はコートのポケットから煙草を取り出しながら口を開く。
「しかし…寒いな。じきに雪も降るだろうな。雪は好きか?」
灯すライターの火が何度か風で掻き消えそうになった。
「え…」
「波多野の名前。美雪だろ?いい名前だな」
波多野美雪はその大きな瞳で彰を見つめ続けている。白い頬は寒さで赤く染まる。何故か涙が流れる。何故だろう?
首にまかれる赤いマフラーが北風で揺れる。
「なんだよ…」
美雪の濡れる頬。
「実は私…。ずっと大橋部長を待ってました…」
たが勇気を振り絞り失う覚悟と共に放つ声は彰には届いていなかった。
彰は美雪の濡れる頬と赤いマフラーの光景が道なき道の過去へと急速に誘いだしていた。
それは、過去に見たある光景が強烈なインパクトとなり視界に入り込んできたのだった。クリスマスと赤いマフラー…そして…彼女の涙。
この結び付きが置き忘れた過去を繋いでいく。
封印は一年前に解かれているのだ。
沢村俊介からの電話はもう一度向き合うことを余儀なくされた。
それからは思い出したくない過去が次々に頭を過ぎり、内部は破壊と混迷を繰り返していった。
そしていま。彰は波多野美雪の首にまいてある赤いマフラーをぼんやりと見続けている。
「…あの、部長…私……今日の夜は…これから予定はありますか?やっぱりありますよね?クリスマスですし…でもよかったら…私と…」
彼女はとぎれとぎれになりながらも思いをぶつけるように聞いた。
「……」
彰の頭上から突然声が流れてきた。
それは杉田奈緒子の声だった。
いま高校一年生の奈緒子が彰の目の前にいる。
「彰君。今日はこれから予定あるのかな…よかったらちょっとだけでも一緒に散歩とか…したいな」
赤いマフラーを首にまいた奈緒子が自分の前にいた。
場所は…マンション前だ。
自分は頷いた。
「何言ってるんだ。予定はあるに決まってる。もちろん奈緒ちゃんとのデートがね。今日はクリスマス。そしてすぐに27日が来るんだ。奈緒ちゃんの誕生日が間近だ。俺と同い年の奈緒ちゃんもあと数日ってわけか。いまから散歩するか…ああ、それとも映画でも観に行っちゃう?それから」
奈緒子は恥じらいながら彰の隣りに来ると手を握ってから腕を組んできた。
「うん!行きたい!どこでも行くよ。彰君の手…すごく…すごくあったかい」
彰は奈緒子の手を握りしめていた。そして奈緒子を見つめた。
「27日にはまた一つ年上になっちゃうね」
「うんちょっとだけお姉さんになるのよ。彰君。ありがとう」
大きな瞳で見つめてくる奈緒子の頬には流れる涙。彰は奈緒子にキスをしたい衝動に駆られたが必死に押さえ込んだ。
「よし。行こう」
そのとき…背後に誰かいるのがわかった。…誰かが。
「あ、あの…部長?」
美雪は心配そうに顔を寄せた。
彰は俯いて目頭を押さえ続けていた。
「大橋さん…大丈夫ですか?」
「ご、ごめん…。ちょっと疲れかな…」
赤いマフラーをまとう奈緒子。
そして後ろにいる誰か…
奈緒子と肩を並べて歩きだしたときに突然肩を叩かれる。
そうだ。振り返ったら壮太がいた…
そして壮太はあのとき何て言った?
彰はもう一度、美雪がまとう赤いマフラーを目に留めた。
そうだ。俺達三人の約束だ。
彰は思い出した。
「2010年の12月27日は奈緒ちゃんの31回目の誕生日になるよな。俺達も30歳だ。そん時に会わないか?。あの公園で」
壮太は隣りの児童公園を指差した。
「ほんとの大人になった俺達が会うんだ。何があっても必ず再会する。いいか?お前らが結婚してたら俺は二人の子供が見られるってわけだな」
「ああ。でも俺と壮太はずっと友達だ」
「私も。壮太君とはずっと」
彰と奈緒子は壮太に頷いて見せた。
「嬉しいな。でもとにかく約束だ。たとえ何があっても俺達三人は会う。あの公園で。俺達の絆を育てたあの場所で」
会おう。必ず。何があっても。あの公園で。
その部分の記憶が鮮明になったとき彰の脳裏に一つの仮説が浮かびあがった。
もしかして壮太はその日のためにいま逃げ続けているのではないだろうか?
遠藤壮太があの人を殺した意味。
そしていまだ逃亡を続ける意味。
彰は刃物で喉を掻き切るような深い傷を残す記憶を、苦しみながらも手繰りよせていく。
思い出されていく記憶のなか、たえず闇のなかでこちらを見つめる黒い影。
そのちらつく影。
壮太が殺したあの人。
二つは繋がるのか?
壮太が何故このような惨劇を起こしたのか。
もし…
いま自分の想像していることが真実だとしたら…。
俺はあのとき…中学三年生の冬…。
途方もない過ちをしたことになる…。
北風が悲鳴をあげながら大橋彰と波多野美雪の隙間を吹き抜けていった。空き缶が駐車場のなかをカラカラと転がっていき、吹き溜まりにある枯れ葉が足元の革靴の上を滑っていく。
彰の前髪とマフラーが揺れる。
この風は彰があの悲劇に直面したときの風と似ていた。15年前の12月27日。奈緒子の誕生日に悲劇は起きた。
怒りのなかに芽生えた一瞬の虚無感がまたも襲う。
この風は、なにもかもから逃げ出したくなるときに背中を押す冷たい不条理な風だ。
彰はその風の元凶を睨む。
もう逃げ出したくはない。
美雪の白い頬を流れる涙と赤いマフラー。
そして呼び覚まされた壮太との約束。
過去へと誘わせた風は、彰の決意を嘲笑うように襲いはじめる。
壊れはじめた自分がここにいるのだ。
彰が見つめるさき。
駐車場と隣接する部品倉庫からこちらに向かってくるなにかの気配。
こめかみと眉間を押す指の隙間から得体の知れない生き物の影がこちらに近寄ってくる。
彰は瞳を充血させながら眉間にしわを寄せた。
その影はじわりじわりと近寄ってきていたが、突然落とし穴に落ちるようにして地面に吸い取られていく。そのとき影は何かを言った。嘲笑のようなものを彰に投げかけて消えていった。
地鳴りが響く。
地面が揺れ動く。
次第に立っていられないほどの大きな揺れとなり彰を襲う。
激しさを増していく揺れを皮切りに、車が、フェンスが、取り巻く建造物が、一斉にぐにゃぐにゃと波打ちだした。
彰が見る現存世界のすべてが、まやかし物だと気付かされるほどに歪んでは断ち切られていく。
「部長…大橋部長!大丈夫ですか?」
「あ…いや…大丈夫…」
よろめいたまま運転席に座り込もうとしたが、平衡感覚のすべてが奪い去られたように足元から崩れだした。
「危ない!」
均衡を失った彰の身体に美雪が咄嗟に手を差し延べた。
華奢な腕に掴まるように寄り掛かった彰は荒い息を吐き続けていた。




