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初恋。  作者: 冬鳥
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2009年12月24日

新発田市の街に住んでたころが懐かしいです

@


”そのもの”は不敵な笑みを残したまま助手席から消滅して行った。いや。決して消滅したわけではない。彰の心のなか、本来いるべき場所にただ戻って行っただけだった。


岡崎の市街地が近くなるにつれ渋滞は酷くなってきていた。雪も降り出した。すぐに積もるような振り方ではないがこの寒さだと夜通し降り続くかもしれない。明日の朝にはどれほど積もっているのだろうか。予報では愛知は五センチの積雪と言っていたが雲の流れ方によってはもっと重厚な白い世界になるのかもしれなかった。


彰は煙草を求めて助手席のシートに手を伸ばした。

火を付け吸い込んだ煙りを開けられた窓に向かって吐き出す。雪は踊るように煙りのいく道を開けていった。

繊細に落ちてくる雪はどこか弱々しく虚しげに見える。だがひとたび北風が吹いて雪が飛び違うと、これから起きるだろう事の序章を告げるように気力をぐっと溜め込んでいるようにも見えた。


突然、彰の指先から煙草が落ちて行った。火が付いたまま足元のフロアマットに落下した煙草の先は沈まない赤のまま取り残された。

いま彰は幻視に襲われていたのだ。現世と冥土の狭間で藻掻く妖怪達の苦悩が、道路に刻まれた白線の上に見え隠れしている。


彰は一年前に閉じ込めておいた過去の記憶を解放させた。

去年のクリスマスに会社にかかってきた一本の電話によって彰は再び幻覚の世界へと引きずり込まれていった。


時を同じくして”そのもの”も覚醒した。



道路の轍の傷痕にタイヤを乗せたときにカタカタと鳴る物。それは幻視をなだめるかのようにダッシュボードのなかにある奈緒子からの”お守り”が小さな音を鳴らしていた。

彰の平常心は水面下で持続される。


これだけは何度忘れようとしても忘れられなかった。


杉田奈緒子のことはどうしても消去できなかったのだ。


何年が経過しても奈緒子を感じられるものを手元に求めた。それは奈緒子と味わった幸福だけが敷き詰められたもの。五重塔のキーホルダーはいまも輝き続ける。


東名岡崎インターから国道一号線に合流しようとする車が一斉にウィンカーを点滅させていく。そして蛇はまた巨大化する。



そのとき突如見知った文字が彰の視界に入ってきた。合流しようと斜め左でウインカーを点滅させる車のナンバープレートに新潟と書かれた文字が刻まれていたのだ。


豊橋市から新潟県新発田市に転勤となってから早五年が経とうとしている。彰は大学を卒業し就職してからとにかくがむしゃらに働いてきた。時間が空けば空手道場に通った。毎日仕事と武道を限界までやり通していった。それは自分に過去を振り返させる時間を一切与えないようにするためだった。

彰は前を見続けた。



だが。

いまカタカタと鳴るお守りの音を聞きながら思う。

こうしていま名古屋に向かう自分がいるのだ。と。二度と行くまいと誓った場所にこうして行こうとしているのだ。


そして自分が次に新潟に戻るときには。いったい何を掴み何を消失しているのだろうか。

いまから向かう名古屋の地は果して自分を必要としているのか。


いまは何もわからない。



だがとにかく行くしかないのだ。



新潟ナンバーの黒のワンボックスがハザードランプを点滅させながら合流してきた。



彰は煙りを外に吐き出す。

雪が頬に落ちた。



おそらく新潟では断続的に雪が降っているのだろう。それはきっと人間にとって脅威となる雪だ。



壮太との再会を果たすべく名古屋へと向かう。


これから”そのもの”は間断なく彰の支配を狙うだろう。虎視眈々と機会を伺い続けるのだ。


16歳の彰がもし豊橋へと引っ越してからも過去と決別をせずに拘泥し続けていたら”そのもの”は呆気なく彰の全てを乗っ取っていっただろう。


そしていま。過去と向き合うと決めた彰は戦い続けないといけない。過去はもう過去なのだ。そこには変えられない苦しみが有りつづけるのだから。


決別をしたはずの過去をほじくり返すこととなったきっかけ。


事の始まり。

いや、事の再開を告げる笛が鳴ったのは、いまから一年前のクリスマスだった。新潟県新発田市内の彰が勤める会社に一本の電話が鳴ったのだ。



「部長。電話です」


パソコンに見積り書の入力をしていた彰は事務員の声に顔をあげた。



「誰?」



仕事関係ならばデスクに置かれる携帯電話にかかってくることがほとんどだ。

この営業部の直接自分当てに電話をしてくるのは会社の上役くらいになる。

いやはや。今日は何を言われることやら。

昨日は専務取締役からの叱咤激励をくらったばかりだ。果たして今日は。


「さては社長か?」



豊橋に本社を置く機械部品中堅メーカーであるこの会社はいま新潟での新規開拓に力を入れていた。なぜ新潟か?それは簡単な理由である。震災があれば復興に使う機械が売れるからだ。人が災難に合った日を吉日と見る。震災に見舞われた新潟中越をビジネスとして捉えたのだ。

その先頭を切るのが、若くして営業部長にまでのし上がった大橋彰であった。30人の営業部の社員を先導していく役目も兼ながら新規顧客を開拓していく。

洪水のように押し寄せてくる重役達の期待を一身に背負う新発田支店営業部は毎日が戦争だった。


とくに年末においては一分一秒でも無駄にはできない忙しさだ。見積書を作成したらすぐに得意先を回る。予定は午後九時までびっしりと埋まっている。たとえ今日がクリスマスだとしても変わりはなかった。


彰はいま事務員への受け答えも煩わしく思えていた。パソコンのモニターを見ながら事務員の女性の名前を営業部の通称で呼んだ


「まりちゃん。どうせ社長か専務だ。誰でも関係なく適当に外出とでも言っておいてくれ。ったく。この忙しいときに本社は呑気なものだ。豊橋や他の売り上げの悪さをこっちにぶつけてきやがる。まりちゃんから嫌味を言っておいてくれ、君なら許される」



ぶつぶつ言いながらパソコンのキーを叩く彰に事務員は困惑そうな顔をした。



「あの…いえ…それが、部長に愛知の沢村と言えばわかると言ってますが…外出中と言いましょうか」



「なに?愛知の沢村?」



誰かわからなかった。

沢村という名字に心当たりがないのだ。愛知県といえば16歳から25歳まで住んだ豊橋市となる。それ以前の記憶は強制的に抹消している。唯一あるのは杉田奈緒子と共有した僅かな幸福の時だけだった。



「わかった」


彰はパソコンのモニターから顔を上げると無表情のままに立ち上がり事務員のまりちゃんに目を向けた。


「何番?」




「三番です」



紺のネクタイを小さく揺らしながら腕を伸ばし受話器を手にしようとしたとき、頭に鋭い電気のようなものが走った。

思わず額に手を当てる。

なにか得体の知れないものが頭を締めつけてくるのだ。


沢村…



「部長…大丈夫ですか?」



彰の異変に気付いた事務員が心配そうに声をかけた。他の社員達もこちらに顔を向ける。



「いや…大丈夫だ」



何かが電話に出るなというのか。出たらお前は後戻りできなくなるというのか。



沢村…。


思い出そうとすると締め付けてくる何かがある。


―解放を望まないならば―


奈緒子の顔と声が浮かんだ。



―電話には出ないで―



それは奈緒子の声だった。


奈緒ちゃん…。


彼女とはもう何年会ってないのだろう。



沢村?もしや…。


彰は表情を変えて3の数字を急いで押した。



「大橋ですが」


言った矢先だった。




―彰か。俺だ。わかるか?―



懐かしい。あのころの尖んがった声と顔が浮ぶ。


「シュンか。久しぶりだな…元気にしてるのか?」



―俺のことはいまはどうだっていい。彰…。実は大変なことになった―


俊介はそれから口早に、だが正確に彰に何があったかを伝えた。


受話器を持つ彰の手が震えだした。



「なんだと…どういうこだ…もっと…もっと詳しく教えてくれ!」



怒声をあげる彰に営業部の皆が一斉に注目した。




「わ…わかった。…でもシュンすまない。俺は…行けないんだ…すまない…。と、とにかく何かわかりしだい連絡をくれ。俺の携帯番号は―」


彰が携帯番号を伝えると電話の向こうで俊介が紙に控える音が聞こえてきた。



―わかってる。お前が名古屋に来れないのはな―




「わかってる?って…どういう意味だよ」



―いまのは気にするな。とにかくお前に事件のことだけ伝えたかった。杉田奈緒子にも関係あることだからな。だが心配すんな。あの子がやったわけじゃない。とにかく進展がありしだいまた連絡する。これからニュースにもなるだろう―



俊介との会話によって全ては始まった。

彰は閉ざした過去への扉を自らの意思によって再び開けることとなった。



数日して再び俊介から携帯電話に連絡があった。



―もしかしたらあいつがお前を探して行くかもしれない。そんときはどうするか。お前が決めろよ―




俊介と電話で話してから数日経過したころに彰はあることを思い出した。

それは壮太と交わした約束だった。


親友を思う気持ちによってその断片の記憶は彰の目の前に現れたのだ。



2010年。12月24日。


あの事件。そして俊介からの電話から一年が経っていた。



「さてと…帰るか」


請負受注書をまとめて時計を見るとすでに時計は22時を回っていた。

乱雑としたデスクにある携帯を手にして着信履歴を見た。今日も沢村俊介からの電話はなかった。

あの事件からもう一年が経つ。

だがマスコミは飽きもせずにいまだに毎日事件を取り上げ続けていた。



一年前の2009年12月24日。クリスマスイブ。


愛知県稲沢市で殺人事件が起きた。

被害者は自宅にて包丁で刺され死亡。


めった刺しに刺され絶命していることから怨恨の線にて捜査。容疑者はすぐに浮かび上がった。


だが包囲網をかい潜りいまだ逃亡中。



被疑者。現職警察官遠藤壮太。



日本全国でこの名前を知らない人はいないだろう。



彰は今年こそは名古屋に行くつもりだった。


それは壮太との約束を思い出したからだ。



…聞きたい…。


壮太に聞きたい。


どうしてあの人を殺したのか。


どうして逃げ続けているのか。


それは…

奈緒ちゃんのためにしたことなのか。




営業部がある三階で仕事を終えた彰はグレーのハーフコートを纏い黒いマフラーを首に巻き付ける。


階段を使い一階まで下りて裏口の扉を開けると強い北風が吹き荒れた。

だが雪が降るような風ではなかった。湿り気が感じられない凍てつく風だった。

駐車場に停めてある自分の車近くまで来たときに後ろから女性の声で呼び止められた。


「…あの…大橋さん…」


名前を呼ばれて振り返ると、よく見知った女性が立っていた。

佇まいに品がある人だった。

この時間にもなると会社に残る社員はほとんどいない。見上げるビルの窓はほとんど明かりが付いていない。彼女は彰が来るのをこの場所で待っていた。

三階の営業部の明かりが消えるのを待ち、彰がここを通っていくのを待ち続けていたのだ。

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