猛禽の洞察
まだまだ暑い日が続きますね
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茶色に染めあげられた短髪をぼりぼりと掻き分けると指先がべたりと濡れた。見ると粘っこい樹液のようなものが親指と人差し指に付着している。それが西に傾きかけた日に当たり光って見えた。
ちっ。
この手を無性に洗いたい衝動へと駆られていく。しかもその原因はといえば自分の頭皮から出た汗と脂なのだ!
なんとも陰鬱になる。
いま居る場所は中学校の正門横の木陰であり、ここから水道に有り付くためには体育館のなかのトイレか手荒い場まで行かないといけない。
私服姿の沢村俊介はしばらく掌を見つめてから、もううんざりだという顔をする。
ほとほと嫌になる。
ここに来てから30分は経とうとしている。その間に着るシャツは汗を吸い込み続け、それが今やじとじとした感触となって半身を汚し続けている。
俊介は不快感をあらわにしながら、はだけた胸元に手をやり風を送り込んだ。白く薄い胸板が覗いた。
とにかく俊介は夏が好きじゃない。
こうして汗を滴らすことに苦痛すら感じるのだ。
他人の汗ともなれば悪臭漂う排泄物だ。(何故か彰の汗だけはそう思えない)
盆が過ぎて夏祭りが終わり八月もあと数日で終わる。俊介は久しぶりに学校に来ている。
学校は相変わらず汗くささが蔓延していた。
夏は嫌いだ。
そして夏休みが嫌いだ。彰に会えない日々に焦燥すら覚えている。
だがそれもあと数日で終わる。
不快のみの暑い日はまだ続くだろうが夏休みが明けるのは確実的に間近だ。
そう思うと涼しい風が頬に当たったように心が軽くなる。
しかし。ここまで九月が待ち遠しいと思うのは異常だな。世の中のガキは夏休みが終わるのを歎いているというのに。
―俺は狂ってるのか―。
生粋の変態野郎になりつつあるのか。
だがそう悔恨する度に、前にいる影が振り向いて名前を呼ぶのだ。
お前はいつもなにか思い詰めた瞳をする。俺はその先にあるものを一緒に見つめていたいんだ。
俊介は正門付近の木にもたれ掛かりながら煙草に火を付けると大きく吹かした。
夏の空に向けて吐いた煙りは無風のなかしばらく辺りを漂っていたが行き先を見つけたように朱く染まり始めた西の空に吸い込まれていった。
彰のことを考えていると、いま支配する不快感を多少紛らわすことができた。
前方に目を移すと体育館の扉の隙間からバレーボール部の練習風景が見えた。
シューズが鳴る音に飛び散る汗。
ほんの隙間から垣間見たそれは俊介にとってはとんでもなく残酷なものを見たようなものだった。
うんざりだ。
ここに来てから三本目の煙草を吹かし終わるころにはいまここにいることが非常に馬鹿らしくなってきた。
何故この俺が汗を垂らしながらしかもこんな薄汚い光景を見ながら時間潰しをしなくちゃいけないのか。
ここにいる理由。それは俊介は夏休みの間、彰のこと以外にもう一つ気になることがあったからだ。
その気掛かりを確認するために、一人の女がここを通り過ぎていくのを今か今かと待っているのだ。
「おせーな」
独り言を口にしてからすぐに次の煙草に火を付ける。
何気なく体育館を見ていると体操服を汗でびしょびしょに濡らした二人の男子生徒が半開きの扉を開けて顔を覗かせた。するとすぐに向かいの木立の陰で煙草を手にする茶髪頭の不良がいることに仰天したのか慌てて扉を閉めて引っ込んでいく。
「よくもまぁ」
俊介は消えた残像を睨みつけながらまた呟いた。
あんなに汗で身体を濡らし排泄物なる悪臭を発してまでやるものだろうか?
チャイムが鳴り響くなか俊介は煙草を吸いつづける。
一匹の蚊が俊介の腕に止まり針を皮膚に突き刺していく。それをぼんやりと見つめていた俊介は十分に血を吸わせ腹を桃色に染めさせてから白い息を吹き掛けた。
慌てて逃げていった蚊のあとにできた痕跡からはひりひりとした痒みが伝わってくる。そこに煙草を近付けていく。
ジュッと皮膚が小さな悲鳴をあげた。真っ赤に滾るような煙草の先端を軽く押し当てたのだ。
虫刺されの痒みと火傷の痛みが混ざり合う。
何度もジュッジュッと押し当てると完全に痛みが痒みを凌駕した。
さて。
いったい俺は何をしてるのかと自嘲したくなる。
わかっている。
俺は過去に捕われたままなのだ。
だからイジメという言葉に敏感に反応してしまうのだ。
私服姿の俊介は、正門を潜っていくカッターシャツを汗で濡らした男子生徒を睥睨した。
「くそ。おせえな…」
苛々した感情に身を預けたままに短くなった煙草を投げ捨てたときに、待ちわびた女が友人一人を伴って正門に近付いてくるのが見えた。
「須田。おっせーぞ」
二人のうち背の高いほうの女がぎょっとしながらこちらを見た。
「え…?なんで?やばっ沢村君だ…」
「おい。人を見て開口一番にやばいってなんだよ」
俊介が睨みつけると樹里は何歩か後ずさった。
「おせーよ。お前をここで待ってたんだ。くそ。汗かいちまった。早くシャワー浴びたいから歩きながら話す」
「夏だから汗はかくものだけど…」
「うるせえ。汗は排泄物だ」
俊介が先に歩きだす。
「ところで沢村君。話ってなに?も、もしかして…私に告白とか?」
俊介がものすごい目つきで振り返った。
「うぜえ。そのジョーダンは虫ずが走る。二度と言うな。お前にコクるわけねえだろ。早く行くぞ。そいつも吹奏楽か?」
樹里の隣りにいる女は怯えるように激しく首を横に振った。
「なら先帰れよ」
俊介は女を見て顎をしゃくろうとしたが、女の顔を見て驚いた風を見せた。
「おい。麗奈じゃねえか」
俊介は樹里の友人の春日部麗奈に軽く微笑みを見せた。
「シュン君。久しぶりだね。残念ながら私はお邪魔みたいですね。私はソフトボール部ですし」
俊介は麗奈の言い方にまた八重歯はわずかに覗かせて微笑みを返した。
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樹里は俊介の斜め後ろを付いていく。
「沢村君ごめん…。部活終わってから麗奈を待ってました。それでちょっと遅くなっちゃって。ところで話ってなんでしょうか?」
どうして私が謝らなければいけないのだろうか?。しかも敬語?樹里は途中で首を傾げたくなった。
「まあ許してやるが待たされる身にもなれよ。それで最近はどうだ?夏休みはどうだった?」
衿を立たせた水色のシャツを着る俊介の背中を見つめる。
「え?最近?」
樹里はそう言いながら、以前この道を同じように男性の背中を見つめていたときのことを思い出していた。
動物病院はどっちだ!
猫を抱き抱えた彰が走っていく。
樹里はその背中を必死に追いかけた。息を切らし足をもつれさせながらもあの背中から離れまいとしがみついた。
出された答えはライトの死だった。
それは辛く悲しい結果だった。
だが二ヶ月ほど前のその記憶は樹里にとって宝箱におさめるほどにキラキラと輝いている。
「どうなんだ?」
俊介が足を止めて振り返った。樹里はすぐに田園に顔を向けた。相変わらず沢村君は厳しい瞳をすると思った。
人間が本能的に忌諱ととらえる瞳なのだと思った。
だがこんな丸ごと凶器みたいな人が女の子にモテたりするのだ。それを聞いたときは正直驚いた。
「樹里はいいなぁ。A組はいい男揃いだよねぇ」
一年D組の小学校からの友人にそう言われた。
「え?A組?そ、そんなの不細工揃いだけどな。ちなみに、だ、だれのこと?」
樹里は彰を想像していた。もし友達に大橋彰と言われたら腹立たしさを覚えるだろう。他の女に(たとえ友人であっても)彰の名前を気安く呼ばれたくはないのだ。
「うちらで人気があるのは沢村君かなぁ。マジ不良て感じがいいのよねぇ。あの目つきもやばくない?小学生のときからかなりのレベルアップよね」
沢村俊介の名前を言われその理由も聞いたときに樹里はため息をつきたくなった。沢村俊介の良さは外見でもぶっ飛んだ不良なところでもない。猛禽の瞳が極々たまに笑ったときに見せる少年のような無邪気さでもなくそのとき奇跡的な珍獣を発見したように覗かせる八重歯でもない。
わかっていない。
クラスメートのA組の女子達も知らないだろう。
私にはわかる。
彼の魅力は恐怖のなかに宿る完璧なる洞察眼なのだ。外見はまったく好きじゃない。猛禽類は小動物から見れば悪魔的な存在なのだ。
「沢村君ていま彼女いるのかなぁ。ユキとはすぐに別れたって噂だからいまはいないのかなぁ。樹里はなにも知らない?」
はぁ。
樹里はなにもわかってないなと友達に言いたい気持ちを必死に我慢した。
沢村君と付き合うなんてことは紛争地帯に手ぶらで行くようなもの。
「A組は他にもいるよね。あとは」
「待って!」
樹里が広げた手を相手の口元に持って行った。
「この話しは終わり。男の話しなんてつまんない」
大橋彰の名前を言った時点で私はこの子を軽蔑してしまう。
俊介の背中と彰の背中。
樹里はいま必死に彰の背中を思い出していた。
克明に思い出せない。
夏休みは長い…。
「どうなんだ?」
俊介が苛立つように振り返りもう一度聞いた。
「…え?まぁ順調よ。私は風邪もひいてないし、もちろん宿題は全て終わってる」
「ばーか。お前のことなんかじゃねえよ。なんで俺がお前の案配を気にしないといけないんだ」
「あれ?」
もとい。やっぱりこの人はすべての魅力の温もりを掻き消す冷たさを持つ人。
「お前の話しなんかしねえよ。杉田だよ、杉田。どうなんだ」
樹里は俊介の聞きたいことを理解した。杉田奈緒子。二年生の先輩で日々壮絶なイジメのターゲットととなる人。
夏休み前に樹里は俊介に打ち明けていた。
私は助けてあげたい…。杉田先輩を
俊介は忘れずにいたのだ。それが樹里には嬉しい。
だけどわざわざ校門で自分を待ってまで…
不思議な人だ。
冷酷で謎めいた人。
「何かわかったの?」
「ああ。いろいろとな。だが思ったより細かい情報は少なかった。それで夏休みはどうだった?」
樹里は歩を速めて俊介と肩を並べた。
バニラの甘い香りがした。
「ひどいよ。変わらず続いてる。この前は部活終わってからクラリネットを取られて隠されてたみたい。公然と暴力もあるわ。ひどいの…イジメってレベルを超えてる。あれはリンチよ。同じ人間だと思ってないやり方なの。まるで少年が昆虫とか蛙とかをいたぶる感じ。…それでも杉田先輩は休まずに来るの…。私なら…私なら絶対に無理よ。」
「そうか…」
「沢村君。なにか打開策はありそう?味方になってくれる先輩とか見つかった?」
学校から少し離れると田園に囲まれた道になっていく。
「いや。集められた情報は最悪だったな」
「え…」
樹里が立ち止まる。俊介はそれを無視するように歩き続ける。
「杉田のイジメには多数の男も絡んでやがる。しかもどうも佐野…。二年を牛耳るトップがイジメを扇動させてるみたいなんだ。吹奏楽の女達もなにかしらの圧力によって杉田をやってるかもしれん」
「な…何よそれ…男もって…」
「だから言っただろ。最悪な状況だってな。理由はわからないがあいつらはゆくゆく杉田を殺すつもりだ」
俊介が足を止める。
「須田。お前は逆上しやすいし、つまらん正義も抱えていやがる。おそらくお前は目の前で繰り広げられる理不尽さに限界まで来てんだろ?いつ衝動で立ち上がり杉田を守るか。お前自身がそれを待ちわび怖がっている」
「沢村君…私…」
樹里の身体が震えだす。
「お前がリミッター越えして杉田を助けるまえに必ず俺に言え。一人で動くなよ。わかったな?敵は腐った化け物だ。お前が一人で動いてもあっさりと喰われる」
じゃあな。言いたいのはそれだけだ。早くシャワー浴びてえ。
「うん。わかった…沢村君ありがとう…」
悔しいけどちょっとかっこいい…かも…。
樹里は離れていく俊介の背中を見送っていた。彰と違い骨と皮だけの薄く小さな背中だが、洞察力と真実の正義感という鮮やかな紋章が背中を彩っているのが樹里の目には見えていた。




