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初恋。  作者: 冬鳥
3/85

奈緒子の修学旅行

彰が後ろから壮太の背中へと勢いよくタックルするようにぶつかっていくと、

「わぁっ」と、壮太はびっくりした声を出したが、それが彰だとわかるとすぐにふざけて、彰がはく半ズボンを両手でひょいと四つに持ち上げてガードレールの上に尻から乗せた。先端の尖んがった部分が彰の尻を真横から一文字に責める。


「わぁわぁごめんごめん」


キャッキャッと喜ぶ彰と、にんまりと笑いながら鼻下を拭う壮太。


周りにいる同級生達も彰のはしゃぐ姿を見ながら一様に笑い声をたてた。


おっちょこちょいでお調子者で負けず嫌いで泣き虫。大きな瞳と色白な肌が印象的でかけっこは誰よりも早い。

彰は五年一組のムードメーカーだった。


そんな彰を壮太だけはたまに首を傾げながら見る。


彰はちょっと無理してるな。


幼児のころから一緒に遊んできたからわかるものがある。


壮太はそんな彰のことがたまに心配事にもなる。



「今日はこれからなんかやるの?みんなで遊ぶ?」


半ズボンから覗く彰の白い足が動いて小石が蹴られた。


「当たり前だ!今日はこれから家に帰ったらすぐにただいま、いってきますだからな彰。よし!すぐにみんな公園集合!そっからユニーのおもちゃ売場直行!」



「いいね!行く!」


マンションから自転車で10分ほどの場所にあるユニーは四階建てのショッピングセンターだ。


小学五年生になったばかりの集団は彰を得ていっそうに騒がしく固まりながら歩いていく。


青い橋を越えると左手に大きなブラシ製造工場があり、空を見上げれば南北に延びる巨大な高速道路のコンクリートが覆っている。


「そうだ!」


高架下の日陰のなか、誰かが思い出したかのように大きな声で仲間達に話しかけた。

甲高い声が遮る上壁に跳ね返り木霊(こだま)する。


「知ってるか!明後日から六年生は修学旅行なんだってさ」


「そうなんだ?修学旅行か。いいな〜」


彰が呟くと隣りを歩く壮太が肩を軽く叩いてきた。


「来年は俺らも必ず行けるって。で、修学旅行ってどこ行くの?」


「確か京都じゃなかったっけ?」


「京都?京都ってあのでっけえ大仏がいるとこか?おお!行きてー!俺が睨みつけて大仏様を眠りから覚まさせてやるぜ。見てみろ。怖いだろ?」


壮太がくしゃくしゃな顔をして目をこれでもかと細めると、その表情にみんなが笑いこけた。


「壮太君ごめん。たぶん大仏様は笑い転げると思うよ。あれ?でも京都って大仏いるんだっけ?」





一泊二日の修学旅行。


京都とはいったいどんな街なのか、なにがあるのか、

彰達五年生は来年の学校行事を想像してワクワクと胸を躍らせはじめた



高速道路の下を潜り抜けると西日が背中に当たり始めた。

最後尾にいた彰は振り返ってみる。


あ、いた。



ちょうど奈緒子が二人の女子と一緒に青色に塗られた橋を渡っているところだった。



奈緒ちゃん… 京都へ行くんだね。



どんなところなんだろう?奈緒ちゃんが帰ってきたらたくさん聞こう。


でも…

彰は先程見せた奈緒子の苦々しいとも見えた表情を思い出して再び落胆する。


僕は嫌われてるのかな…


「彰何してんだ。それ!」


「うぎゃ!」


立ち止まり振り返っている彰の尻に人差し指を突っ込んでにんまりとする壮太。



三日後。


六時間目の授業が終わってみんなが帰りの準備をしている時に、職員室に行っていたルームメイトが騒ぎながら教室に入ってきた。


「大変だ大変だ!いま、職員室にいたら先生達が話すの聞こえちまったんだけどさ、修学旅行のバスが事故したって!」


一斉に騒がしくなる教室内。


「ええ!事故?」


「事故なら大変なことになってるんじゃない?」


「もしかして六年生の誰か死んでるとか!」


誰かがそう言ったときに壮太がすごい剣幕になり怒鳴りつけた。


「うるせえミツ!おまえ死ぬとか言うな!もう絶対言うなよ!わかったか!また言ったらわかってんな!承知しないからな!」


ミツと呼ばれる男の子は、壮太の地鳴りのするような怒鳴り声に畏縮して涙をぽろぽろと流し始めた。


「ごめん…」


泣いて謝るミツのところまで行った壮太は、ミツの頭にコツンと掌を載せた。


「わかってるさ、いまのはミツのジョーダンだってな。でも死ぬって言葉は誰も聞きたくないだろ?誰も死にたくないだろ?ジョーダンでも言っていいことといけないことがあるからな」


ミツはまた「ごめん」と言った。



壮太もきつく言ってすまんと謝った。



リーダーである壮太がミツの失言に怒鳴ったことにより教室はすぐに落ち着いたが、ヒソヒソと皆が小声で話すのは続いた。


そして生徒たちの間で不安が水かさいっぱいになったころに、担任の先生が教室に入ってきた。


教壇に立った教師よりも先に、壮太が一番後ろの席から声を張り上げた。


「先生!六年生の乗ったバスになんかあったの?」


「遠藤。どっから聞いた?」

先生の顔は暗い。


「先生!それは何組のバス!」


壮太は身を乗り出して叫ぶように教師に問い掛けた。

「先生!事故したのは何組のバスなの?一組?二組?おっきい事故なの?怪我した人いるの!」


捲し立てるように聞く壮太に担任教師は苦虫をかみつぶしたような表情を作る。


「遠藤、まあ落ち着け。まだ詳しいことはわからないが大きな事故じゃないのは確かだ。さぁみんなも心配するな。よしホームルーム始めるぞ」


「ちょっと待って!先生!何組?何組のバスなんですか!事故があったのは何組!」


壮太は椅子を蹴るように立ち上がって机に身を乗り出していた。


「おい…どうした遠藤」


担任教師は遠藤の動揺加減に驚きの表情を見せた。


「一組?二組?ねぇ!先生!」



最後の先生という言葉は、がなるように強い口調だった。


教師は思わずたじろぎながら言った。



「二組だ」


教師の応えに壮太は、三列前にいる彰と顔を歪めたままに見つめ合った。



奈緒ちゃんのクラスだ…彰と壮太の脳裏には同じ光景が映り込んでいた。

えぐり取られたように胸がちくちくと痛みだす。


二人に聞こえてくる…あの土砂降りの地面を叩くあの音が。

こめかみをつんざくような記憶が蘇る。


「くそったれ!」


壮太は拳骨で机を思い切り叩いた。

激しい音が教室中に響き渡り生徒たちが一斉に驚いた。

「遠藤…ど、どうした?だ、大丈夫だ。決して大きな事故じゃないんだ。先生達が確認したら修学旅行のバスはきちんと京都からこちらに帰ってきているとのことだ。遠藤…六年二組に友達がいるのか?心配するな。怪我人も出ていない」



担任教師はいま驚きの表情を隠せないでいた。四年生から遠藤壮太の担任をしているのだが、彼がこんなに血相を変えたことはいままでになかったことなのだ。元来、粗野な部分が目立つ子ではあるが、実際、彼のおかげで私は楽をさせてもらっているんだと担任教師は思っていた。

いまどの学校でもクラスでも、程度は違えどあると言い切れるイジメは、このクラスにおいてはらしき断片の気配すら感じられない。授業中の私語もほとんどないくらいだ。それでいて生徒全員には結束力があり休憩時間は和気あいあいとしているのだ。学校の行事だった合唱コンクールでは見事に優勝してしまったし、運動会では、このクラスの応援があまりにも統率された熱狂的声援であり、それが他のクラスや保護者達をも巻き込み最終的には運動会自体を感動巨編映画みたいに変えてしまった。


教師はクラスに子供達をまとめあげるリーダーがいるのといないのでは、背負う負荷指数はまったく違うということを身を持って習得できた。

リーダーがいてなおかつ遠藤壮太のようなリーダー。

理想中の理想であった。


壮太のような男の子。


教師はたまに自分が同じく小学生だったときのことを考えた。


もし同級生に遠藤壮太のような男の子がいたらどんなによかったことか…。

教師は小学生のときにイジメを受けたことがあった。些細なる小さな仲間外れだった。

それでも教師の心は深く傷ついた。中学、高校、大学と成長するにつれてその古傷の痛みを正当化へと転換し、自己に自負を与え、そしていま教鞭に立っている自分がいる。だが実際にはいまでもそれがトラウマとして残っているのがわかる。

そのトラウマはこうして教師となったいま、時折、如実に眼前にて挑発してくるのだ。私はこれからもその内部の傷を抱きながらも教師を続けていくのだろう。きっと彼に聞けば彼はこう言う。その傷の痛みがあるから先生は先生なんでしょと。優しい先生なんでしょと。




給食時間。皆が笑いながら食事してるとき、教師は遠藤壮太に釘付けになるときがあった。

もし私が君達くらいのときに、遠藤壮太君のような男の子が私の同級生でいたならば、私は…いったいどんな道を歩んでいたのだろうか?

教師は大きな口で給食を頬張る壮太を見て微笑む。


いや…。きっと君は僕の頭をコツンとしてから「お前は頭いいし優しいから先生に向いてるぞ」

そう言うだろう。きっと。

教師はこの教鞭を執る場所で、彼の類い稀な統率力を垣間見るたびにあらゆることを考えてしまうのだった。


その彼が。いまは目的地を見失った渡り鳥のように混乱しているのが手に取るようにわかった。


さては。恋でもしているのかな…。


教師はふとそう思った。

教師の網膜の裏側で我が妻をまだ愛していた時代が思い浮かんだ。


恋をした女の子が六年二組にいるのか…。


そうなると混乱したリーダー遠藤のことが納得できる。

さては初恋か?


教師は安堵の息をもらした。


彼は幼くしながら凄まじいほどに人を引き付けていく。


私はもう40歳の中年だ。

そんな私が11歳の彼に翻弄されている。


教師は知らない。

遠藤壮太が空手の世界でどんな大人達に出会いどんな影響を受けて成長してきているかを。

それは大橋彰においても同じであった。


ただ、彰の場合は壮太とはまた違うところへと意義を持っていくことになる。




壮太は椅子にどかっと腰を下ろしてからもしかめっつらを続けていた。


三列前にいる彰は両手で顔を覆っていた。


きっと奈緒子は怖い思いをしたのだろう。

迫りくる痛みに怯え慄いたのだろう。


それを考えるたびに二人を混乱させて消沈させた。



彰と壮太は学校で待っていたが、先生から「暗くなったからもう帰りなさい。バスは無事に帰ってきてる」と、何度も言われたので渋々マンション横にあるいつもの児童公園まで来ていた。二人は終始無言のままに公園内部のそれぞれの場所にいた。

日はすでに暮れており、

二つの人影は暗闇に溶け込みつつあった。


前の道路を自転車に乗った背広姿の大人や学生服を着た高校生が徒歩で通り過ぎていく。

誰かが横切っていくそのたびに、二人の視線は素早く動いていた。



「遅いな…奈緒ちゃん…」


彰が砂場に座り込みため息混じりにいうと壮太のしわがれ声がすぐに返ってくる。



「大丈夫だ。なんにもない。あるわけないだろ?」


「う…ん」



帰りを待つ二人。

彰は奈緒子が公園前の道路の右側からひょいと現れるのを何度も想像した。

いままでこの場所から、彰は向かいの道路を歩いていく奈緒子を何度見てきたというのか。幼いころからそれこそ数えきれないほどに、奈緒子がたくさんの妖精を引き連れるがごとく純白の服装を身に纏い右から左から現れたのだ。彰はすぐに名前を読んで手を振る。奈緒子は公園のなかへと足を踏み入れる。その瞬間に公園内部は別世界になるのだ。奈緒子が連れる妖精達は遊具から遊具へと飛んでいく。その都度変えていくのだ。この小さな児童公園をエデンの園へと。




彰は心を落ち着かせようと360度の風景をゆっくりと見渡していく。公園のすぐ東側の真横にはクリーム色に塗られた四階建てのマンションの壁がそびえ立っていた。子供達はその壁にボールを投げては遊ぶ。

彰の視線は動いていく。

公園入口がある南側では道路を挟んで広がる田園の稲穂が揺れていた。

そしてすぐ近くには遊び慣れた滑り台にブランコに鉄棒がある。傷や錆がどこにあるのかわかるくらいに親密な遊具達だった。

公園隅には誰かが置いていった大きなボールが照明の明かりに照らされ、ベンチ脇に広がる雑草は膝丈まで伸びて暗闇のなかざわめいていた。



何も変わらないよ。

奈緒ちゃん…。



彰は奈緒子の声を心のなかで聞こうとした。


いま僕らは何も変わらないいつもの風景のなかにいるんだ。


奈緒ちゃんもいま…変わらない風景を見てるよね?



彰はうなだれる。

そして込み上げてくる涙。

必死に涙をこらえながら彰は親友に助けを求めるように掠れ声をだした。


「壮太…。もし…もしなんかあったらどうしよう」


滑り台の上の台座に座る壮太は腕を組んで何かを睨みつけていた。



「馬鹿野郎!何泣いてんだ!泣き虫野郎め!なんにもない。あるわけないだろ!とにかく待つんだ!」


壮太は大声で怒鳴ったあとに彰が涙を拭こうとしないのを見てまた怒鳴る。


「涙拭け!約束しただろ!」


壮太は勢いよく立ち上がると滑り台に重い身体を預けて下まで滑ろうとしたがまったく滑らなかったので、舌打ちをしてから手漕ぎで下までいくと彰から離れるようにブランコへと向かって行った。


「もう泣いてないから!」


彰が壮太のところまで届くように大声でいうと壮太は

「次また泣いたら痔になるくらいのカンチョーだからな」


といった。



二人は腹がどれだけ鳴っても家に帰る気持ちには到底なれなかった。


彰は何度も袖で顔を拭い、壮太はしかめっつらのまま腕組をし、二人が見つめる方向はただ一途に向かいの道路がある方だった。


そして

そのときがくる。


一台の車が通り過ぎてから二つの人影が公園前の道路に現れたのだ。



「あ!奈緒ちゃんだ!」


彰と壮太は同時に名前を呼んで駆けていく。


オレンジ色の弱い照明に照らされた奈緒子を二人は瞬時にわかった。


それは背中までかかる長い髪。

彰と同じくらいの背。

白のカーディガン。

そこだけの空気が澄むような優しい佇まい。そこだけの風が和らぐような柔らかい微笑み。


彰と壮太は息を切らしながら奈緒子の前に飛び出た。



「奈緒ちゃん!大丈夫だった?事故があったって聞いたけど」


二人は不安な表情のまま奈緒子に怪我がないかを確かめるように全身を細かく見届けた。


「うん。大丈夫だよ」


奈緒子はクスッと笑ってから


「じゃあね 香織ちゃん」


「うん。また明日ねバイバイ」


奈緒子は手を振って友達を先に行かせる。


香織は彰の顔をじろじろと観察するように見てから歩きだしていった。


公園の前、三人だけになると奈緒子は微笑みながら二人を見た。


「うん。車の事故があったけどね大丈夫だったよ。怪我もないよ」


「事故のとき怖くなかった?」


「うん。大丈夫」


それを聞いた彰と壮太は全身の力が抜けきったようにへなへなと地べたに座りこんだ。


奈緒子の大丈夫だよの言葉と微笑みのセットをどれだけ想像し待ち焦がれたことか。


「ありがとう。心配してくれて。ありがとう。ほんとに…嬉しい」


奈緒子の顔は泣き笑いに変わっていた。@

公園の前、三人のそろった足先は家路へと向かって動き出した。大きなバックを持つ奈緒子がまず先に歩きだし彰と壮太もすぐに続く。いつもの形だった。公園からマンションまではどれだけゆっくり歩いたとしても二分もかからないような距離だが、彰と壮太は阿吽の呼吸のごとく奈緒子を取り巻くいつものフォーメーションを作りあげた。それは二人のなかでごく自然と決められていった。奈緒子を中心に外敵から守るように彰が左側で壮太が右側を固める。ハートは大きくみなりは小さなボディーガードだ。彰は奈緒子の流れる後ろ髪に見え隠れする壮太の横顔をちらりと見た。二人は視界の片隅にたえず彼女が映るようにわずかばかり後ろを歩く。


三人は神経が歩調というものから意識をまったく除外しているかのような歩みかたでマンションへと向かっていく。その都度に地表に呪文を書き記していくように足取りは現在を着実に踏み締めていた。


奈緒子は顔を下げながら左右にいる彰と壮太に事故のことを簡潔に話した。声はいつもの明瞭で心地好さがあるめりはりさが抜けきり単調さが前面にあった。会話からも奈緒子からはいくばくかの疲れが伺えた。


「京都でね、信号で止まってるときにトラックが突然追突してきたの。ドン、ガシャンてすごい音がして。でもよかった。大きな怪我をした人もいなくて」



奈緒子は話しながら何か他のことを考えている。修学旅行では他にもなにかあったのかな…?。彰はどことなくそんな気がした。事故は枝分かれ部分の話しなほどの単調さを感じたのだ。

風に乗る奈緒子の香りが鼻腔まで届く。

彰は顔を左右にぶるぶると振ってつまらないことを考える頭を訂正した。


実際、彰の思慮は的中していた。修学旅行中、奈緒子はクラスメートの男子から告白をされていた。その告白と事故が奈緒子のなかで重なり思考を深くさせた。奈緒子のなかで何かが芽生えたときだった。


事故を細かく述べれば、京都市内において、交差点手前にて停車したバスに後方から接近した大型トラックが接触した追突事故だった。それによって一番後ろの席にて立ち上がり騒いでい男子生徒二人が前のシートに足をぶつけて怪我をした。診断結果は打撲程度の軽傷だったが、事故当時は泣きわめいていた二人の異変に応じるように直ちに救急車両を要請した。


結果としては日常的な交通事情みたいな小さな追突事故だった。

だか、学校には当初、大きな事故で生徒が救急搬送されたという情報がパニック混じりに伝えられ、職員室では一時、対応や対処が錯綜した。


それともう一つ錯綜した場所がある。それは事故を目の当たりにした六年二組の生徒達だった。


重ねるがこれは小さな事故だった。だが修学旅行中に起きたということが珍しい事柄としてとくにこれから思春期を向かえようとする子供達には色濃くインプットされた。それは追突されたときに起きた生徒たちの悲鳴や身体を伝わった衝撃であり、救急車のサイレン音でありバスのリア部分の破損部分だった。また、引率の教師やバス関係者、当事者のトラック運転手など大人達の普段は見せないだろう動揺や戸惑いであった。それらはすべて六年二組の子供達の心のなかでは、なにか大きな刺激臭が鼻孔の奥に残るように体内になにかを蓄積させた。


些細な事象であったが、それは子供達をいとも簡単に包みあげたといっていい。白く濁ったなにかを隠しあげるベールのようなものに子供は、ある意味では汚染されていった。


生徒のなかの誰かは、追突時の衝撃や恐怖を友人と共有した。また誰かは、もっと大きな事故ならテレビにも出れたのになと友人と笑いあった。そしてまた誰かはこう言った。俺達二組はかなり運が悪くないか?と。そして、その汚染をより一層に撒き散らす男がいた。杉田奈緒子に告白をしてフラれ、しかもバスの事故では怪我までした男子だった。抱いた憤りは堰を越えるほどに蓄積され制御不能と化した感情が奈緒子へと向けられる。


事故後も続く動揺、事故による脱平凡への開放感。自分を拒絶したことへの腹いせ。

日々、個々の生徒のなかで膨らんでいくものが向かうべき先は、指針が同じ場所を示すことになる。




マンションエントランスの脇にある自転車置場まで来た三人は輪になるように向かいあっていた。


「ほんとに良かった。奈緒ちゃんになにもなくて」


彰と壮太は安堵の表情を浮かべたままだった。


「うん。あ、もしかしてずっと公園で待っていてくれたの?」


「ま、まあね」


彰が照れながらいうと奈緒子はまた素直に喜んだ。


「そうだ、渡したいものがあるんだ」


そう言うと奈緒子は大きな鞄に手を入れはじめた。


「これ…」


奈緒子は幾分頬を赤らめながら小さな袋を二つ取り出していた。


「これ京都のお土産。彰君と壮太君に貰ってほしいな」


それぞれに同じ袋を手渡す。


「えー!なんだろ開けていい?」


「うん」



二人、同時に開けた


「うわ〜!すげえ!ありがとう!」


壮太の瞳が輝いた。


それは五重の塔が彫ってあるキーホルダーだった。


「ほんとに貰っちゃっていいの?」


「もちろん。私からのお土産だよ。でもよかったかな。気に入ってくれたかな…」



「すげえ気にいった!」



彰と壮太の口が見事に揃うと三人は思わず笑い出した。



「よかった。ほんとはすごく迷っちゃって。最後はまあこれなら京都だよねって」



奈緒子は舌をぺろっと出してはにかんだ。


それを見た彰と壮太は真っ赤になった顔を必死に隠した。


「よ、よーし。彰。いまから空手間に合うかな」



「絶対無理だよ!」



「ごめん…私のせいで…」



「あー!奈緒ちゃん違う!空手の稽古は、えと、今日休み!」



彰が余計なことを言うなといわんばかりに壮太の尻を蹴った。

壮太は「いて!」と騒いだが今回ばかりはやり返してはこなかった。


また笑いだす三人がマンションのオレンジ色の明かりに照らされていた。。



嬉しかった。


異様なまでに俺は嬉しかった。


そう…異様に…。


そのとき俺の360度に広がる世界はなにもかもが変わった。



あの時から。


毎日叫びたい衝動にかられた。


奈緒ちゃんが好きなんだ!

好きだ!好きだ!


いま奈緒ちゃんは何をしてる?何を思ってる?

寂しくない?苦しくない?守るから。何があっても絶対奈緒ちゃんを守る!


初恋。


彰は信号で車を止まらせたときに左腕を伸ばしダッシュボードを開けた。なかからは布に包まれた物が顔を覗かせる。


「アハハ馬鹿だよ俺は。ほんと馬鹿だ」


彰は自嘲ぎみに笑いだした。


まだこれを肌身離さず持ってるのだ。


俺はまだ彼女を想っているのだ。


馬鹿だよ俺は。



いまとなってはお守りのようなものになっている。 自らを戒めるお守りだ。


あれから20年だ。

長い年月が経ち、すっかり色褪せた五重の塔のキーホルダーが握りしめる掌を冷たくする。


あれから20年。奈緒ちゃんがずっと俺のなかにいる。

馬鹿だよ俺は。


最も彼女を不幸せにした男がいまも彼女を好いたままでいる。


彰は自嘲しながら瞳を閉じてそれを頬に当てた。


頬の感覚が失せるほどにひんやりとしている。

自分を拒絶する冷たさだった。弱さを嘲笑う冷たさだった。


壮太も…。


このキーホルダーを持ち続けているのだろうか。

きっとあいつも持っているのだろう。


…いまも奈緒子のことが好きなままなのだろう。


だから…。俺はお前に会わないといけない。


今日。会えるよな?


約束…したもんな。

覚えてるよな?

俺達は今日あの公園で会わなければならない。



彰はキーホルダーを再び布にいれて、ダッシュボードに閉まった。

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