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初恋。  作者: 冬鳥
29/85

真実と偽りの境目

夜の猫の瞳はなんであんなにキュートなんだろうか。

他者の無慈悲なる暴力によって奈緒子の心身は確実に崩壊へとむかっていた。そして一度でも地にひざまづけば心が粉々に砕け散ることも彼女自身が熟知していた。奈緒子はもつれる足取りのまま明日も学校に行く。ケルベロスが口を開き待ち構える地獄がそこにあるとしても。


いまの彼女をかろうじて支えているものは追憶する過去の愛の記憶であり未来への愛の空想だった。

小さな希望を胸に、時の経過による離脱という途方もない道標を呪札とした。

奈緒子は残りの中学生活を守勢のままに防ぎきろうとしているのだ。


「お父さん…ご飯は?」


右手がほんのりと暖かい。父、薫の温もりは奈緒子の右手から脳へとじんわりと伝わっていく。

階段を一段ずつ上がっていく薫の黒光りする革靴と奈緒子の白のスニーカーは緩やかなメロディーを刻んでいく。


「今日はちょっと食べてきた。ところで奈緒子はどうしてこんな時間に外にいたんだ?」


薫が問い掛けるように握る左手を揺らした。



「勉強してたら喉渇いちゃったから…ごめんなさい。危ないよね。こんな時間に外に出たりしたら」



「ああ。危ない危ない」



手を揺すり微笑む薫の眼差しは優しい。


奈緒子はその眼差しから逃げるように顔を伏せた。目の前を覆いつづけるベールを、自分のいま置かれる状況を父親に言ったらどうなるのだろうか。


奈緒子はそれを今までに何度も考えてきた。


薫の微笑みは優しく温もりを感じる。


イジメられてることを言ったら果たして父は何かしらの対処をしてくれるだろうか。憤怒の形相をしてくれるだろうか。


いや…。


奈緒子は足元を横切ろうとする一匹の小さな蟻を見つけると咄嗟に踏み締める場所をずらした。


きっと…。


父はその娘の不幸をも自分のストーリーの一部にしてしまうのだろう。


まだ母の面影が至る所に残っているときに父は見ず知らずの女性を家に入れたのだ。


「奈緒子。この人は父さんの友人だ。挨拶しなさい」


「奈緒子ちゃんはじめまして」


女性は奈緒子を値踏みするように見てから会釈した。


そして震える手つきでお茶を出す自分をくすくすと笑った。



遺影の母愛子と美椙の優しい瞳がこちらを見ている。奈緒子は無性に悲しくなった。


父は母と妹の死を自分のストーリーの一部として消化してしまったのだ。

父は母も妹も愛していなかった。

そして私のことも愛していない。


自分自身の欲望のままに生きる父。


奈緒子の心は深く傷ついた。



お父さんには言えない…。


奈緒子は頭上を見上げた。蛍光灯に群がる虫がバチバチと音をたてていた。


クラリネットの黒いケースが天井にぶら下がっている錯覚が見えた。


明日の朝に探そう…。


四階まで上がりポケットから鍵を取り出そうとしたときだった。



「奈緒ちゃん!」



突然階下から名前を呼ばれた。


「え?」



この声は。

この透明な声の主を私は聞き間違えたりしない

奈緒子の心臓ははち切れるばかりに波打ちはじめた。


「お!彰君じゃないか」



奈緒子より先に薫が声をかけていた。



踊場にいた彰はゆっくりと階段を上ってくる。

黒いケースを持ちながら。


奈緒子はへなへなと地べたに座り込もうとするのを必死に堪えた。涙が溢れ出ていた。



「奈緒ちゃん…これ。探してたんじゃない?」



奈緒子の目の前に差し出された黒いケースからは夏の草の香りが僅かにした。



@


「何を探してたんだろ…」



壮太と別れた彰は家に帰るとすぐに風呂に入った。服を脱いで浴槽の湯を身体にかけるその間、壮太の言葉がずっと気になっていた。


友達と一緒にいる奈緒ちゃん見たことあるか?



そして公園で奈緒子が言った言葉。


探し物はあれなの。お月様。


友達…。


探し物…。


彰は友達という概念に頓着はしない。


学校で誰かが話しかけて来ると正直なところ憂鬱になる。

壮太や俊介といった気心の知れた仲ならばまったく苦にならないのだが、他の人が近づいてくると面倒臭いなと思ってしまう。


おそらく一人が好きなのだろう。


渡辺指導員にも言われたことがある。


「彰は団体競技は向かないよな。そういうことだから空手続けろ」



そのときは何かしら反論したい気持ちにもなったがやはり的を射た自分をよく洞察する意見だった。


野球やサッカーに興味を持てそうになく、黙々と勤しむ陸上や空手が自分には合っている。



壮太が次に言った言葉。


一人でいる奈緒ちゃんは偽りに見えちまうんだ。


奈緒ちゃんはイジメにあっているのだろうか。


そう結論に達したとき彰は浴槽から勢いよく立ち上がっていた。



そしていま再び公園に来ている。


晩飯を食べてないので、ぐぅぅと腹が何度も鳴る。


滑り台やブランコ周り。公園を囲むフェンスの根元付近。あるのは空き缶などのゴミばかりで奈緒子が探してるようなものは何一つ見つからなかった。


「にゃー」


腹が鳴るのと同じくらいに猫が鳴いている。


鉄棒の横にペンキがはげ落ちたベンチが一つ設置してある。


その上に黒猫が堂々と座っている。まるで夜の公園の主のように見えた。


よく見る黒猫だった。


壮太と空手の練習をしているとよく視線を感じた。その先には黒猫の身体がいつもあった。




「なぁ。お前は知らないか?」



ベンチに座る黒猫に話しかけてみる。猫は腹を舐めだした。



「知らないよなぁ」



彰が苦笑いをしてからふぅーとため息をつくと



「にゃー」



猫はベンチを下りてもう一度鳴いた。



「ん?」


彰は黒猫の向こう側、ベンチの下に何かがあるのに気付いた。


身体を屈めて手を差し延べると指先が何かに当たった。


「あった!」


彰は黒いケースを引っ張りだしてベンチに置いて開けてみた。

クラリネットが顔を覗かせた。


奈緒子が探していたもの。


それはきっと誰かによって隠されたのだ。



彰は内部でふつふつと怒りが込み上げていくのがわかった。



公園の前に光が現れて一台のタクシーが通り過ぎていく。


彰は黒いケースを抱えるとゆっくり歩きだした。




@

その日、彰は夢を見た。

夢の世界は小さな部屋一面に(もや)がかかっている場面から始まった。

彰は一つだけある扉の真鍮のドアノブに手を掛けた。

そのとき何か違和感を覚えた。

もう一度ドアノブを見る。そうか。と彰は思った。いつも(へそ)の前にあるはずのドアノブの高さがいまは喉元の前にある。

自分の身長が小さくなっているのがわかった。

広げた手の平も細くて小さい。


彰はドアを開けた。

白い世界が続いていた。

そして右脇にある階段へと向かい、決められた順序を踏むように上がっていった。


彰は階上に向けて大声を発していた。


「なおちゃん遊ぼ〜!」


見慣れたマンションの共同廊下と階段の景色だった。

なーおちゃーん。みすぎちゃん遊ぼー


三階まで駆け上がっていくと303号室の扉が開いて幼い壮太が付いてくる。



「あきら!待ってくれよ!オレもいく!」


振り向くと二段後ろに壮太の満面の笑顔があった。


「なおちゃーん!みすぎちゃん!あーそーぼー」



402号室の玄関は開いていた。

二人は覗き込んだ。


部屋のなかはきらきらと光り輝いていた。


奥から美椙の声が聞こえてくる。


「もーう・い・い・よ」


かくれんぼのときに美椙が放つ何かを期待する「もういいよ」だった


彰と壮太も部屋のなかに入っていく。白い世界に覆われていく。

なかに入ると幼い奈緒子と美椙と奈緒子の母親の三人が手を繋ぎながら待っていた。



「あそぼ!」



「うん!」


彰と壮太が奈緒子と美椙の手を引っ張るようにして玄関に向かっていく。


「気をつけてね、彰君。壮太君。奈緒子と美椙をよろしくね」



よろしくね。



奈緒子の母親に向かって大きく頷く。


「うん!奈緒ちゃんのお母さん!僕らに任せて。心配しないで!」



「行こう!」


二人の手を引っ張りながら階段を下りようとしたとき、美椙が足に力を入れて踏ん張るように止まった。


「行けない」



壮太が膝を曲げながら聞いた。


「美椙ちゃんどうしたの?どうして行けないの?」



美椙は泣きだしていた。

とても悲しそうに泣いていた。隣りにいた奈緒子がなんども美椙の頬を手で拭う。

美椙は涙を流し声を詰まらせながらとぎれとぎれに言った。


「お…姉ち…ゃんを…助けて…あげて」



「助ける?」


彰が聞き返したときにどこからか地鳴りが聞こえてくる。


「うわぁぁ!」


彰と壮太は奈緒子と美椙の上を小さな身体で必死に覆った。


「落ちる!」


轟音とともに天井が崩れ落ちてくる。


「彰!奈緒ちゃんを守るからな!絶対に!絶対にだ」


壮太の声はいまの野太い声になっていた。


その後に、


パン!


と、渇いた音が響いた。


なにかを叩く音?


彰はそこで夢から覚めた。

美椙の「助けてあげて」の言葉がやけに生々しく耳に残っていた。


「おはよう」


彰が目を擦りながら襖をあけて居間に入ると母、久美子はキッチンで頬を押さえながら泣いていた。


父、孝介は玄関にいる。


「ちょっと…また…喧嘩したのか?朝から?」


彰の問い掛けに孝介は何も言わずに玄関を無造作に開けて出ていった。



「母さん。また父さん怒ったんだろ?もうあれに行くのはやめたらどうなの?」


彰は母親の隣りに行って頬の腫れを確かめてから、ため息混じりにいった。


「彰…。母さんはね…なんのために活動してると思う?あなたたちのことを思ってしてることなのよ。それをお父さんはわかってくれない…」


「母さん…」


いったいなんのための?誰のための?宗教なのだろうか。毎夜、会合と称する集まりに出掛けていく母親。そんな母に父は怒りをぶつける。



「まがい物の宗教なんぞやりやがって!」


母さんはね…なんのために活動してると思う?


なんのために…



彰はため息をつくしかなかった。


なんのために。


あなたたちのためよ。


うんざりする母の言い回しだった。



「今日も部活あるから。もう用意して行くから」



母親と朝飯を食べる気持ちにはなれなかった。

朝から永遠に続くような父の悪口を聞きたくはなかった。


パンをかじりながら玄関を開けて外に出ると、息が詰まる場所から解放されたように彰は深呼吸をした。酸素が肺の奥まで行き渡り、脳の隅々まで活性化されるのが感じられた。


彰は共同廊下を歩きながら見た夢のことを考えた。そして昨晩に起きた出来事も一緒に。


「助けてあげて。か…」




「お姉ちゃんは必ず助ける」


奈緒ちゃんをイジメる奴らは許さない。

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