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初恋。  作者: 冬鳥
27/85

奈緒子のクラリネット

夜の公園の時間がゆっくり刻む感じが好きです。


暗闇のなかに浮かび上がる滑り台は、物見櫓のように厳めしい出で立ちを彰に見せる。

彰はこちらを見下ろし続ける滑り台を横目に通り過ぎ、公園奥に位置するブランコが眼前に迫るところまで来た。


奈緒ちゃん…。


そこに佇む彼女の姿が彰の目にも克明にとらえられた。



奈緒子はブランコの鉄柱の傍らで気が抜けたように突っ立っていた。


「奈緒ちゃん…こんな時間にどうしたの?」


彰は様子を伺うように辺りを見回したが他に人の気配は感じなかった。


一人公園の内部に足を踏み入れた奈緒子。時計の針はすでに22時を過ぎているだろう。

暴走族のけたたましい騒音が時折耳に届いてくる時間だった。自転車に乗った男が公園前の小路に現れる。酔っているのか陽気な歌声を出しながら自転車をジグザグに走らせ三人の世界から溶暗していった。


彰は奈緒子を見つめた。


ここは。

夜が更けた時刻に13歳の少女が一人で入り込むにはあまりに暗く陰湿な場所だ。

彰はこの場所に幼い頃から接してきたからこそわかる。夜の公園にはいびつが付きまとうのだ。


彰は急激に襲う不安に苛まされた。


弱き自分を嘲笑う”そのもの”の片鱗が覗く。


もしここに得体の知れない何物かが潜んでいたら?。

そう思うと彰の額には冷や汗が滲みだした。

奈緒子はいとも簡単に蹴落とされるだろう。

それは二度とはい上がれない生き地獄へと。



限られた明かるさで巨大な闇へと切り込んでいる数個の屋外灯に照らされる奈緒子の影法師。


奈緒子の手には懐中電灯が握られていた。今にも消えそうに弱々しい黄色い光は雑草が覆い茂る地面と奈緒子の白い靴を照らしている。

帳が降りた公園に足を踏み入れた感触は耳元に纏わり付く小虫が目障りなままに示してくる。


「壮太君…と…彰君…」


対面する奈緒子は額の汗を拭った。

縛ったお下げ髪が白く細い首筋に触れている。


「…。」


途切れながらも二人の名前を呼んだ奈緒子だったが、すぐに押し黙るように俯いた。

奈緒子の着る白いブラウスは浮き出るように細いシルエットを作り上げ足元の白い靴は聡明さを際立たせるように地上の上にあった。


彰は前にいる壮太の肩口から奈緒子を見つめていた。


「ねぇ奈緒ちゃん…」


「いったいどうしたの?こんな時間に。もう10時過ぎてるぜ」



口を開きかけた彰の言葉を制するように、壮太が張りのある声をだした。


彰の声も存在も壮太の巨体によって掻き消された。



「うん…」



奈緒子は壮太を一瞥してから答えるべき言葉を失ったようにまた俯いた。

向かいにある木からは小さく蝉が鳴いた。まるで人の声なる騒音に対して苦情を申し立てるように「ギギッ」と羽を無理矢理に擦りつけたような音だった。


「こんな時間に一人でここにいるのはとても危ないよ。な?彰。前もここに不審者がいてさ俺が睨みつけたら逃げてったよな?」



「え?…ああ…。いたいた。たぶんここで酒飲んでた」



相槌を打った彰は、気圧されるように壮太の背中から横へと離れて奈緒子がよく見える位置に陣取った。



「それとも…奈緒ちゃん何かあったのかい?」


この暗闇のなかに蔓延る呪縛を聖なる弓矢によって解放させるように壮太の声は慈愛に満ちていた。



俯く奈緒子は壮太の優しさに導かれるようにぼそぼそと何かを言いだしたが、まったく聞き取れないほどの小声だった。


「え?なになに?」



壮太は奈緒子の額に触れ合うほどに近付いた。


「…探してるの…」


奈緒子が同じようにぼそぼそと言った。

彰も導かれるままに二人の下へと身体を寄せようとしたが、そこへ壮太の深い思いが伝わる言葉が割って入る。



「ん?何かな?奈緒ちゃん頼む。もう一回言ってみてくれるかい?何があったの?」


彰の行われるはずだった動作は、寸前で何かの力によってストップがかけられた。


たった数歩前に行くことがとても気怠く億劫に感じる。


何故?


つま先にかかる力の意味を探る。


だがそれは、いまの彰にはまだ克明に説明ができないことだった。


一つだけ思ったことは、普段決して見せない優しげな態度と口調を抱き奈緒子に身体を寄せた壮太に圧倒され平静を失ったということだった。



「探し物をしてるの…」


次は二人の耳に奈緒子の声がはっきりと聞こえてきた。



「探し物?」


壮太が復唱した。


そのとき彰の耳には猫の鳴き声が不意に届いた。

距離はそんなに遠くはない。この公園のなかにいるのだろう。彰はちらっとその方向を向いた。

きっといつもの黒猫だ。と思った。


この時間によくベンチに寝そべっている。

彰は鉄棒横にあるベンチに視線を送ってみたがここからは距離があってよく見えなかった。



「探し物って…、何かを落としたんだね?よし。俺と彰も一緒に探す。な?」



壮太がこちらを振り向いた。


「も、もちろんだよ」



「よしゃ。で、何を落としたの?小さい物?この辺りで?」



やる気を出した壮太が問い掛けても奈緒子はまた俯いていた。


「あ…えと……ち、違うの…そういう意味じゃなくて」


だらりと下げた腕の先にある懐中電灯の明かりは地面を照らし続けていた。

奈緒子は垂れたままの首を左右に振り出した。同じく足元の明かりも小さく左右に揺れた。


「違うの…違う…。ちょっと散歩…うん、散歩してた。夜風が気持ち良かったから…違う…落とし物とか探し物とかは無くて…」



弁解を繰り返すように左右に振られ続ける奈緒子の瞳は寂しげに目を閉じたままだった。

彰にはそれが泣いているようにも見えた。



「にゃー」


また猫の鳴き声が聞こえてくる。その声は餌を求めるような甘える感じではなく何か欲求を抱えたような声だった。


奈緒子の寂しげな表情を拾い上げてしまったからなのか彰は車に轢かれ救えなかった野良猫を思い出した。

生死の境目にいた命を抱いた感触がいま両腕に蘇る。

猫の重さと温もりと血の香りはまだすぐ背後の過去にあった。


「にゃー」


痛くて鳴いてるわけでもない。ならばいま発情期なのだろうか。

彰はそんなことを考えながら奈緒子の次の言葉を待った。


だが奈緒子は再度閉じた口をなかなか開こうとしなかった。


あやふやな言動は何を意味しているのか。

奈緒子は何かを無くして探していたのか。だがそれはとても言いづらいことであるような物なのだろうか。

彰は奈緒子を見ながらあれこれと案ずる。


首を傾げる壮太と

不安げに奈緒子を見つめる彰。



「そ、そうだね…もう10時過ぎてるんだ。危ないからもう帰ろうかな…」


やっと奈緒子が顔を上げると仄かな笑顔が浮かんでいた。


いつもの笑顔だった。

彰は胸を撫で下ろす。



「奈緒ちゃん…ほんとに落とし物とかないんだね?」


壮太の声は相変わらず温もりに満ちていた。




「う…うん。ありがとう。あ…、落とし物っていうのはね。実はあれなの」


奈緒子は頭上を指さした。

マンションの屋上にある手摺りからもう少し上にそれはある。



「え?月?」



見上げる月は下弦の月。

雲の切れ目から黄色い光りを放っている。



「うん。探しものはあそこにありました」


唖然としながら見上げる二人の顔が月夜に照らされた。

間を置いて奈緒子はくすくすと笑いだした。口に手を当てていかにも楽しげだった。


「月が綺麗だったからついここまで見にきちゃったの。探しものはお月様。やっと雲が抜けたぁ。うーん綺麗だぁ」



大きく背伸びをする奈緒子に、「やれやれ」と振り返ってこちらに笑顔を見せる壮太。

彰は頷いてから目を細めて再び月を見上げる。


変わらない。


奈緒ちゃんは。

いつも純粋に。

輝いている。


あの月のように。柔らかく微笑ましく僕を包み込む。



「あ、いまから武道の練習するんだよね」



奈緒子は両手を交互に前に出した。


「キャッッ」


恥ずかしげに繰り出した左右の突きはとても繊細で可愛らしかった。

そして右手に握られた懐中電灯を落としそうになり慌てる仕種もいつもの奈緒子らしく愛おしい。


彰はそんな奈緒子の小さな背中を見つめ続けていた。公園からマンションに帰っていく奈緒子のシルエットはきっと永遠に綺麗で、永遠に僕の胸に焼き付くだろう。


彰と壮太は微笑みながらベンチがある場所へと歩きだした。


また猫が鳴いた。


もしここに沢村俊介がいたら「なに?月だと?」と鼻で笑って奈緒子を問い詰めることだろう。「笑わせんな。言えよ。何を探してんだ?」と、きっと奈緒子がいま必死に探していたものを突き止めたうえで、尚且つ奈緒子が置かれている悲惨な状況を探り当て奮い立つことであろう。


奈緒子に恋をする彰は、恋に目を奪われるばかりに真実の奈緒子に対して鈍感でありすぎた。


@



私の寝場所には目障りな物がある。

とても邪魔だ。ベンチの下を占領するこの物体はいったいなんだというのだ。今日の夕方に(美味しい匂いがあちこちから流れてくる時間帯だ)これをここに捨てていった人間達がいた。私は一部始終を見ていた。(もちろん途中威嚇もした)二人の人間(二人とも雌だ)はこの安住の地(公園)を何度も見回してからベンチの下に置いていった。


誰か退かしてほしい。


この黒いケースを。


やっぱり人間は嫌いだ。



@



「なぁ。奈緒ちゃんやっぱおかしいと思わないか?」


奈緒子が公園を出ていってから30分ほど空手の練習をした二人はブランコ前の手摺りに並んで腰を下ろしていた。



壮太は荒い鼻息をしながら彰に顔を向けた。


「おかしいって?」


彰は先程壮太に蹴られて痛む大腿部を摩りながら聞き返した。



「さっきの奈緒ちゃんだよ。あんな時間に公園に一人でなんて危ないしよ。月を探してたなんて…」



「それは奈緒ちゃんらしいよ。僕らをびっくりさせたかったんだよ。奈緒ちゃんは月が好きだから」


彰はそこは譲れない。


「え?なんだよそれ」



「いや…なんでもない。ただ奈緒ちゃんらしいなって。壮太もそう思うだろ?」


「ま、まあな…」


もう何年前になるだろう。たしか奈緒子が五年生で自分が四年生のときだったろうか。朝の登校中に奈緒子が背後から走りよってきたのだ。


「彰君!見たの!私。昨日見ちゃったの!」



「うわ!朝から奈緒ちゃんすごいパワー。で、何を見たの?」


奈緒子は胸に手を当てて何度も深呼吸をした。


「昨日の夜ねベランダからお月様を見てたの。そしたらね」


たぶんね、私かぐや姫を見たの。


馬車に乗って月に帰るかぐや姫を見たの。



いま考えると和洋折衷でおかしな感じがするが、当時は奈緒子の話に彰も仰天して何日かマンション入口から首が疲れるほどに月を見上げた。


奈緒子は月が好きなのだ。

彰はいまもあの当時と変わらない奈緒子が知れて嬉しかった。


そんな浮かれる彰を尻目に壮太は眉間にしわを寄せていた。


「でもさ、やっぱ最近の奈緒ちゃんは元気ないような気がするんだよな俺。さっき奈緒ちゃんを最初に見たとき泣いてるかと思ったぜ」


「うん。確かに…そんな感じもしてたな」



もし奈緒子が泣いていたら。もし誰かに奈緒子が泣かされたならば。きっと壮太は迷うことなく鉄拳を振り上げるだろう。それはこの俺も同じだ。




「もしかして…引っ越すとか?」



「え?」


彰も以前から考えていたことで有った。


「彰もそう思わないか?」


壮太は目の前にそびえる四階建てのマンションを見上げた。 古いマンションだ。もう築何年経っているのだろう。


奈緒子が引っ越すという不安は随分前から燻り突けていたことだった。それにはあらゆる理由が挙げられるが、彰が最近とくにそう思ってしまうときは、彰や壮太の父親とは違う香りがする奈緒子の父親を見掛けたときだった。

いつも小奇麗なスーツ姿で仕事に行く姿は、彰にはこの古ぼけたマンションとは不釣り合いに見えた。

奈緒子の母親と美椙が亡くなってからすでに四年の歳月が流れている。

事故が起きるまえの一家団欒の記憶が摩り込まれたこのマンションからはすぐに引っ越していくだろう。

当時は住人の誰もが思ったことだった。


「はぁ…」


彰の気持ちは深い迷宮へと入り込んでいった。

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