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初恋。  作者: 冬鳥
26/85

黒猫パンチ

うちの愛犬の前で空蹴りをすると興奮して飛び付いてきますf^_^;

@



自転車の車輪が浮かび上がり小さな段差を越えていった。そのときあらゆる音が彰の耳元で共鳴しあった。自転車が軋み、膨れ上がった背中のリュックサックが左右に揺れ、前カゴの水筒が揺れてブレーキが小さな悲鳴をあげた。


これはなんの変哲もない音の重なりだが、彰にはこれから入り込む鏡の奥の世界への始まりを告げる警鐘となる。歩道と駐車場を隔てる小さな段差を越えるときの感触と音は彰の気をぐっと引き締めていくのだ。


龍真会館七宝道場がある敷地内へと入るときから武道の精進が始まっているといっていいだろう。

もし心に臆病や迷いを抱えたままこの隔てを越えて道場に入ったときには高確率で痛い目に合う。



空手を始めてから四年が経つ間に培った心構えがここにあった。


リュックサックのなかでは名前が刻印された茶色の帯が、畳まれた胴着を強く縛りつけていた。茶色は上級者の証となる色だった。


道場に入れば黒帯を締める者以外の道場生が一斉に頭を下げにくる。

段位、級位がすべてである空手の世界は、年齢や在籍年数は関係なく道場に入れば上級者となる大橋彰の空手の技と精神を少しでも吸収するべく皆が注目をするのだ。


彰は自転車置場に自転車を止めて(遠藤壮太の自転車の隣)リュックサックの重みを噛み締めるように背筋を伸ばし玄関へと向かっていく。



「失礼します!」



扉を開ければ途端に猛烈な熱気が全身を襲ってくる。



夏休みに入ると陸上部の練習は熾烈を極めた。

新人戦が八月にあり、彰はハードル競技に出場する。

七月最後の土曜日も練習が長引き、道場に到着したときにはすでに稽古が始まってから30分が過ぎていた。


板張りの広い道場には鋭い気合いの声が響き渡っていた。指導する渡辺の声は透き通るように明るいが張り上げると凄みをにおわせる。



彰は小走りに道場正面で道場生と向かい合う渡辺に向かっていき一礼をすると、渡辺はほのかに笑って「うむ」と小さく頷いた。


彰は渡辺が見せるこの最初の仕種が好きだった。



今日もよく来たな。


怪我するなよ気合い入れろよ。


強くなれ。


いろんな言葉が入り混じるような表情を浮かべ短い一言を添えてくれる。


それによって彰はますます気合いが入るのだった。


道場の隅で素早く着替えながら全体に目をやる。

彰の後ろにある棚は所狭しと鞄が押し込まれている。今日はまた道場生が多く集まっているようだ。

20人はいるだろうか。

一人一人が発する多量の熱は開かれた窓からは放出されきれずに、竜のように身をくねらせながら漂っていた。

脱いだシャツはすでに多くの汗を吸い込んでいた。上半身裸のままタオルで身体の汗を丹念に拭き取ってから胴着を着ていく。同年齢の少年達と比べると背筋と腹筋が著しく成長した体つきだった。


「次!上段廻し蹴りいくよ。1!2!」



敷地いっぱいに整然とした列をつくり空手の基本の動きともいうべき突き、蹴り、受けを、渡辺の号令とともに打ち出している。


列は先頭右端から上級者が左へと並んでいく。五人四列ある最後尾には白帯の初級者五人が並び、前列の上級者を真似ながらぎこちない動きを見せていた。

壮太は先頭右端から二番目にいた。


後ろ姿はまったくの大人だ。


身長は170㎝代を窺い、体重は80kg近くはあるだろう体型は、隣りにいる茶帯の大人と比べても遜色がなかった。(彰は155㎝あるかないか。ちなみに俊介は彰よりもわずかに低い)



白い胴着に茶色の帯をきつく締めた彰は頬をぱんぱんと叩き気合いを再び入れ直した。


「彰。稽古入るまえには目を閉じて円を想像しろ。銀色の輝く大きなリングだ。とにかくそれだけを想像して作り上げるんだ。他の思考はすべて排除しろ」



胴着の袖に腕を通したときに以前渡辺が言った言葉が必ず想い浮ぶ。


手首足首を回して上体を逸らす。

身体のあちこちから疲労感を脳髄に訴えてくる。


朝からの陸上部の練習ではいったい何本のダッシュを繰り返したことか。


彰は瞳を閉じた。


うっすら浮かび上がる銀色のリング。


―疲れはあるが…行ける―。


素足が激しく床を何度か叩いた。足裏にじわじわと熱が篭りはじめる。


円は銀色に輝く。

武道家が掴むべきものは無の境地のなかにある。


―欲するのは真実の強さのみ―。


瞳を閉じたまま正座をしてそのまま黙想をする。


「稽古入ります!」


一礼をしてから立ち上がり見開いた目は鋭い眼差しへと変貌した。


アドレナリンが疲労を麻痺させるように無くす。


彰は小走りに列に加わると渡辺の号令に合わせて廻し蹴りを放っていく。


「みんな声小さいぞ!もっと出せ!気合いだ!」


渡辺の一喝は少しの緩みを見抜くようにぴりっと引き締めた。


中学生といえども茶帯が一人増えることは、この場にまた一つ重低音が増すことを意味する。

道場生達は霧雨のような汗を飛ばしながら新たな緊張感を増していくのだった。

そして道場に入ってからの彰の一挙一動は初級者達が観察し吸収していく。


ここで崇拝されるのは強さと風格だった。



@



「くーっ、外もあちいな」


道場を出ると、元々高い渡辺の声のトーンがまたひとつ上がった。


「そろそろ、一雨欲しいとこだな。おお、壮太。まだまだいい汗でてるねぇ」


渡辺は壮太の坊主頭をぐりぐりと撫で回した。


壮太は「ぐわっ!先輩止めてくれ!」と、大袈裟に顔をしかめながら子供っぽく戯れた。


道場生達が渡辺を囲み鞄を下ろして頭を下げていく。


「何度も言うけど鞄は持ったままでいいからな。道場出たら固いのは無し」



興奮冷めやらぬ道場生は渡辺と話したいばかりに列を作るまでにして話しをしていく。その都度渡辺は笑顔で応えていった。


小さな南風が吹き、管理人の男性が鍵をじゃらじゃらとさせながら戸締まりを始めるころには、いつものように三人になっていた。


「よし今日も付き合え、マセガキども」



渡辺は笑いながら駐車場脇にある販売機へと向かっていく。


彰と壮太は笑顔で見合ってから渡辺の後ろを付いていった。



「お前は夏も冬もコーヒーだよな。で、お前は?今日はなんにする?」



渡辺がコインを入れながら壮太に聞いた。



「うーん。どうしようかな。迷うとこだけど今日は先輩の稽古が厳しかったから炭酸でしゅわっといきます」



「なんだよそれ。稽古が楽だったときはなんにするんだよ?」



「うーん、オレンジジュースかミルクですかね」



渡辺は、相変わらず壮太だなぁ。と目を細めた。


「道場じゃ恐れられる中学茶帯も胴着を脱げばお茶目な少年だな」



「え?俺ってお茶目ですか」

最近の壮太には珍しく、はにかむような笑顔を見せた。



「彰はいつものコーヒーだよな。このマセガキめ」



「僕はほんとコーヒー大好きなんです」



彰は先に取り出し口に落ちていた缶コーヒーを手にして頬に当てた。ひんやりとして気持ち良い。



三人は飲み物に口を付けながら空手のことを話していく。

そしていつも終わりがなくなるほどに盛り上がっていくのだ。


「空手もいいが勉学のほうはどうなんだ?ちゃんと理解してんのか?」


「彰がちょっとやばいよなぁ」


壮太に言われて彰は俯いてコーヒーをごくりと飲んだ。



「苦手か?」


「はいすごく…。とくに数学と英語はまったくわからないからもう授業中は寝るだけです」



苦笑いをする彰を無視するように渡辺の顔つきが変わった。


「彰。きちんとやれよ。まだ中学生になって数ヶ月だろうが。苦手だからってすぐに逃げんな。とりあえず精一杯やってみろ。わかったか?」



渡辺の目が稽古中のように厳しくなった。


「はい…」


彰はしゅんとした。

何一つ言い訳の言葉が見つからなかった。


「さて。そろそろ終わるか。また管理人のおじさんに言われると思うと気が重くなる。それにお前らも自転車だからな」


管理人は駐車場からすべての車がなくならないと納得できないらしく、一ヶ月ほどまえに三人で話しているときに柔らかい苦情を渡辺に述べにきたのだ。



「じゃあまた来週な。彰、ちょっときつく言っちまったがやってみろよ。文武両道ってやつだ。壮太もだぞ」




渡辺が鞄を持ち上げたときに壮太が口を開いた。



「あの先輩」



「ん?」



「先輩はどうして俺達二人に優しいんですか?」


頭をぼりぼり掻きながら聞いた壮太に渡辺は軽く応えた。



「そんなのお前らは俺の愛弟子で期待の星だからにきまってんだろ。空手続けろよ。何度もしつこいが勉強も頑張れ。わかったな」



「はい!」


「はい…」


壮太は元気よく返事をして彰はしゅんとしたままだった。


渡辺が乗る白いハイエースが駐車場から出ていく。


車道に出るときの段差は車を少しだけ揺らしていった。


彰は赤いテールランプが見えなくなるまで見送った。

「頑張らないとな」



自転車を跨ぎながらぽつりと呟いた。隣りには壮太がいる。


「頑張るって空手か?」


「いやいや数学と英語だよ。まったく授業に付いてけてないからさ。夏休みの宿題もかなりやばいし」


「ガハハ。先輩の言葉がズシリと来たか?」



「来たね。すごく来た」


膨れ上がるリュックサックを背負う。十分に汗を吸い込んだ胴着によって行きより重いのがわかる。

壮太は前カゴに鞄をぎゅっと押し込めた。



「ついに大橋彰!数学と英語にも左上段廻し蹴り!だな」



ガハハと笑いながらペダルに力をくわえて先を走りだした壮太と追い掛ける彰。段差を越えるときに安堵の呼吸が吐き出された。



二人は夜の田園のなかの小道を自転車を並べてゆっくりと走っていく。


徐々に話題は空手から学校のことに変わっていった。


A組の仲間達のことや剣道部と陸上部の試合のこと。七宝町と大治町抜けて名古屋市の看板の下を通り過ぎたころに壮太が言った。



「最近さ、奈緒ちゃん元気ないと思わないか?」



正面から流れてくる気持ち良い風が二人の額の汗を少しずつ引かせていく。



「思う。壮太もそう思うんだ…」


昨日の朝にマンションの入口で奈緒子とばったり会った。ちょうど彼女は自転車に乗るところだったらしく、鍵を解放させている後ろ姿に彰が話しかけた。


「おはよう…あ…い、いまから部活?」



「あ、彰君…おはよう…う、うん」



奈緒子も挨拶を返してはくれたのだが声が小さく歯切れも悪い、その後は目を合わせてくれなかったので会話も打ち切りになってしまったのだ。



「今度会ったらどことなく聞いてみようぜ。学校で嫌なことがあるかもしれないしな。何かしら手助けできるかもしれない。俺達が」



「ああ。そうだな」



神社の先の角を曲がるとクリーム色のマンションが見えてくる。

その手前には公園がいつものように暗闇を披露していた。稽古後はここでまた練習をしていくのが決まり事のようになっていた。


公園前まで来たときに壮太が「あれ?」と声をだした。


「おぃ。誰かいるぞ」


自転車を脇に止めてなかに入っていく。


黒い影がブランコの横でうごめいているのが彰にも確認できた。





@



私は月を見上げた。


そろそろあいつらが現れはじめるころだ。


私はベンチの上で待ち遠しくしてる。


前足を交互に出してあの人間達の真似をして楽しんでいたときにその影は突然ここにやってきた。


あいつらではないのは明白だった。匂いが対極的なのだ。


しかし今日は珍客が多い。



私はベンチの下でその影を見守った。


敵ではない。それも匂いでわかる。味方でもない。それは動きでわかる。


導かれた答えは私にはまったく害のない者である。ということだ。


私は何度も耳をぴくぴくさせて背筋を丸めた。

影は歩き周りながら奇妙な音を出しはじめた。


それはなんともいえない音だった。嵐のまえに鳥が囀る感じと似ている。それに水気が多分に入り混じっていた。


私は丹念にお腹を舐めた。舐めに舐めそして判断した。


影は泣いているのだ。



「あれは…奈緒ちゃんだ」


影に近付く壮太がぼそっと呟いた。



「え?奈緒ちゃん?」


彰も一歩進んだ。


ブランコ横にいたのは杉田奈緒子だった。

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