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初恋。  作者: 冬鳥
25/85

自画像を描く

夏の空。入道雲を見るとソフトクリームが食べたくなります


@



―あいつの笑顔は俺に渇きの焦燥を抱かせる―。


理由はわかっている。


いまはすぐ手が届く場所であいつの息吹を感じられているから。


俊介は黒板に顔を戻した。

まったく。


―俺が俺じゃなくなっていくみたいだ―。



「じゃあ大橋、教科書の70ページ、最初の問題を解いてくれるか?」



20代の男性数学教師に突然名前を呼ばれた彰は「はっ?えっ!」と、明らかな動揺を見せながらも椅子を引いて立ち上がった。


「えと…問1…ですか?」。


「頼んだ大橋」



「はい…。えと…次のへ、へいほうね…?あれ?…」


「へいほうこんだ」


教師の冷たい訂正の仕打ちが迫撃となり、なお焦りだした彰は額から汗を光らせもじもじとしはじめた。


誰かのくすくすと笑う声が聞こえる。


彰は深呼吸を一つしてから再び教科書を顔の前まで上げると片言の日本語を話す外国人のように言葉を繋ぎはじめた。


そんな彰の隣りでは、須田樹里がキラキラさせた瞳を眼鏡の奥に内包し両拳に力を込めて


「がんばれ」


と合図を送り続けていた。


問題を解くどころか、問題を読み上げるだけで精一杯の彰の様子に離れた席にいる女子二人は顔を見せあってまだ笑っていた。

後方に座る俊介はそちらに視線を送った。


カントリーミュージックの心地好いメロディーのような笑い声。女の可愛さが滲み出るような笑い方だった。


少なくともこのクラスの女で彰のことを袖にする者はいないだろう。あの錚云たる容姿と雰囲気を持つ男とは、この先のこの世でなかなか出会えないことは13年間生きてきたなかですでに熟知していることだ。


普段は凛とした態度を見せ魅了させる彰だが、英語と数学はまったくもって駄目らしい。よっていま見せ付ける醜態もA組の皆がすでに熟知していることだった。

彰は勉学が苦手。


見た目は秀才。中身は凡庸以下。


だがそれがまた普段見せる彰とのギャップとなり、親近感を呼ぶ魅力となり繋がっていくのだ。


見た目に惑わされるな。


A組の生徒達は彰で学んだことになる。


皆の注目のなか焦り続ける彰はなんとも…。



俊介はフッと笑う。



「そういうことか」


心で呟く。


俺は。

固持するべき自分の姿形をあいつに変えられていくことに恐怖を抱いているのだ。


自画像を描いてみようか。

きっと破顔一笑の自画像が出来上がる。


前の席の椅子のパイプ部分に写る自分を見る。

純粋に歪んでいた。


案の定問題を読み上げたところでしっかりと固まった彰に、教室のあちこちから失笑が沸き起こった。


「先生!彰に解かせるとはなかなかのチャレンジャーだね。それとも二日酔いで先生がゆっくりしたいとか?それとも彼女と喧嘩して寝付けなかったとか?」


壮太の大きな声に教師も生徒も笑いだした。



「俺はいつだってチャレンジャーだし彼女とは喧嘩してない。遠藤。プライベートな質問は後にしてくれ」


「ふぁーい」



また笑いが起こる。


壮太が話すと場が馴染み一体化する。


「それで、どうだ大橋わかるか?無理しなくていいからな」



彰は教科書を机に置いて首を横に振った。


「まったくもってわからんです」


教師がそれに突っ込むように「ぶっっ」と吹き出すとA組のどっと笑う声がC組やD組まで響いていった。


俊介も口元を緩めていた。




俺は俺だ。


沢村俊介はこの世に一人しかいない。


腹くくってやるよ。

漂流してどこまで流されていくのか見てやる。


いったいどんな景色が見える?

何を感じる?


彰。俺をもっと変えてみろ。


俺は彰を想いながら自画像を描くよ。



数学の授業が終わると、俊介は見るからに機嫌が悪そうに椅子を引いた。

そのまま彰の席に行きたい衝動に駆られるのを必死に抑えることが顔を怖くさせるのだ。



数学の教科書を開いたまま樹里が彰から離れようとしない。


俊介はため息を漏らしてから視線の持っていく先を探した。


俊介から三つ前になる遠藤壮太の席にはすでに男子生徒数人が集まっていた。

そこから大きな笑いが起こる。

近くにいた数人の女子生徒達も平和そうな顔を浮かべで壮太の一団に視線を送る。


俊介は壮太を、まるで太陽みたいな奴だなと思った。


周りの人間達が、燦々と降り注ぐ陽光の温もりに柔らかい腹をさらけ出す哺乳類に見えるのだ。


「無力と化すか…」



さて。


トイレに煙草でも吸いに行くか…。



ここにいる生きとし生けるものを避けるように教室後ろに掲げられた掲示板に目を送る。


「くだらねぇな」



俊介は決められたルールのように再び窓際に目を移した。


復習が終わったのか樹里は席を立ち上がり、彰は外に顔を向けていた。ぼんやりと校庭を見下ろしている彰はよく見る光景だった。

そこを支配するのはゆとりと静寂の穏やかな空気の流れだった。


俊介はまた掲示板に視線を戻す。

教室後ろの壁を陣取るのは漢字検定、英検、中間試験の結果。


中学生にもなれば各々の個性が出るというのに。


勉強が嫌いで苦手な奴もいれば運動が嫌いな奴もいる。それなのに学校というものはどうしてあらゆるものに順位を付けたがるのだろうか。


腐ってやがる。


俊介は彰の横顔を見る。


強いる集団生活に付き纏う順位付けによる人間の甲乙。


ふざけた場所だ。


家族円満な家庭で愛情と平和に囲まれた子供もいれば、母子家庭でその日食べるものすらぎりぎりな子供もいる。毎日親父に殴られてる子供もいるだろう。そんな奴らがひとまとめにされて集団生活を強いられる。尚且つ大人達が競馬のオッズと睨みあい勝ち負けを爪弾きするのと同じような生徒達への順位付け。


イジメは無くならない。


いつかこんな馬鹿げた義務教育は俺がぶっ殺してやる。



だが、そんなくそったれの義務教育のおかげでお前とは出会えた。


俊介はオアシスを求めるように彰の机に近付いていく。


目立つ外見と射るような視線が俊介の特徴になるだろう。あとは曙光を浴びながらも漂流を続ける幽霊船のようなまどろみと昂進も併せ持つ。


左耳には最近開けた二つの小さな穴があり、いまはシルバーのピアスが光っていた。

鋭敏で見るものを氷結させるような心象の瞳。


俊介は上履き代わりのピンク色のスリッパを擦りながら歩いていく。



「相変わらず馬鹿だなお前は」



彰の前の席(女子生徒)の机に座り開口一番馬鹿扱いする俊介に彰は苦笑いをした。


「数学はまったくわからないな」


「英語もだろ?昨日の授業は致命傷くらった草食動物みたいな顔してただろうが」


「上手いこというね。でもシュンもやっぱりあれか?」



「お前と一緒にすんな。いまから付いてけないなら致命的だぞ。くそ馬鹿が」


「痛い痛い」


彰は胸に触れてもがきだす。


「おい…どうした?」


「シュンに馬鹿馬鹿言われたから胸が痛くなった」


彰のこぼれた白い歯から顔を逸らす。


「ば、馬鹿野郎…お前は…居眠りばっかしてるから駄目なんだ。ほんとは……まあいい。これでも食え」



俊介はポケットからチョコレートを二つ取り出して一つを彰の手の甲に置いた。


「サンキュー」



二人は校庭を見下ろす。

来週から夏休みが始まる。強い陽射しが校庭を照らしていた。


「最近、須田と仲良いな。須田はお前のこと好きなんじゃないのか?」



彰の視線は校庭を向いたままだった。前髪が柔らかい風で揺れていた。


「おい。何とか言えよ。ん?…」


俊介は彰の顔を見た。


なんだ…?


それはいつもと違った。


いつも遠くを見るような眼差しとは明白な違いがあった。

それは人が僥倖に恵まれたときに見せるような顔だった。



彰は目を細めたまま何かに見惚れている。

その表情はどんな名俳優が見せる演技よりも優艶に見えた。


黒目がちの涼しげな目つきが見るもの。


青眼なのか?


恍惚感に包まれる彰の目にはいま他に何も見えていないようだった。きっと俊介がすぐ隣りにいることも忘れるほどに。


「おい…」



俊介も校庭に向けて目を凝らした。


運動場にいるのは二年生だった。


何組だ?


それを考えようとしたときに一人の男子生徒が視界に入る。


巨漢の男。

ふてぶてしい歩き方。


佐野勝也だ。


荒れる二年生を完全掌握する男。


三年生の誰一人として制裁を加えようとはしない。

まさにこの学校で一番の権力を保持する男だ。


俊介は確信した。

間違いない。

いま校庭にいるのは二年C組だ。


須田樹里が泣きそうな顔で話した言葉も思い出す。

イジメを受ける杉田という女もここにいるのだろう。


俊介は全員の顔を一様に見ていく。


女子グループから少し離れた場所を歩く女子生徒が一人いた。


彰の顔が喜びと恥じらいを織り交ぜていく。


結局、俊介には彰の真意もどれが杉田奈緒子かも掴めなかった。



彰は奈緒子を求め探す。

校庭で、体育館で、廊下で、下駄箱で登下校でマンションで公園で。

夢のなかで、過去の追憶のなかで、描く未来の栄光のなかで。


彰はいつも奈緒子のことを思考し想像して求めた。


まるで熱心な信者のように彼は忘我の境まで来ていた。

杉田奈緒子に敷き詰められる日常。



どこからか声が聞こえてくる。



彰は奈緒子への傾倒世界から現実に戻ってくる。


「おい…」



「なんだ、シュンか」


目の前にいる俊介に気付きはっとした彰は追尾するようにチョコレートの甘さが舌の上を撫でていくのを感じた。


「なにぼけっとしてんだよ」


「ごめん」


俊介は探るように彰の表情を見つめてから外を見る。


「空が綺麗だな」


俊介が言うと彰も窓越しに顔を向ける。



「ああ。雲が躍ってる」



彰の鼻腔に入りこんでくるのはバニラのような甘い香りだった。

沢村俊介はいつも同じ香水を付けている。


「シュンの甘い匂いと入道雲がいい感じだ」


俊介はポケットのチョコレートを探る。


「ふん。須田はお前のこと好きかもな」



二人は空を見上げたまま話す。

それを見ていたクラスメートの女子生徒が含羞の色を浮かべた。

二人の背中は清冽のように清く澄んでいた。



「何言ってんだよ。なわけないよ。むしろ俺は須田に嫌われてるよ」



彰の簡潔な応えに俊介は苦笑する。


「お前は馬鹿で鈍感だな」



彰はまた笑って胸を触りはじめた。


「痛い痛い」



俊介は赤らめた頬のまま目を逸らし空に向けた。



「お前さ、いま好きな人…」


「ん?」



上目遣いにこちらを見る彰は素直に綺麗だと思った。青空を駆ける飛行機雲のように純白な真っすぐな瞳だった。



「なんでもねえよ。それより空。綺麗だな」



「ああ。今日はとくに広く見える」




二人は時を同じくして大きく背伸びをした。

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