席替え中止
新章にはいります。
杉田奈緒子を救え!
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10分ほど前に五時限目の授業の終わりを告げるチャイムが聞こえ、そしていま六時限目の始まりを告げるチャイムが鳴り響く。立ちはだかるようにある背後の体育館の壁からの残響が消え失せても彰は立ち上がる気配を見せなかった。
体育館の裏側の小さな世界でただ一点を見つめ続けていた。
樹里は時間を気にしながらも彰の隣りに寄り添うように座っている。
段差の上から見える視界は狭い。10Mほど前には低木が生い茂り、向かいの給食センターとの区切りをつけるフェンスがその奥に張り巡らされている。視界の右片隅には県道を行き交う車の流れが西日を反射させながら横切っていく。
二人は両手で膝を支えながら風を感じるように目を細めていた。
涙はすでに涸れていた。
ただ漠然とライトの面影を探し続けていた。
ライトはきっといまここに帰ってきている。
二人はそう思った。確信に近いものすらあった。
何度も歩み、走り、眠った。小さな身体で精一杯に生きたであろうこの場所に帰ってきている。
フェンス下部にある穴の直線上には車が行き交う道路があり、アスファルトにはへばりつくように黒い染みがあった。
無数のタイヤがライトの名残を踏み去っていく。
それは、二人にはちっぽけな一つの哺乳類の命の重さなどは、Ⅰ㍉の誤差も生じないさせないような現実の冷酷さを感じた。
ふと気付く。
違うのだと。
僕と私がいま見ているこの目がライトの目となっているのだ。
きっとそうなのだ。
だからいま見る景色はこんなに灰色の世界なんだ。
この景色を焼き付かせることは二人の心に茶虎色の野良猫が生き続けることなのだろう。
樹里はちらちらと彰の横顔を窺いはじめた。
六限目のチャイムの音が樹里には区切りをつけはじめていた。
そろそろ歩まなくては。
学級委員長としての、学年順位10番内としての樹里が覚醒をはじめた。
時計をしてないので正確にはわからないが、六限目のチャイムが鳴ったということはかれこれ30分以上この場所に居続けていることになる。
そろそろ行こうか。と彰に言おうとした矢先に樹里は人の気配を左側に感じた。この袋小路へと迷い込むもう一つの出入口からそれは感じたのだ。
樹里が目を凝らしていると案の定人影が現れた。
「ねぇ彰君」
樹里はためらいながらもおそるおそる彰の肩に触れてみた。(チャンスがあれば触れたい)
指先のほんと先端が彰のシャツに触れたときに樹里の全身に電気が走る。
彰の肩先ですら私にとってはどれだけの愛のパワーがあるというのか!
樹里の心臓はいまはちきれそうになっていた。
「あ、あの…誰か来る…」
激しく波打つ左胸を右手で抑えぜえぜえしながら苦しげに声を出した。
「ん?」
彰も樹里に追尾するように現実に戻る瞬きをしてから顔を動かした。
「…行こう」
彰は立ち上がる。
樹里もすぐにスカートに手をやりながら立ち上がった。
向こうから歩いてくる男二人はおそらく二年生で見るからに不良でそして煙草を吸ってこちらを睨みつけていた。
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ホームルームが終わり部活に行く時間になると友達が小走りに樹里の席に近付いてきた。 隣りの席では体操服に着替えていた彰(授業中、樹里が一人突然教室にどたどたと入ってきて彰の体操服を持ってまた出ていった。生徒たちはただただ唖然とした)が椅子から立ち上がったところだった。
樹里はそんな彰の一挙一動を確かめるように視線を送っていた。
だが友達がその間に割り込んできたので視界から彰が消えてしまった。
「聞いたよ樹里。掃除の時間に猫を助けるために学校を抜け出したんでしょ?五時間目の授業終わったときにはクラス中その話に持ち切りだったんだよ。私ね、授業中この辺りを何度も見てたの。ここには誰もいない、ただ日光が当たってるだけ。とにかくからっぽな感じでね、すごく不安な気持ちになってた。大橋君と樹里が揃って消えちゃったってね。どうしたんだろ?って。そしたら、その猫ちゃんの話しを聞いてさ。私はなんかとても感動しちゃったってわけ。で、猫ちゃんはどうなったの?」
すぐ後ろの席での会話が筒抜けに聞こえたのだろう、前の席で頬杖をしていた田中は勢いよく振り返って樹里を見つめてきた。
(田中には先程見た樹里の白の下着があまりにインパクトでありいま猫の生死などどうでもよくなっていた)
樹里は俯いて首を小さく左右に振った。
「だめだったよ…」
「え?死んじゃったの?」
「うん…」
友達は口をすぼめて眉間にシワを寄せた。
「やだ…。なにそれ」
「……」
田中はといえばなにも言葉を発することなく樹里の胸元と足首をちらりと見てから顔を背けた。
彰の気配が樹里から遠ざかっていく。
「ちょっとごめん。また明日ゆっくり話すね」
今日何度も感じられた彼が醸し出す感覚的察知が樹里を慌てさせる。
鞄と黒いケースを持って椅子を引く。
「あのね、私、席替え止めることにした」
樹里の送る視線の先、彰の背中は生徒たちの隙間を抜けて教室から廊下へと消えていく。
「え?」
「だから、席替えなんかするもんか」
樹里は細い指で眼鏡のブリッジを持ち上げた。
「席替え、中止ね」
唖然とする友達を置いて樹里も廊下を目指し足早に歩きだした。
―須田!動物病院は近くにあるのか!―
思い出す大橋彰の孤高。
彼が見せた行動力と決断力は人間としての尊敬に値した。
そして最後に見せた涙と、たえずフィールドバックに滲み出ていた真実なる優しさ。
樹里は思う。
彼を愛おしく思う気持ちは認めざるを得ないと。いや、ただ素直になるしかなくなったのだと。
樹里はもう一度だけ彰の顔が見たくなった。なんの理由も話す内容も思い浮かばない。ただあの人を見たい。だってこのあと部活と塾を乗り越え明日にならないと会えないのだから。もう一回だけ話したい。だってもうこんなに息苦しいのだから。
樹里の背中では小さな酸素ボンベが揺れている。
大橋君。
名前を心で叫びながら廊下に出るとただならぬ気配を感じた。殺気といってもよかった。
「ふん」
沢村俊介がA組の扉の横で腕を組み壁にもたれ掛かっていた。
背後の白い壁には彼が醸し出す冷酷さを膨張させるように”廊下は走らない”と書かれたポスターが張ってあった。
俊介の切れるような目線は廊下に踊り出た樹里を一瞬のうちに捉えていた。
樹里は石になるのを避けるかのようにパッと目を反らした。
教室からは遠藤壮太の豪快な声が廊下まで流れてくる。男子数人を囲ませて何やら激しい動きを見せては笑っていた。おそらくは剣道の何かを教えているのだろう人差し指を竹刀になぞらえながら機敏な動きを見せていた。
俊介は唐突に口を開いた。
「彰に恋でもしたか?」
不意。
俊介は不意が付き纏う人だ。
樹里は小学六年生に起きた出来事が頭に浮かんでいた。たがそれはあまり思い出したくない過去だった。
樹里は一瞬言葉につまりながら
「え?…私が?」と、聞き返した。
俊介の顔には微かな薄笑いが浮かぶ。
「ふん。まあそんなことはどうでもいい…お前が誰を好きになろうが」
じゃあ聞かないでよ
樹里は石にされないように顔を逸らしながら心で悪態をついた。
俊介は樹里から目をゆっくりと外していき顔を左に向けた。そしてまた睨みつけた。
その遥か先には彰の背中があった。
「残念だったな」
樹里には再度「え?」と聞き返すつもりはなかった。
六時間目の授業中に教室に入ってきた樹里は慌てながら彰の体操服を持ち出していった。きっと俊介は鋭い眼光のまま何かを考えただろう。再び後ろの扉が開いて入ってきたときには体操服に着替えた彰も一緒だった。そして二人を制圧するような沈鬱な表情。事前に耳にしていた噂を統合させ導かれる答えはたった一つになる。
樹里は俊介が苦手だ。
どうしてもこの人には勝てないのだと思い知らされてきた。
並外れた眼光の凄まじさと並外れた洞察力は俊介のステータスだ。
樹里は小学六年生での経験をまた思い出した。
登下校の途中に大きな公園があった。
夕方の下校時に一人で歩いていた樹里はそこですれ違った俊介に一言だけ言われた。
「道変えろ」
すれ違い様に言われたその言葉の意味がよくわからなかった。
樹里は首を傾げながらもその道を歩きはじめた。
そして公園脇に停車していた車の横を通り過ぎようとしたときに俊介の言葉の真意を知ったのだ。
「お嬢ちゃん。道教えてほしいんだけど」
「はい」
車の運転席にいた中年の男は近付いた樹里の手首を強く引っ張り下腹部から出す何かを見せた。
「お嬢ちゃんかわいいね。おじさん興奮しちゃってる」
男の激しい息遣い。
痣ができるほどに掴まれる手首。
「キャーッ!」
はたして自分の悲鳴が先だったのか顔面を殴られた男の悲鳴が先だったのか。
樹里が目を開けたときには俊介が血の付いた石を無表情のままに持っていた。
鼻頭を潰した男の悲鳴を乗せながら走り去る車が角を曲がるまで見ていた俊介は石をぽんと放ってから言った。
「バーカ。だからさっき忠告しただろ」
それ以来だ。
彼に対して畏怖の念を抱いたのは。
恐ろしい人だ…。
そして強い人だ。
いま俊介を目の前にしている樹里はいつものように首に触れたくなる。
マフラーだ。
この真夏でさえもマフラーを巻きたくなるのだ。
俊介の鋭い一重の瞳は冬を連想させる。
冷気が首筋の奥まで撫でていく。
俊介との過去が映像とともに流れたときに樹里は俊介にどうしても聞きたくなったことがあった。
そもそもこれを相談するならまずは沢村俊介だと決めていたことでもあった。それに今日の出来事によって樹里は一歩も二歩も成長した。戦うことを教えてくれた人がいたのだ。
自ら道を切り開くのだと。
やっぱり…私は…。
見て見ぬふりはできない。
樹里は彰に誓い、ライトの魂に誓ったのだ。
私は強くなる。と。
強さを俊介に聞きたい。
道標が欲しい。
「あの…沢村君に聞きたいことがあるんだけど…」
「なんだ?」
俊介の厳しい睥睨は再び樹里へと向けられる。
「えと…その…」
「早く言え」
樹里は深呼吸をして俊介を見ようとしたがやはり怖くなり逸らす。
その先にはA組の和気あいあいとした話し声とそれぞれの笑顔が見えた。
「虐められてるの…」
ぼそぼそと話す。
「なに?」
「吹奏楽部の先輩が…虐められてて…それがちょっとひどくて…沢村君、私…」
「何年だ?二年か?」
「う…うん。確か…二年C組」
「C組?」
俊介の表情が変わった。一層に厳しさが増したように見えた。
「名前は杉田奈緒子…先輩。話しでは部活内だけじゃなくてクラスでも虐めがあるみたい。私。何かできないかな…。うちのクラスは遠藤君とかしっかりしてる人がいるから全然ないけど…普通はどのクラスにもあるものかもしれないけど…その虐めはちょっとね、酷すぎるから…。ごめん…沢村君に相談しても困っちゃうよね」
「ふん。よりによってC組か」
「何かあるの?C組に」
俊介はポケットをまさぐりだす。
「ちょ、ちょっと…何取り出す気よ…」
「うるせえ。相談してきたのはお前だ」
「だってそれとこれとは関係ないよ。やめて。ここで煙草は。お願い」
「ばーか」
俊介は小さなチョコレートをつまみ上げていた。
「わかったよ。暇なときにでも調べといてやるよ。二年C組の女だな。ああ、名前もう一回言え」
「杉田…奈緒子…先輩」
「もうすぐ夏休みが始まる。その女は惨めな夏になりそうだな。わかった。須田、もう行けよ部活。それ以上そこに突っ立てたらケツ蹴るぞ」
俊介はピンク色のスリッパで床をきゅっと鳴らした。
樹里は急におどおどしながら駆け出していった。
二年C組か。
俊介はチョコレートを舐めながらある一人の男を思い浮かべていた。
佐野だ。
C組は二年を仕切る佐野がいるクラスだ。




