生死の境目
森は
「わかった」
と、横たわる猫を見ながら短く言った。
「なんとかしよう」
猫をオペ室に運ぶ準備が始まった。森のてきぱきとした動作が彰と樹里の前で行われる。
ここにはこの獣医師以外に人はいないようだった。
横たわる猫は腹を膨らまし呼吸を続けている。ぜぇぜぇと苦しそうな音は生きていることを示していた。
「ああ、そういえば君はレオ君とこの。だったね」
森は機材や薬剤を確認しながら樹里に目を送った。
「はいそうです。先生。よろしくお願いします。助けてください、あの猫ちゃんを」
森は小さく「うむ」と頷いてみせる。
「ところで君達は手術が終わるまで待つ時間があるのか?まだ授業があるんだろ?終わったら学校に連絡入れるからいまは戻りなさい」
森は中学校がある西の方角を指でさした。
「いえ。待ちます」
彰が応えた。
森は彰の目を見つめて、深みがある目をしてるなと思った。そして意志の強さも見えた。
「そうか…。わかった。とりあえず君達は外に出てなさい。ああそれからよく手を洗いなさい。消毒液も洗面台にある」
森は彰に顔を向けた。
「はい。よろしくお願いします」
二人は診察室を出て手を洗い小さな待合室で待つことにした。
誰かが入口の扉をあけて入ってくる気配はなかった。
いまは診察時間ではないのだろう。
だが獣医師は、昼休憩に突如降り懸かってきた難事に臆することなく真剣にあの猫と向き合ってくれる。
椅子に座り天井を見上げていた樹里が口を開く。
「私の家に犬がいてね、ここに連れてきてるの」
「そうか。それで名前がレオなのか?」
「そう。ゴールデンレトリバーって犬種で名前はレオ」
「でかい犬だよね?」
「そうそう!知ってるの?」
「なんとなくな」
「ここの先生は口は悪いし態度も傲慢ぽいとこあるけど獣医としての腕はいいって有名なの。うちのレオは近いからたまたまここだったけどよくしてもらってるの」
その会話のあとは無言になる二人だった。樹里はなにげに横に座る彰を見た。
服は袖から胸まで真っ赤に染まっている。
彰も樹里の視線に感じたのか目をあげた。
「須田。もう掃除の時間も終わって次の授業が始まるころだ。帰ったほうがいい。俺ここにいるから」
彰は手術が行われている扉を見遣った。
「そ、そうね。でもあと少しだけここにいる。いいよね?」
「いいのか?」
彰のいいのか?の返答。それは樹里のなかではいろんな意味として解釈できてしまう。
「いいの。いたいから。ここに」
再び無言が狭いロビーを支配した。
樹里は何度も彰の横顔を見ながら口火を切ろうとする。
そして振り絞るように言葉として外にだした。
「ねぇ…大橋君。あの子に…名前付けない?」
「名前?」
彰が顔をあげた。
「そう。だって名無しの権兵衛さんじゃかわいそうだから。何かないかな」
彰は樹里の言葉に思わず頬を緩ませていた。
「名前か」
彰は少しだけ思案してからニコッと笑う。
「じゃあ…ミラクルってどう?。たしか奇跡って意味だよね?」
樹里も彰の笑顔に引き連られるように相好を崩した。
「ミラクルかぁ。呼びづらくないかな。ちょっと間違えたらピクルスとかになっちゃうし」
「なんだよそれ」
彰はまた嬉しそうに笑った。
樹里は思った。
大橋彰はこんなに笑う人なんだと。
二人にはわかる。確信があるのだ。
あの猫は生きてここまでたどり着いたのだ。
二人は必死に走った。
息をきらし足をもつれさせて。
猫は助かる。
こちら側に踏みとどまるのだ。
その安堵さがいま彰を包んでいるのだろう。
彰の笑顔が見られるのは幸運で貴重な時間だ。
いまの樹里はそう思うのだ。(単純に気持ちを汲み取り吸収することはなんて清々しいものなんだ!)
これからもこの人の存在が私の心に光を与え続けていくのだろう。
光?
「じゃあlightは?ライト」
「ライト?」
「光のlightよ。どう?」
「悪くないな。ライトか。でもなんだよ。結局、須田が名前を決めてないか?」
猫は私に真実の光を照らしだしたのだ。
未来は自分が決めるのだ。
いま考えそして行動をすることが未来を作りあげていく。決められた軌跡を歩む偽りの自分はもうここにはいない。
それを目の前にいる男性が気付かせてくれた。
私は大橋君が好きなのだ。そして私は狂おしいほどに彼を好きになっていくのだろう。
生きて死ぬまでに神様から貰える愛する心のほとんどをこの人に捧げることになるのだ。
幾千年の片思いでもいい。無常のはかなさを早めてもいい。
私はこの人に出会えた。
「だって。ミラクルはなぁ。ダメでしょ。…大橋君は相変わらずセンスがないんだから」
「相変わらず言うね」
樹里は彰の返答にまた嬉しくなる。(相変わらず!だよ。それは日々私を見て私を感じているってことだよね!)
「いいのいいの。ライトね。いい?」
「いいよ。かわいい名前だよ」
「やった。決まり。ライトかぁ。あ、ライトはどっちなんだろ。男の子なのかな。それとも女の子?」
「たぶん雄だよ」
「そっか」
樹里は少し顔を赤らめた。
「大橋君。ライトはね、私の家で飼ってもらおうかと思ってる」
「え?いいのか?できるのか」
彰は椅子から立ち上がるほどに上体を動かした。
「ライトは私達の希望なの。必ず飼うようにする。任せといて」
二人はまた微笑みあった。
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森は猫をオペ室に運び機材を用意した。
それから二人を外に出して扉を閉めた。
そして猫と向かい合う。
それはもうすでに10分前の出来事だった。
10分経過した後も、森はこうして腕を組みながら横たわる猫と向かいあっている。
猫は。
すでに息をしていない。
ここに運ばれたときにはすでに運命は決められていたと言っていいだろう。
約2トンもの重さによって潰さた下半身。ここに来たときにはおそらく内蔵は肝臓、腎臓。膵臓まで機能が停止していた。
いや。轢かれた時点で即死していても決しておかしくない状態だったはずだ。
「しかし。まあ…。お前はよくここまで生きて来られたな。さぞかし苦しかっただろうに」
森は腕を組みながら猫に向かって呟いていた。片手には注射器を携えたままだった。
俺は、ただ苦しそうに息を吐き続けこちらに顔を向けるお前に対して、この注射針を打ちこみそして楽にすることしかできなかった。
瞳は閉じられている。
森は組む腕を解いて猫の頭を優しく撫で付けた。まだ温もりが残っている。
「お前は最後に人間の温かみを知ったか。ん?。さては生きたいって思ったんだろ。少しでも生きたいってな」
お前。最後に人間を許したな。
そして必死に自分を守ろうとする人間の目を見て少しでも生きようと願ったな。
お前は。
そう思わせる安寧に満ちた死に顔だぞ。
動物は愛を求める。
それは人間以上に。
「なんて幸福そうな顔して死んでやがるんだ」
森は猫から手を離しそしてまた胸の前で腕を組んだ。
「しかし…どうしたものかな」
こうして猫に安楽死をさせてから10分の間、森は腕を組みながら思案しているのだ。
二人に真実を言うべきなのかどうか。
「無下にしたくないよな」
あいつらの気持ちを。
「なぁ俺はどうすればいい?あの子達に真実を語るべきか?お前は死んだんだと、無意味な行動だったと落胆させるべきか?」
猫に問い掛けてみる。もちろん返事はなかった。
だが二度と鳴くこともない半開きの口からは何かを訴えるように少量の唾液が流れ出た。
「わかった。俺は嘘は嫌いだが、お前の気持ちを汲んでやる」
これは何度となく見てきた光景だった。
生きているものが死ぬ。当たり前の摂理なのだ。
俺はただ人間が愛する動物の命に少しでも永らえる術をほどこすだけなのだ。
目の前で動物が死に飼い主が別れを惜しんで泣く。
何度も見てきた光景だ。
なのに。
俺はいま深い泥沼に足をとられているように感じた。
あらゆる感情のなか森は思案を重ねた挙げ句、決断し扉を開けることにした。
30分ほど経ったときに獣医師が扉を開けて出てきた。
「君達…」
言葉を詰まらせる獣医に樹里は思わず口元を押さえる。
獣医は落ち込む表情から一転して笑顔を作りあげた。。
「助かったよ」
「え…」
「命は助かった。内蔵はやられてなかったな。ただし…歩けないかもしれないな。後ろ足をやられている。たとえなんとか歩けるようになったとしても走るのはまず無理だろう」
樹里の顔が喜びに満ちていく。
「君達があの子を助けた。一つしかない命を救ったんだ。服を真っ赤にして駆けてきた君らがね」
森の話しを聞いた樹里は眼鏡を外して泣き出していた。
「よかった…助かった…よかった」
樹里は涙を流しながら記憶を蘇らせていく。猫がフェンスの穴を抜け出してからの記憶だ。
轢かれる場面。
大橋彰がフェンスを潜り抜ける場面。そして二人で走ったときの乱れる呼吸の音。
樹里は溢れ出る涙を拭こうと、鼻を啜りながらスカートのポケットからハンカチを取り出すが指先が震えて床に落としてしまった。
それを彰はすぐに拾いあげる。
樹里は嗚咽混じりに「ありがとう」と言ったときに彰の横顔を見た。
彰の顔は固さが取れて綻びてはいたが、断じて自分みたいに感情を顕わにして泣いてはいなかった。
彰は森から結果を聞いたときもいつものように冷静だった。
まるでこの結果が予測できたみたいに。
「先生…」
彰が森を見つめた。
森は下を向いて彰の視線をさりげなくかわしていた。
彰は呆然とした。
樹里は涙を流しながら「ほんとによかった」
と何度も言い続けた。
「先生。ほんとにありがとうございました。お金はあとから持ってきます」
樹里がそう言うと獣医は顎髭を触りながら苦笑いをした。
「なに?金か…金なんていらない。私が君達から金を取れるわけないだろ。あの猫はな、優しい人間に助けられて嬉しかったと思ったはずだ。人間も捨てたもんじゃないなと思ったはずだ」
森は彰をちらちら見ては表情を曇らせる。
あいつ。気付いてやがる。
だが森はこの嘘をやめられなかった。それは自分自身もまだあの猫は生きているのだと信じたかったのかもしれない。
「ただ、退院した後のことだがそのまま元の場所に返すわけにはいかない。わかると思うがあの猫はもう野良で生きていくのは難しい。猫を保護してるグループがある。退院したらそこに預けるつもりだ」
「私の家で飼います!」
樹里は涙を振り払うように右手で頬を擦ってから高々とその右手を上げた。
「なに?」
「先生!私の家で飼います」
「やめとけ。あの猫は後ろ脚をこっぴどくやられた。二度と歩けないかもしれないんだぞ?」
「はい!わかってます先生!あの猫ちゃんは…いや。ライトは私にいろいろなものを…」
「だめだ!」
森の怒鳴り声に近いものが狭いロビーのなか響き渡った。
「え…でも…先生…。いろいろなものをくれたんです。もう私とあの猫ちゃんは」
また樹里は泣き出していた。
「友達なんです!」
友人…。か。
「須田。もう行こう。後は先生に任せよう」
彰が樹里の腕を掴んだ。強い力だった。
「え!でも!ライトは私の家で…」
「いいんだ。とにかく学校に戻ろう」
樹里を引っ張るように入口の扉に向かっていく彰。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。学校へ戻ったときにもし先生に何か言われたら私の動物病院の名前を出すんだ。ほら電話番号も紙に書いておくから」
森はいそいそとメモ用紙を引き千切った。
彰と樹里が森に向かって深くお辞儀をしてから外に出ようと扉を開いたときに、再び太い声が彼らを引き止めた。
振り向くと森は頭をぼりぼりと掻きながら言った。
「ありがとな」
森が腰を屈めて窓から見るのは中学生二人の後ろ姿。
強い陽射しを浴びながら二人は歩いていく。
そしてその先に視線を移すと僅かに見える体育館の高い屋根。




