無我なる救出
樹里は本で読んだ言葉を思い出していた。
仁愛の徳とは背中から発するもの。
樹里は彰の背中に呼びかけていた。
「大橋くん!」
樹里が呼んだ彼の名前は、心の声が滲み出たように甘くてせつなかった。
彰が猫に寄り添うほどの距離まで近付くと、猫は小さな声をだしながら手足をばたばたと動かし始めていた。車がクラクションを鳴らして通り過ぎていく。
樹里の拳が固く握られる。
こんなに残虐で節操のない人間達が支配する世界で…まだこの猫は希望を失っていないのだ。
痛みでのた打ち回る猫はまだ希望の生を抱いているではないか!
彰が言った言葉を樹里は頭のなかで反芻する。
生きてる…生きてる…。
樹里の見つめる先で彰が猫を抱き上げるのが見えた。
すぐに一筋の血の流れが彰の腕まで伝っていくのが見えた。
「うわ!やめとけよ!あいつ何する気だよ。気持ち悪い!猫の死骸を!抱き上げてるぜ!」
田中が喚きながらフェンスの穴に頭を入れて尻を突き出しこちらに戻ってこようとしていた。
「田中君!まだ生きてるよ!」
樹里が田中に向かって首を横に振りながら言ったときに突如、金網のフェンスに何かが当たる音が響き渡った。
大きな音だった。
樹里にはその音が、がんじがらめにただ直線に延びる軌条をハンマーでぶち壊すような音に聞こえた。その音はとにかく自分の脳髄を激しく叩いたのだ。
がんじがらめの毎日。
あらゆるものに束縛され焦燥を繰り返す日々。学校と塾の往復で擦り減らす憔悴。親から打ち寄せる過度なる期待。
そして幼い頃から操られる自分の夢と自分自身。
いつか必ず虚無感に襲われ続ける日々がくるだろう。
樹里はこれから歩むだろう軌条が自らが望む道とは大きく逸するものなんだと半ば失望のなかで理解し毎日を刻んでいた。
彰は樹里の目の前でそれをぶち壊す。
そして彰は訴えるのだ。
校庭を見下ろす柔和で平和的な表情で、または寝起きのときのまだまだ眠たげな少年のようにかわいい表情で、または何事にも立ち向かっていく精悍で男らしい表情で。
私は彰を見るたびに怖いと思った。
それは。
私という名のレールの上で私という名の列車の操縦桿を私自身が握るということだった。
決められた軌跡を自らの意思によって外れるということは樹里にとって不安と恐怖が伴うのだ。
そしてもうひとつの恐怖。
それは大橋彰に私が弱く脆いことを見抜かれること。
私は待ち望んでいたのかもしれない。
大橋彰に私の気持ちを知ってもらい私の弱さを包んでもらうことを。
きっと彼は。
彼が本気で諸手を上げればいとも簡単に私の虚無を消滅させてしまうのだろう。
いまフェンスを叩く音は私の箍を緩ませはじめる。
彼は言うはずだ。
高々と右手を上げて。
樹里!そんなのは仮初めだ!
変えてしまえ!
自分で切り開くんだ!
学校からの帰り道。
塾からの帰り道。
その間だけ私は大橋彰を好きなように想像していた。
そして想えば必ず身体が熱くなるのがわかった。
いつしかその短い時間が明日への希望の火照りになっていた。
私は大橋君を意識している。
私は好きなのだ。
戦っていた。
それは気持ちを必死に押さえることと気持ちを解放させること。
ああ。いま私は解放に向かうのか。
もう。
止められないよ。
だっていま彼の表情は。
いままで見たどの表情よりも。
私は魅入っているのだから。
樹里も彰が叩くフェンスに向かって走りだしていた。
あの猫は私達の所為によって命を落とすか否かの瀬戸際にいる。
猫が轢かれて死ぬ。
それも決められた軌条だというのか?
違うのだ!断じて違う!
いま樹里は心から全て彰と同化した。
助けたい!
もちろん猫も、この人がいま押し出す必死さも。
助けたいのだ!。
このフェンスは決められた軌条。がんじがらめの世界に閉じ込めさせる檻。
それを彰は叩く。
その音は樹里のなかで何かを目覚ませるきっかけとなった。
自分自身を守り続ける殻の偽りを知った。
「おい!須田!近くに動物病院はあるのか!」
彰は猫を抱き抱えながらフェンスを叩き叫んでいた。
「あるわ!東門から走れば近いよ!」
樹里もフェンスにしがみつく。
フェンスの内側と外側に彰と樹里がぴったり張り付いた。
ニュースで見たベルリンの壁が崩壊し抱き合う男女の映像が頭に浮かんだ。
「私も行く!」
樹里は左右を見てから思い出したかのようにフェンスの穴を目指して走りだした。手に持つゴミ袋を離す。内部の枯れ葉達がカサカサと音をたてながら地面を流れていった。
そしてあるべき場所に舞い戻るかのように放出していった。
穴の手前にいた田中は、血を吹き出す生き物を抱え続ける彰を見ながら眉にしわを寄せて「うわ!汚ね!」とか「あいつ何考えてんだよ」と一人罵っていたが、樹里がこちらに向かってくるのに気付くと口元を歪ませた。
「あの血の量はもうやばいよな。あれはすぐに死ぬぞ。それに…祟られるんだ。俺は知ってんだ死んだ猫を助けるとな…」
「馬鹿ね!田中君はほんとに猫好きなの?私もあの子の命を助けたいの!」
樹里はすれ違う田中に捨て台詞を吐いて穴に向かって身を屈めた。
「あの子って…」
所詮は猫だよ。と言おうとしたが止めた。
田中は多少の罪悪感を抱いた。いま見せた樹里の悲愴な面持ちは田中にはそれなりの衝撃だった。
穴は割合に大きい。四つん這いになればすぐに潜られる大きさだ。
樹里も四つん這いになり潜ろうと頭を入れて両手両足を地面に付けた。土のひんやりとした感触と一緒にスカートに土が付着した。
上半身を潜らせ下半身も穴の下に入らせたときにスカートの先端がフェンスのワイヤロープの切っ先に引っ掛かった。それに気付くことなく身体を先に進めたためにスカートが大きくめくりあがった。
樹里の大腿部があらわになり白い下着を覗かせた。
そのまま四つん這いで先へいく。
すぐ後ろにいた田中が歓声に近いような声を出した。
穴からはい上がるとすぐに彰に駆け寄る。
スカートの後ろがまだ少しめくれたままだった。
「大橋君!獣医ならある!私の家の近くにあるの!」
彰が纏う白いシャツの腕の部分が赤い鮮血に染められつつあった。
茶虎色の猫は目を閉じたまま荒い息を吐いている。
「何分だ!」
「え?」
「走ったら何分!」
「あ…えと…東門から10分かからないくらい」
「行こう!」
彰はそう言うと、猫を抱えたまま東門がある方向へと走り出した。
「ちょっと、樹里!」
フェンスの向こう側から女子の声が飛んでくる。
「大橋君と病院に行ってくるから!先生が来たら説明しといて!お願い!」
そして彰の背中を追いかけるように走りだした。
彰の脚は思った以上に早い。
私が全力疾走なんて…
いったい…いつ以来かな…
そうだ…春の体力測定での50M走以来…。
こう見えても…
吹奏楽部なのに。
速いのよ。私は。
前方を走る彰の肘からぽたぽたと血が落ちていく。
樹里は足元に視線を落とす。
地面を蹴る足の横には波紋の列がなしていた。
猫が轢かれた映像が生々しいままに頭を過っていく。
大量の血。閉じられた瞳。荒い息遣い。
網膜の裏でリピートされる光景にはまだ未知なる続きがあるのだろうか。
それはもう当たり前な判決を下すように決まっていることなのだろうか。
いや…違う。
彰の背中に目を移す。
あの背中は。
あの人は。
仮初めの偽りの世界を壊す。
とにかく。いま私にできること。
それは…
「全力疾走よ!」
いま成すべきことをして未来を変える!
切り開くのよ!
樹里の長い足が地面を蹴りあげていく。額から汗が一滴となり落ちる。スカートからは何度も膝が顔を覗かせていた。
「ハァッハァッハァ」
東門に息を切らしながら着くと、彰の指が東に向けられた。
「須田!あっちか!」
「そう!」
彰と樹里は切らした息をそのままに東門を出て道路を渡る。
「走れば5分よ!」
「よし行こう!」
二人は体育館を背中に携えるように走っていく。
蝉が鳴き喚き、焦がすような陽光がアスファルトを照り付ける。
彰は走りながら腕に包まれた猫を見た。
流血は滞ることなく辺りを染め上げていく。
荒い息遣いと虚ろな目は明らかに薄まる命の色を表していた。
茶虎色の猫は彰の腕のなかで後ろ足を僅かに動かした。
「大丈夫だ。助かるよ。必ず」
その優しい声に対して猫は明らかなる反応を示した。
恐れ続けてきた人間に対して猫は身を委ねる決心をしたように「にゃー」と弱く鳴いてから瞳を大きく開けて身体中の力を抜いたのだった。抵抗するように弱々しく動いていた身体中の関節が制止した。
樹里は走りながら彰の胸に抱かれた猫の鳴き声を聞いた。
「ハァッハァッ…え…!大橋君!もしかして…」
「大丈夫だ。生きてる。急ごう」
優しい声だった。
腕のなかに抱かれる猫の希望を受け持つように柔らかい声だった。
「よかった……うん」
四つ辻に差し掛かると樹里が指をさして先を走っていく。
「こっちよ!」
二人は走り続けた。途中で彰が樹里を追い抜いていく。
速い…。さすが陸上部…。
猫は彰の両手に抱えられたまま脱力を続けていた。
樹里は息を切らし自らの高鳴る心臓の音を聞きながら、彰の後ろをしがみつくように付いていく。
そして樹里は最後のスタミナを使い切るようになんとか横に並んだ。
「お、大橋君!そこ!そこの路上を入ってすぐの建物!」
「ここよ!」
樹里は森動物病院と掲げられた看板の建物のドアを勢いよく開けた。すかさず彰も猫を抱えたまま中に入っていく。
入るとすぐに窓口があってその横のスペースには椅子が数脚置かれていた。人の気配は感じられず閑散としたロビーだった。
犬の吠え声が奥から聞こえてきた。おそらく入院している犬なのだろう。
「すみません!誰かいますか!先生いますか!」
樹里が窓口から奥に向かって大きな声をだした。
しばらく間が合ってから
「いまは診察時間外だ!俺は昼食中なんだ!」
奥の部屋からは明らかに不機嫌そうな声が返ってきた。
「すみません!見てください!怪我してるんです」
彰の声が狭い待合室に響き渡った。
「なに?」
箸が床に落ちたような音が聞こえてきた。それに付き従う「ち!」という舌打ち。
それから慌てたように一人の男が診察室から出てきた。
髭を蓄えた中年の男性で白衣を着ていた。院長の森だった。
「車に轢かれてしまって。診てくれますか」
獣医師は中学生の腕に抱かれる猫を見てすぐに理解して表情を強張らせた。
「よしわかった。すぐに見ようじゃないか。で、この子は君の猫かい?いや違うな」
樹里が口を開く。
「はい…さっき学校の前で轢かれちゃったんです。先生お願いします!助けてあげてください!」
「そうか…。野良を助けたか。まったく。今時珍しいな。そんな中学生がいまもいるというのか。よしわかった。とにかくまずは止血だな」
診察室の扉を開けて彰と樹里に向かって「中に」と冷静な声で言った。
なかに入ると診察台が真ん中に置いてあった。その隣りにある机には広げた弁当と広げた新聞紙が置いてあり床には割り箸が落ちていた。
森は彰から猫を引き取とると診察台の上にゆっくりと置いた。
「こりゃこりゃ…。腹から下半身までを踏まれやがったか。くそ。内臓までやられてるな。………。」
森は顔を歪めていた。




