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初恋。  作者: 冬鳥
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”そのもの”の脅威

陽が沈もうとしていた。巨大な赤い半円が大地の際で、じわりじわりと攻め寄る雪雲に聖戦を挑むかのように光を発していた。陽が沈み落ち、夜が更ければ堰を切るようにこの地にも雪が降り出すだろう。新潟県新発田市の北国の在に住む彰にはすでに見慣れた雲の暗黒さと流れる雲行きだった。


厚い雲の隙間から覗く夕陽を、サングラス越しに見つめながらハンドルを握る。フロントガラスの向こう側に広がるいまにも灰色に掻き消されそうな淡いオレンジ色。視界をちくりと刺激する夕焼け。胸の隙間をちくりと刺激する現在。そして過去。


記憶はあの日に行き着くのだろう。


そして死神の大鎌の切尖が頬を撫で付けるだろう。


永遠に介在する記憶なのだ。


焦土させることも転換させることも不可能なのだ。


あの日。


あの日から彰の内外のあらゆるものが変化した。思春期から築き上げてきた己の自尊心、自意識は転落していった。彼は月が満ち欠けを繰り返す歳月なる日常から内面離脱した。


あの日から数日後、彼女とは会えないのが理解でき絶望的な虚無感が支配した。つまりは生きる屍となった。心は深い混迷のなか見事なまでに腐敗していった。


そして彰は後悔の名に手を取られ導かれるままに死を意識した。


だが…。


結局はこの歳になっても死ぬことはできなかった。



何故?



彰はいまも未来を考えることができる。一分一秒を漠然と生きていられる。


排除されるべき自己の魂と体は繋がったままだ。


彰は苦笑いをする。


あの日を念頭に思えば、まさしく生き恥をさらしているといっていいだろう。



彰には僅かばかりの生への執着があった。愛や自我を見失っても意識させる先があったのだ。



両親と親友。


ナイフを腹部に突き刺すとき。

紐を首に巻き付けたとき。どこかのビルの屋上の手摺りを乗り越え地上を見下ろしたとき。


両親と親友の面影は行為の歯止めになっただろうか。



彼は首を横に振る。


愛を石積にするならば奈緒子に抱く気持ちが頂点にあった。


その他の愛は頂点が崩れ落ちるときに諸共瓦礫と化す。


生への執着。


それは空手だ。


彰にとっての空手。


自分自身を錬磨し涵養する。日々積み上げていく武道なる精神。何万、何百万と反復を繰り返す空手の技。他人への礼儀を通して知る存在意義。


仏教で悟りを開くように、血の滲む練習を日々続けることによって空手の向こう側を見た彰は歓喜したのだ。


全日本軽量級で優勝し、日の丸を背負い世界戦にも出場した。

多くの人との繋りも得られた。七宝道場の指導員渡辺を筆頭に多くの先輩や後輩、試合で交えた好敵手がいた。

空手は奈落に沈みかけていた彰を救いあげたのだ。


12月27日。


この日は杉田奈緒子の誕生日になる。

特別な日だ。彰と壮太が幼い頃から意識した日だった。忘れることはない記憶が詰まる日。


一年前の12月28日。


会社に一本の電話があった。


「彰か!俺だ!沢村だ。久しぶりだな。何年ぶりになる?すまんな、懐かしがる時間はない。こちらはちょっと大変なことになっちまってよ。壮太が昨日、人を殺した。お前すぐにこっちに来れるか?壮太か?いや…、捕まっていない」



逃亡しちまったんだ。




いま彰は名古屋へと向かっている。親友だった遠藤壮太に会いに行く。

きっと…

彰は思う。


あいつも来るはずだ…。

あの公園へ。


今日は奈緒ちゃんの誕生日なんだ…。



眼前のオレンジ色の刺激が再び彰を過去へと誘っていく。






12月27日は奈緒子の誕生日。今日で奈緒子は11歳になった。


公園で、彰と壮太は奈緒子にプレゼント(二人が書いた奈緒子を祝福する手紙)を渡しその後は105号室の大橋家でケーキを食べた。


この日、彰は奈緒子との間での微妙な距離を感じていた。年齢の差だけではなく少しずつ大人に近付いていく奈緒子と子供のままの自分。うやむやなわだかまりがケーキの甘さに追尾するように頭を重くした。


その日の夜に見た夢。

まさしく悪夢だった。

彰の内部に映像を引き連れて踏み入ってきたなにかがいる。


頭の片隅の暗闇で、ひっそりと目を光らせ、”そのもの”と名付けた悪魔が棲息し活動を続けている。

彰は夢のなかで不快なる体温を感じることができた。


浮かび上がる映像はマンション横にあるいつも遊ぶ児童公園だった。赤い空に土色の地面。そして上部と下部が歪む領域。

彰は滑り台の前にぽつんと立っていた。青くペイントされた滑り台だけが唯一矯正されたかのように歪みなく原形を留めている。ふと背後に気配を感じて振り返ると大きな姿見があった。それは彰の背丈ほどの大きな鏡。


僅かな間を置いて、どこからか二つの息遣いが聞こえてくる。


突如姿見に現れた影像。


それは真正面から映る怯える自分と、その肩越しから覗く


”そのもの”。


彰は全身を強張らせたまま後ろにいる悪魔を鏡越しに注視した。

”そのもの”は醜い薄ら笑いを浮かべていた。


姿見を通して目が合う。

怯える目と蔑む目。


”そのもの”の容姿は異様だ。


まず目立つのは大きな一本の角だ。鏡の上部から優にはみ出るほどの頭頂から生る角は何かを暗示しているように勇ましく巨大だった。


体型は獣姿でライオンほどある。

四本の肢には巨大な鉤状の爪が鋭い光を放っていた。

数ヶ月前の夢に出てきた”そのもの”は顔が半分溶けた老人だった。

その前は顔を隠すマスクが真っ黒で新月の夜空のような道化師だった。


そしていま見る”そのもの”は獰猛な獣。




―さぁ次にこちらからあちら側に連れて行くのはお前の大好きな奈緒子だ―


唾液が大量に混ざるせせら笑いに彰は振り返って叫んだ。


―やめて!奈緒ちゃんを連れていかないで!



突然目の前に現れたのは眠ったままの奈緒子だった。白のブラウスに白のスカート姿の奈緒子は瞳を閉じたまま”そのもの”の背中に担がれていた。


”そのもの”は彰の無力さを笑う。


―クックック。彰。お前はただ泣き叫ぶだけだ。弱い男だ。さあ奈緒子を連れてくぞ―



―やめてぇ!!連れてかないで!奈緒ちゃん!奈緒ちゃゃゃん!



”そのもの”は奈緒子を担いだまま空へと飛んでいく。


彰は地上に突っ立たままにただ泣き叫ぶだけだった。

そして残された目の前の大きな姿見。空は黒く大地は赤くその他は黄色い。


涙を拭いて徐に見る鏡に映る自分のすぐ後ろでなにかが動いた。

それは”そのもの”が、大きな口から長い二本の牙を剥き出し彰の首筋に喰らう寸前だった。



―次はお前の番だ!―


うわぁ!やめてえ!!

死にたくない!死にたくない!助けて!




「うわぁ!」



叫び声と共に夢から覚めた彰は布団から飛び起きた。

首筋に触れると汗で指がべっとりと濡れた。皮膚と体温は変わらない感触であり温もりだった。彰は全てが夢だったことに安堵し胸を撫で下ろす。

寝汗が肌に纏わり付く。喉がカラカラに渇いていた。

布団から立ち上がり襖をゆっくりと開けた。隣りの六畳間では父親が布団も敷かずに畳の上で寝息をたてていた。


彰はその寝息が先程見た夢に出てきた化け物を連想させ不快な顔をした。テーブルの片隅には一升瓶とグラスがまるで浜辺に突き刺さる二本の浸食した杭のように佇んでいた。

彰はつんざく匂いに思わず鼻を腕で覆った。アルコールのこめかみを突くような匂いが逃げ場を失ったままに部屋中を漂っていた。


お父さんはどうしてお酒を飲むのだろう?


どうして飲まなければならないのだろう?


お酒なんてものがこの世界にないのなら。お父さんはずっとお父さんのままなのに。


彰は台所まで行き、水道水を一息に飲み干してからトイレに行き用を足した。そして物音をたてないようにゆっくりと部屋に戻っていく。


もしも父親が彰の立てた物音で目を覚ますものならば何を言われ、何をされるか考えるだけで恐ろしくなる。


彰は思う。

虚しく響く父親の粗野なままのいびきは、まだ酒に侵されている証拠なのだと。

父親はまだあちら側にいる。


襖を静かに開け閉めして自分の布団まで戻ると、隣りに布団を敷く母親が身体を起こしていた。


「あ、ごめん起こしちゃった?おしっこしたくなっちゃってさ」


「ううん、気にしなくていいから」


母親は優しく首を横に振った。



「嫌な夢でも見たの?大丈夫?うなされていたようだったけど」


「うん」


「お母さんの布団においで」


母親に言われるがままに10歳の彰は優しさと温もりを求めて母親の布団に潜り込んで胸に顔を埋めた。


母親の温もりは不思議だ。どうしてこんなに落ち着くのだろう?


彰は母親の体内を生きる鼓動に耳を澄ます。

柔らかい胸の奥で母親の温かみの元となる鼓動が音律を奏でている。


まるで催眠術や魔法のようだ。


彰の安らぐ眠気はすぐにやってくる。


きっと嫌な夢も見ないのだろう。



愛情に包まれたままに柔らかい睡魔がくるときに思った。


”そのもの”なんて怖くない。 のだと。


誰も僕と奈緒ちゃんを離れ離れにすることはできないんだ。

母親の柔らかさに身体を預けながら奈緒子のことを考える。そして眠りについた。


だが今回は違った。

強い怨念のように彰が見る夢はまた同じ夢だった。

再びそのものが現れる黄色の世界。


次は一つ目の赤鬼と化したそのものが巨大な棍棒を振り上げる。


彰は左足を激しくビクッと動かしてから目を開けた。

「どうしたの?」



「空手の蹴り…」


彰はまだ片足を夢の世界から脱してないように呟いていた。


寝付くときに足がビクッと自分の意思とは無関係に動くときがある。まるでなにかの発作みたいに脳髄からの伝達なく足が動くのだ。身体の力が抜けきったときに無意識に蹴りの初動作をする。身体が、抜け切らない稽古の緊張感を発散するように。


「ねぇ、お母さん」


「どうしたの?また嫌な夢見ちゃったの?」



父親の荒々しい寝息が襖を隔てた向こう側で続いている。彰は母親と囁きあうように話し始めた。


「空手でね、土曜日に教えてくれる人は渡辺先生っていうんだけどさ。うーんとね…何歳くらいなのかな。担任の水野先生と同じくらいのなのかなぁ。でねでね、その人の蹴りはすごいんだよ」



「蹴り?ふーん。そうなんだ」



母親は胸先で話す彰の髪を優しく撫でつける。



「この前もね、すごく大きな人の頭にガツンて渡辺先生の蹴りが当たってさ。でね、その大きな人はわ〜って叫んで倒れちゃったんだ。稽古終わってから壮太もすごかったなー!って騒いでてさ」


彰は先程見た悪夢が思い浮かんでいた。記憶から失いかけていた大きな姿見が目の前に再び現れていた。



二つの呼吸が交互に鳴る。

彰の呼吸はそこにはなかった。空の上から俯瞰するような視点で二つの呼吸を見ているのだ。


眼下にいるのは、空手の指導員である渡辺と”そのもの”だった。


白い胴着を着た男と巨大な獣が対峙する。


にわかに”そのもの”が鋭利な角を渡辺に向けて突進する。それを渡辺はひょいと躱したまま上段蹴りの起動に移行する。


高々と上がる膝から繰り出される足先は疾風の蹴りとなりそのものの側頭部にめり込んだ。

彰のところまで響く衝撃音なる威力は”そのもの”を一撃のもとに薙ぎ倒していた。


彰は目を輝かせ感嘆なる言葉を心に表した。


そして思う。


あの人みたいに強くなりたい!



”そのもの”が頭を抑えて泣き叫ぶ姿は痛快な光景だった。





彰は空手の指導員である渡辺に憧憬を抱く。


そして。


酒に侵食されていないこちら側にいる父親にも同じく抱く。


安堵に微笑んでいた彰に母親が釘を刺すように言った。


「ねぇ彰。空手はね、いつでも辞めていいんだよ」


「え?」



「母さんは空手なんかやる彰はあまり好きじゃないかな」


「え?どういうこと」


母親の意外な言葉によって瞬時に現実へと戻らされた彰は母親の胸から顔を離した。


「え!お母さんどうして?」



母親は彰を見つめる。

暗い部屋のなかでもわかる強い視線だった。


「あのね彰。暴力なんていけないことなの。だから人を傷付けることがすごいとか、かっこいいなんて思うのはおかしいでしょ?彰は友達を叩いたり蹴ったりなんかしないしされたくないでしょ?わかる?必要ないの。人を傷付けるのを練習するなんてだめ。母さんはそう思うんだけどな」


「う…ん」


母親は数ヶ月前に彰が空手をやりたいと言ったとき断固として反対していた。


「空手なんてだめよ。スポーツ習いたいなら水泳とか野球にしなさい」


断固反対する母親と萎れる彰。

それを寝床から起きてきた父親が制したのだ。


父親は頭をぼりぼりと掻きながら「黙れ」と母親の意見を捩伏せたのだ。


「お前は黙ってろ。空手か。いいじゃないか。素手を大刀に変えてみろ。おおいにやればいい。ただし彰。途中で投げ出すなよ。やるならとことんやれ。わかったな?」


「うん!お父さん!ありがとう!お母さんいい?空手やっていい?」


「ええ……。お父さんが良いっていうなら…」



彰にはわかっている。朝の父親は優しいほうの父親なんだと。

こちら側で腕を組み僕を見守ってくれる父親。

憧れる人だ。



「ねぇ彰。ちょっといい?母さん見せたいものがあるの」


母親は布団から起き上がり箪笥の引き出しから慎重に布に包まれた物を手にした。


彰も同じく正座させてから布を開くとお札のようなものが一枚顔を覗かせた。


「お母さん、何これ?」


「いい?彰よく聞いてね。これは神様のお札なの。このなかに神様が宿ってるの。いまから私が唱える言葉を覚えるの。いい?」



母親は暗号のような短い言葉を立て続けに三回唱えた。


「いま母さんが唱えた言葉を毎日唱えるのよ。このお札が閉まってある箪笥に正座をしながらするの。そうすれば彰にも善良なる神様が味方についてくれる。いい?わかった?そうすれば怖い夢も必ず見なくなるの。二人で祈ればお父さんも邪気が抜けてずっと優しいお父さんになるのよ。あとね彰。空手は辞めたくなったらいつでも言いなさい。大きな怪我をしたらいけないの。暴力なんて覚えても意味がないのよ。わかった?母さんは彰には空手を辞めてほしい。これが母さんのほんとの気持ち」


「う…うん」



祈る?

善良なる神様?

お父さんの邪気?

ずっと優しいお父さん?

空手はやってはいけない?

彰は母親が言った言葉に疑問符をたくさん抱きながらもその暗号を口にしてみる。

すると母親は破顔させて喜び彰の頭を何度も撫でた。


「そうよ。彰。ありがとう。それを明日から毎日言ってごらん。あらゆるものが浄化…えと、そうね、神様が見守ってくれるわ。あと、このお札のことはお父さんには内緒ね。また怒られちゃうから」



この暗号を祈るだけで…


美椙を奪っていった

”そのもの”に勝てるのだろうか?


唱えるだけで悪魔は退散してくれるのだろうか…


父親のいびきが、まるで轟音を鳴らし続けた機械が非常停止するかのように止まると二人はいそいそと母親の布団に潜り込んだ。


彰の母親は強い信仰心を抱いた。

それは愛する父親の内部にいる”悪魔”を打ち払うためだった。

2010年12月27日午後五時。名鉄豊川線国府駅前の国道一号線下りを新潟ナンバーのトヨタヴァンガードが走り過ぎていく。

並走する名鉄の赤い車両がひしめく国道を尻目に西へと吸い込まれていく。

大型貨物車や乗用車が混合しながら、一号線を絶え間無く東西へと行き交っていく。前方の信号が闘牛を戒めるかのように赤色に光れば、各々のテールランプは追随するかのように赤く猛っていく。


陽はとうに沈み、冬の夜空と変わったフロントガラスの向こう側が赤色に染まる。それによって彰の黒目も赤に同調した。


いま俺はここにいる…。


彰はハンドルを握る。

ブレーキペダルを踏む。

車内を流れるクラシック。


いま大橋彰はこの場所にいる。


みるみる温度は下がり寒さは勢いを増している。


一斉に赤く染め上げた視界の枠に納まる世界に寒風が吹き抜け音が鳴る。

ヒューッと物悲しい音があらゆる隙間を埋めていった。


俺はここにいる。


北風は前車のテールランプを揺らす。

まるで熱を帯びてめらめらと燃え始めるかのように揺れる。


本州上空を覆う強い寒冷前線はすでに彰が住む新潟県新発田市を白く染めあげているのだろう。

深い雪に埋もれる大地。


この風は…


おもむろにわずかに開かせた窓から吹き抜けてくる風は彰の前髪を揺らした。



きっと平野部も積もるだろう…。



暖冬だと言われ続けたこの冬は年が変われば姿形を変えてしまうのだろう。

そして北国の冬は長く閉ざされた閉塞感が支配するのだ。

待ち焦がれる春。

季節は巡る。


いま彰の心のなかでは時が巡っている。

封印していたものが今日溢れ出す。



いま思えば…

幼い俺は区切られた内堀をぐるぐると歩き回るだけだった。


あらゆる角度から何度も見上げたのは白壁の何層にも及ぶ厳格たる天守閣だった。


俺は…

敵を振り切って橋を越えて本丸を目指す勇気も突進力も素直さも無かった。

自分自身が作りあげた敵を目の前にして怖れ慄き尻込みを続けていた。

敵の矛先はずっと自分の喉頸の一寸先にあるんだと思っていた。


怖かった。


いま過去の記憶が鮮明に蘇る。それは、いま進むべきこの道の先にあるものを理解しようとし、過去に置き忘れてきた思慮がこの道の後ろにあるのを認識しているからだ。

この一本の長い道のなかに俺は同調しているのだ。

いつかは繋がるのだろうか。一つの答えに導かれるのだろうか。


「未来の答え…」


彰は口を開き言葉にしてみてた。

それから奈緒子を思い、壮太を思った。


信号が青に変わり赤く光るテールランプが人を裏切らない機械のごとく順々に薄らいでいく。

同時に彰の瞳からも赤みが失せる。

世界の基調となっていた濃厚な赤色が寒々とした灰色に変わっていく。


冷静に自分の心へと訴え続けるクラシック音楽は脳内への伝達機となり記憶を数多の木の葉に乗せて内部へと摩り込ませていく…。


内堀に佇む少年。

彰は想像する。


ひとりぼっちで立ちすくむ10歳の少年は空を見上げる。

大きくそびえ立つ天守閣。それは少年の目指すべく象徴だった。


少年は両手を握りしめ地面を踏み締める。

体内からみなぎる力を感じる。

そして誓う。


行こう。と。

あそこから見る景色はきっと僕が目指すべきものなのだからと少年は思う。

歩き始める。

一歩ずつ確実に踏み締めながら。


だが…。


目指すそれはいつしか少年を圧迫するだけのものに変わっていった。


大きくそびえ立ちこちらを見下ろす天守閣。

それは遠藤壮太だった。


彰にとって無二の親友であり追い求める対象者でもあった遠藤壮太。


彰は、彼も同じく彼女を愛していることを知った。


それは深く。深く。


二人の男は一人の女性をひたむきに求めた。



彰はタバコの煙りを肺の奥まで吸い込み灰皿で強く押し潰した。

ヘッドライトに照らされた信号上の地名を見る。

そしてバックミラーに移る。

いままでの過去とこれからの未来が映っていた。


答えは導かれる……か。


ヴァンガードは国道一号線に身を委ねたまま御油の街に入っていく。



年齢を様々に変えた杉田奈緒子の面影が、彰のなかで映し出されては消えていく。


10歳の奈緒子…12歳、15歳の…。


15歳。彰の内部での奈緒子の記憶はそこで終焉を迎える。

最後に見た奈緒子は泣き顔だった。

彰も泣いていた。

雨の日の別れだった。


その後の奈緒子。

それは模索し想像するしかない。


奈緒子との別れは同じく壮太との別れをも意味する。

あれから15年の歳月が流れた。


去年12月28日。会社にかかってきた一本の電話は、彰の全身に電撃を走らせた。



「おい!シュン!何言ってるんだ!壮太が?」



沢村という男からの電話を受け取った彰は、営業課の事務所内に響き渡るほどの大声を張り上げていた。

社員達の視線が一斉に彰がいる部長席へと向けられた。


「彰。詳しい情報は俺もわからない。わかるのは昨日、壮太がやっちまったってことだ。…やられたのはお前もよく知ってる奴だ」


「壮太…おい…誰…だよ…。シュン!」


沢村俊介から名前を聞いたとき彰は膝から身体が崩れ落ちそうになるのを咄嗟に片手を机に付いて防いだ。


「な、なんで壮太が……あの人を…?」



繋がる道か…。


真実はきっとあまりに不浄なのだろう…。



いま彰の網膜の裏側には12歳の奈緒子が現れていた…。


彰と壮太が奈緒子との距離を自覚し始めたあのころ。


彰は奈緒子に深い恋心を抱いているのを知った。



彰と壮太は五年生になっ

ていた。


このころになると奈緒子は二人から少しずつ距離を取りはじめていた。

彰と壮太は奈緒子ともっと遊びたい、もっと話したいと思うのだが、奈緒子のほうから遊びを断ることが増えていた。


奈緒子は二人よりも一足先に男女を意識する年齢になっていたのだろう。



「ねぇ奈緒ちゃん!」


小学校からの下校時に前を歩いていた奈緒子に気付いた彰が後ろから走り寄っていく。


「奈緒ちゃん!今日こそは遊ぼうよ!何しよっか、かくれんぼ?それともドッジボール?奈緒ちゃんがやりたいのでいいよ!僕から壮太には言うからさ。だって壮太はいつも野球にしちゃうから困っちゃうよね。僕は〜、奈緒ちゃんのやりたいことがやりたいかな。あ、それで何がいい?」


彰は額に流れる汗を手の甲で拭きながら満面の笑顔を見せた。


奈緒子の両サイドには奈緒子と同じクラスの友達がいた。

横並びに歩いていた三人の女子のうち奈緒子以外の女子二人は、一学年下の五年生の男子に突然後ろから呼び止められてきょとんとしている。

彰と女子三人がいる道路の向かいにネットを隔てた校庭が広がっており、上級生男子がサッカーをしながら陽気に騒ぐ声がこちら側まで届けられてくる。そのなか、一人の男子が走るのを止めてこちらを見ていた。



「あ…えと…。ごめんね。これから香織ちゃんの家に行くことになったの。今日もごめん、ちょっと遊べないかな」


「え…今日もダメなの?」


ガクンと肩を落とす彰を見て奈緒子の右隣にいた香織が話しかける。


「奈緒ちゃんの友達なの?」


「うん」


奈緒子が大きく頷いたのを見た彰は嬉しくて微笑んだ。


背が高い香織は、彰を見下ろすように口を開いた。


「ふーん。君は五年生?」


強い口調で聞かれた彰は思わず萎縮しながら応えた。


「うん…五年生だよ…」



「名前は?」


「えと…大橋あき…ら…だよ」


語尾が小さくなり俯いた彰をかばうように奈緒子がいそいそと彰と香織の間に入り込んだ。


「えっとね、彰君は同じマンションに住んでるの。私の幼なじみになるのかな。彰君。今日はごめんね。また誘ってね」



「うん…」



「ねえ奈緒ちゃん。男の子なんかとかくれんぼしてるの?」


香織ともう一人の女子の視線の厳しさを感じた彰はあまりに居心地が悪い。



「か、かくれんぼは楽しいんだよ!」


彰がむきになって言うと女子二人は急にどっと笑いだした。


「アハハ。むきになってる」

「かくれんぼは楽しいんだね、ボク。わかったわかった」



馬鹿にされたような二人の笑いが気に入らなくて彰は両手を強く握りしめて見返そうとするが、背が高く見下ろす香織の視線がなんだか怖くなり居た堪れなくなった。



「もういいよ…。じゃ、じゃあね奈緒ちゃん」



奈緒子に小さく手を振ってから彰は全力で走っていく。

そのとき奈緒子は小さな声で「ごめん」と通り過ぎる彰の肩先に言った。


あんな男の子五年生にいたんだ。

可愛い男の子ね。


と話すのが背中から聞こえてきた。


彰は走りながら復唱するようにいう。


「あの人達、かくれんぼを馬鹿にした。僕を馬鹿にした」


「馬鹿にした」



なんだかやたらに悔しくて寂しく感じた。



それに奈緒ちゃんは僕から話しかけられたとき明らかに嫌がっていた…


「奈緒ちゃん嫌がっていた」


「嫌がっていた」



僕のこと…嫌いになっちゃったのかな…


彰は人の心を読もうとする。


それは幼いころから狭い部屋での父親と母親の言い争いを間近で何度も見てきたからだ。

酔って怒鳴る悍ましい父親は裏の面になる。腕を組みながらぶっきら棒に話しかけてくれる父親は表の面だ。



いま父親が付けているお面は表なのか裏なのか。


彰は自分を保護するために人の心のなかを詮索して対処するのが癖になっていた。


小さな川の上にかかる青い橋を通るときに春の風を感じた。

それはあらゆる生命の息吹を感じるほどに透き通る風だった。



下校する大勢の小学生を巧みにかわしながら走っていくと壮太が友達数人を従えて歩いているのが見えてきた。


壮太の背中はすぐにわかる。五年一組の背の順では一番後ろに陣取る大きさだ。

壮太が道を歩いていると中学生が避けて譲るときがあるほどに大きな身体。

だから壮太の広い背中に吊されるランドセルはあまりにも不均衡に見えた。

サーカスでヒグマが座興でもしてるみたいに滑稽だった。

壮太はでかいうえに動きも俊敏であるので、いつも背中のランドセルは小刻みに動き回っていた。おそらくどのランドセル達よりも酷使されているのだろう、その困憊具合が表面に多く出そろっていた。


壮太にはもう一つ目立つ特徴があった。それは綺麗に刈られた坊主頭だった。

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