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初恋。  作者: 冬鳥
19/85

田中君の暴走

上体を低くしてこちらを注視している瞳には恐怖が宿りやせ細る身体には緊張を漲らせていた。


そんななか一人の男子生徒が竹箒をリズムを刻むように振りながらゆっくりと歩き出した。


「いい色した猫だな。俺の家にも猫いるんだ。よし手なずけてやる。俺には自信がある。あるんだよポケットにはスナック菓子がね」


男子生徒は笑いながらツツジが無造作に生い茂る場所へと近付いていく。


「にゃー」



猫が一声鳴いた。

その声は体育館の壁に萎れた野花を打ち付けるように悲しげな映像に音が追尾しないような声だった。猫が開いた口に対してはあまりに小さな小さな掠れ声だった。


だがそれはここにいる六人の耳にはしっかりと届いていた。




「田中。もうやめとけ。その猫は怖がってる」


彰が、田中と呼んだ男子生徒の背中に向けて言うと、田中は振り返り彰を一瞥してから再び背中を見せた。


「大丈夫だって。猫は猫好きな人間がわかるし犬は犬好きな人間がわかる。俺は猫が好きだ。すごく好きだ。かわいいじゃないか。ほら。あの子もいい顔してる。好きか嫌いか。それを誰かにわかってほしい気持ちは人も猫も持ってるんだよ。猫もきっと俺を好むさ」


終盤は誰も理解できないような話しでまとめた田中は、ちらっと斜め後ろにいる樹里の足元に目を送った。


いつも見惚れる白いふくらはぎがスカートと靴下の間から見えた。


田中は樹里が好きだった。

教室の席順では樹里の前になる。


いつも聞き耳を立てるのだ。

授業中、背後で樹里がたてる音を聞き漏らすことなく田中の耳は吸収する。


筆箱を動かし消しゴムを使い溜息混じりの呼吸が流れる。ときに樹里の吐いた息が微かな余韻を残したまま自分の首筋に当たることもあった。

プリントを前から後ろに渡していくときなんかは最高の喜びと緊張が入り混じるのだ。(上級生の不良達よ!シンナーや煙草なんかでは味わえない興奮が愛では得られるんだよ)


たえず感じる樹里の気配。


そして振り返って渡すときにわざと触れあうように仕向ける指先。


「ありがとう」



プリントを渡すときに必ず礼を述べる樹里の優しさ。

机の下に覗く白い二つの脛やふくらはぎ(ほんとに綺麗なんだ。まるで湖で羽を休める白鳥だ)。

浮き上がる胸の膨らみ(樹里の胸は大きいほうだ。俺の想像力をフル活用した予想では)。


俯くときにさらりと落ちる黒髪(掻き上げたときに覗く耳も綺麗だぜ)。


はきはきとした性格(一緒にいたらすげえ楽しい)。


授業に打ち込む真剣さ(俺がわからないところを質問すれば彼女は喜んで教えてくれるんだ!)。


田中は樹里が好きだ。

これは好きか嫌いかの子供のレベルとは違う愛の領域なんだと田中は自負していた。


そしていま田中は樹里の前で自分が猫好きなのを強調する。



「俺はね猫が大好き。ま、犬も好き。ようは動物はみんな大好きなんだよ。かわいいよな」



優しい男はモテる。


きっと。



田中の気持ちを汲み取ったかのように茶虎色の猫はまたか細い声で鳴いた。


「にゃー」


さっきよりは幾分力が篭った声だった。


「ほら。親愛の証拠だ。いまこの猫は心が通じあい警戒心を解いたね」



田中は樹里に向かってニッと笑いかけた。



いや、だが田中以外の人間達は違う風に捉えていた。


まるでこう言っているように思われた。


―それ以上はこっちに来ないで―。



まるで嘆願が込められたような声。



「もうやめとけよ。怖がってる。そっとしとけよ」




彰の言葉はいつも聞かないような厳しさがあったし先程よりも声に力が篭っていた。



田中は一瞬足を止めてたじろいだ表情をしたがすぐに

「大丈夫だ彰。俺は猫が好きだし。どう行けば怖がらないかわかってる。とにかくゆっくり背を低くして行くんだ。そしてこれだ」



田中はポケットから皺くちゃになったスナック菓子の袋を出した。




「やだ田中君。菓子はダメだよ」





樹里の言葉は背中をくすぐるようだった。




樹里は頭が良くてちょっと校則違反をするような男に弱い。


まさしく俺。




「まあまあ固いこと言わずに。ほら。これ食べるか?美味いぞ」



カサカサと袋からポテトチップスを二枚取り出し再び背を低くしながら歩みはじめた。



「にゃー」


また猫は鳴く。


大きな声は危機感を抱く声だった。

お願いだから来ないでというような叫び声に聞こえた。



「よしよし食べたいか。ほうら。行くよ」



この野良を捕まえて抱っこしてやる。きっと樹里は喜ぶに違いない。





「おい、もうやめろって」




後方で彰が田中の肩を掴もうと歩きだしたのと同時だった。




「よし!」



田中は猫に向かって走りだしていた。


突然人間がすごい勢いでこちらに向かってくるのに驚愕した猫は間髪を容れずに駆け出していた。素早い動きで真後ろにあった大きく開かれたフェンスの穴を潜り抜けた。




「あ!」


あの穴は…。


樹里はいましがた彰が言っていたことを思い出していた。

そして思った。あの猫は大丈夫なのか。と。



だってすぐ先には。





「くそ!」




彰の投げ捨てるような言葉は皆をドキッとさせた。




いつもゆらゆらと地に足を踏み付けてないように感情表現が少ない(沢村俊介とタイプは違えとどっこいどっこいというのがA組全生徒の見解)。



その大橋彰がいま明らかに怒っている!




「あーあ。逃げちゃった」


干されるように手に持っていたポテトチップスをぱくっと口に入れた田中の隣に来た彰は厳しい目付きで猫を追いかけていた。


猫は我を忘れていた。


全身を支配する恐怖はそのまま道路を横断させようとした。


逃げる。


あの人間達から。



茶虎色のやせ細る身体が歩道から車道へと前足を送ったときに一台の赤い乗用車が走り抜けていく。


猫の視界には大きな赤い物体が広がり迫っていた。

本能のままに危険を察知し前足を逆回転させる。


通り過ぎる巨大な物体。

猫は身を竦めながらその殺戮踏み潰し機械を見送った。


樹里を含めた女子三人が「キャッ」と高い声をあげた。



「ふぃー。危ないぞ猫ちゃん」



田中が笑いながら言うと彰は隣で厳しい視線を送った。



「もう離れるぞ。あいつはここに帰ってきたいんだ」


歩道のところで逡巡するように尻を下げて立ち止まっている猫は何度もこちらを見ては車道の向こう側を見ていた。



田中は口元を歪ませるように笑った。




「あいつってまるで人間みたいに言うなよ。笑えるじゃないか。所詮あれは猫だ」




「なんだと?」




田中は彰の様変わりな声に緊張したがこれでいいんだと言い聞かせた。



田中にしてみたら彰が気にいらないのだ。


普段教室で樹里がよく彰を見ていることが気に入らないのだ。

眼鏡に遮ぎられるあのつぶらな瞳はどこか寂しげであり、我を忘れたかのように身体を呆けさせ見送る視線は。


いったい…。


樹里のあの眼差しはいったいなにを意味するというのだ?



違う。


田中は指先についた菓子の油かすをズボンに擦りつけた。


樹里は彰を嫌っているはずだ。それを示唆させる言動は幾度となく聞いてきた。樹里が女子らと話す彰から離れたいから席替えしてもらうのだ、という内容も聞いた。


たが。俺はあの樹里の眼差しが気になる。


これはきっと嫉妬なのだ。愛のレベルに必要なもの。俺が樹里を愛している裏付けなのだ。



樹里は誰にも渡さない。


昨日はお風呂に入っていたら母親にノックされ


「お父さん帰ってきたわよ。そろそろ出なさいよ」


と言われ


「うるさいなもうちょっとで出るから!」



と言ってから、いったい何が出るというんだ?とにやけながら再び右手を激しく動かし始めた。


樹里は俺の彼女になる女だ。

そして田中は樹里の足首と胸の膨らみの先に広がる桃源郷を、閉じた瞳の奥で映像化させたままやがて射精に導くのだった。



大橋彰。ちょっと顔がいいだけじゃねえか(俺のがカッコイイけどね)。


頭も悪く態度も悪い。

(俺は学年順位50番。あいつは論外)


こんな奴に。



なんで俺はいまびびっちまってんだ!




「うるさいな。大丈夫だ。第一、向こうに行くはずないだろ。わざわざ轢かれに行く馬鹿な猫はそんなにいないぜ。少しは考えろよな。(少ない脳みそでさ)よしみんな!見てろよ!俺が助けてやる」


と生い茂るツツジの隙間を掻き分けてフェンスの穴に近付き上半身を潜らせた。


「田中!いい加減にしろ!」


彰が声を強く張り上げた。

樹里は瞬時に息苦しさを覚えた。

よく通る声の怒声は脳漿(のうしょう)まで響き渡るほどだった。


田中は彰の大声に再度驚愕したが、まるで何かと戦うように表情を強張らせたまま手足を使って身体をフェンスと地面の隙間から這い出した。


猫は迫りくる人間の恐怖に負けるかのように次なる行動へと移行した。


「キャッ!ダメ!」


女子の誰かが叫ぶなか、猫は背を低くして車が行き交う道路に再び足を踏み入れた。そして駆け出した。


この茶虎色の猫は車が行き交う道路の怖さを熟知している。


殺戮踏み潰し機械が行き交う向こう側(まだ見ぬ新世界)にどうしても行きたい衝動すらもこの賢い猫は必死に抗い我慢した。


人が近付いてきたらツツジの根元に身を隠す。

この猫が身に付けた防衛手段だった。

夜な夜な大勢の人間が来るが猫はいつものように身を隠し危機を回避した。たとえ見つかったとしても誰も気に止めなかった。たまに食べ物を放り投げてくれたりもした。



それなのに。


今日は悪魔の人間がいたのだ。

そしていま自分を捕らえる悪魔が追いかけてくる!



猫はいまアスファルトを滑っていくあらゆるものをぺちゃんこにさせる音を間近で聞いていた。生と死を簡単に連想させるこの音をいま見開く目の前で。



一つしかない命を守る工夫を必死に学んできというのに。

たった一度のミスが死を招くのだ。だが、あまりに強靭に突発的に迫ってきた恐怖は茶虎の猫を自らによって死地に進入させていった。


車の流れに入っていく、小さな身体。



「やめろ!行くな!」



それは彰の叫びと同時だった。



キキキキーッ!



車の急ブレーキの音が響き渡る。



耳をつんざく金切り声。


それはここにいる女子の声なのか果たして轢かれた猫の声なのか。


いまここにはあらゆる負の音が連鎖していた。



白い乗用車は猫を轢いた場所から10Mほど進んでから一度完全に止まりなにかを確認するように運転手の顔が動いていたが、やがて何事も無かったかのように走り去っていった。


アスファルトには横たわる小さな物体が残っていた。


「うわ!気持ちわる!」


田中は穴を出たところで呻き声を出した。



「キャアッ!」



「死んじゃったかな…」



「いやー、即死だろうな。完全に轢かれたよいまの」



「…」




樹里は膝に手をつく。

吐き気が胃を刺激する。


目の前で猫が轢かれるのは始めて見た。


気持ち悪い…



車は汚物を避けるようにハンドルをきっていく。



生と死というものはここまで両極端に位置しているというのか。


かわいいと言われていた生き物がいまは単なる汚物へと化しているのだ。



「かわいそう…」


樹里が口を押さえたときに何かが動き出す音と風を感じた。


彰が全力で走ってフェンスの穴を潜り抜けて行く。



「邪魔だ!」


穴を出たところいた田中に体を当てて退かした彰がまた言葉を放った。



「まだ生きてる!」



「え?」


樹里は彰に言われて横たわる猫を見た。

前足が微かに動くのが見えた。


そして小さく聞こえたのだ。


ニャー…と。



「やだ…聞こえた。ねぇ聞こえた?」



猫が横たわりながら発した声。


それはまるで…


助けて…


痛い…


まだ死にたくない…


まだ…生きたい…


助けて…



そう聞こえた。



「まだ生きてる!」



彰は歩道を突っ切り車道に飛び出した。

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