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初恋。  作者: 冬鳥
17/85

須田樹里の憂鬱

先程までいた壮太もその場を離れていき彰の周りには誰もいなくなっていた。そして彰はいつも見せる容態を樹里の目に映させていた。


「……」


机に頬杖をしながら柔らかい表情のまま校庭を見続ける彼。


樹里は物悲しい顔で彰の横顔を直視していた。


私はあの光景を何回見てきたのだろう。


こちらから見える彼の横顔は何かしらを制止させるように視線を止まらせるのだ。

彰の気配が漂う場所だけ時間の経過が違うように思えるのは不思議だった。


樹里は眼鏡のブリッジに指を置いた。

思案するときの癖だった。

彼はいったいなにを見ているのだろうか?

そしてなにを感じているのだろうか?


彰の前髪を揺らした風は教室を吹き抜けていき樹里のスカートの裾を小さく揺らした。



あの眼差しはなにを捕捉しているというのだろう。


不思議な人だ。


樹里には彰のどこか儚さが宿るあの瞳は自分達が見る日常とは違う世界を見ているように思えた。


何の変哲もない校庭の風景、あらゆる重圧が伸しかかる平生に対して彼は何かしらの転換をしているのだろうか。


ほんと不思議。


彰の横顔をしばらく見つめていると、ふと教室を覆うざわめきが消えたような錯覚にとらわれた。

その途端にあの場所へと吸い込まれていきそうになる。


ダメ。


樹里の高鳴る鼓動に付き従うように警笛が鳴り響く。

私を引きずり込むな。



樹里は重く気怠そうに口を開いた。



「嫌いなタイプ…よ。だいっきらい。あんな奴」



深いため息は平静を追い掛けていた。



隣りにいた友達は微笑みながら樹里の頭を優しく撫で付ける。


樹里は彰の残像を消し去るように目を閉じた。


「やっぱり席替えしてもらう。先生に頼んで大橋君からはうんと離れた席にしてもらう。先生はわかってくれるよね?。だってあんな馬鹿は目障りだしだいっきらいだから。同じく馬鹿の人が隣りの席に…」



「樹里。落ち着いて。わかったから。ね?来週はA組イメージチェンジになる。で、大橋君は樹里のもっとも嫌う男。私はすごく理解できたよ。だから悪口はもう終わり。そんなに馬鹿馬鹿言わないの。他の人が聞いたら樹里を嫌いになるよ」


「ごめん…」



友達はやれやれと両手を広げた。






高校、大学と進学していくなか樹里は中学時代の記憶を次々と排出させていった。あのとき飽きるほどに見た光景や聞いた音など体感したものは蝋燭の火が消えていくようにおもむろに体外へと消失していった。


だが。

彰が見せた表情や声や香りは、彼女が広げる両手いっぱいのなかに大切に収納された。

そしてそれを逃がさないように彼女は必死に抵抗した。時の流れに逆らったのだ。

そしていつしか脳裏に克明に刷り込まれていった。



現在もなにかの弾みで想いだされる初恋の温もりがここにある。胸の灯はともる。


樹里は思う。

彰に対する蝋燭の火はきっと永遠に付いたままなのだ。と。



大学を卒業して念願の獣医師となってからも、あのころの大橋彰の表情をいつでも克明に浮かび上がらせることができた。


もちろん樹里は現在までに何度か恋愛を経験してきた。

初体験は17歳だった。


それから何人かの男と愛を囁きあい体を重ね女の喜びも知った。


だが辛く挫折しそうなときや孤独や寂しさに襲われたときに思い浮かぶのは大橋彰だった。


男が体内に進入し滴る汗の香りとともに強く抱かれるときも、瞳を閉じればあの光景がまるで昨日の光景のように浮かんだ。



風で揺れるカーテンと彼の前髪。

同じくゆらゆらと揺れ動く記憶の邂逅。


そして樹里は彰を思い涙を流す。

事を終えて樹里の泣き顔を見た男は「痛かった?」と聞いてくる。


樹里は枕に顔を埋めた。この涙を笑われたくはなかった。決して。


樹里はただ過去の残像となる初恋に嗚咽するのだった。






「じゃあ部活行くね」


友達との別れを告げて教室から廊下に出た樹里は向かいにある校舎を目指して歩いていく。


吹奏楽部の練習が行われる音楽室は北校舎四階にある。


樹里はA組の教室に心を留めたまま歩いていた。


大橋彰。


その名前は黒魔術のように樹里を苦しめる。

火の玉が重しを付けたまま心の奥底まで落ちていくように感じるのだ。



嫌い。


とにかく嫌いなのだ。

目障りなのだ。


樹里は指を折りながら彰の嫌いな部分を強引に幾つもあげていく。


「頭悪いところにキザなところでしょ、無神経なとこに鈍臭いところ。容姿なんてどこかのうらぶれた野良犬みたい。他にもたくさんあるわね」


呪文のように繰り返し悪口を並べていくといつしか重しが取れ浮上をしていくのがわかる。


その後は身体も心も軽くなるのだ。


やはり私は彼が嫌いなのだと確信する。



心の眼差しがいま歩く場所へと追い付いたときに階段が目の前に迫り小走りに上がっていく。そのときに黒いケースがカタカタと鳴った。





北校舎は二年生と三年生の教室があり廊下や踊り場には上級生が俄然に多くなる。


樹里は眼を伏せながら四階まで階段を上り吹奏楽の部活動が行われる教室に入っていく。


なかに入ると一年生の女子が数人固まって話しをしていた。

樹里は教室を見渡す。


上級生はまだ誰も来ていないようだった。



「みんなおつかれ」


樹里が挨拶をすると一年生は笑顔で挨拶を返してくる。


「あ、樹里ちゃんお疲れ」


「今日も暑いね」


一通りの挨拶を終えて樹里が自分の席に座ると一年B組の打楽器を担当する女子が近付いていく。


学部内ではとくに仲の良い友達だった。


クラリネットが入ったケースを開けたところで名前を呼ばれた。



「樹里ちゃん。この前やったパートは完璧にできそう?」


目の前に来た友達は額に汗を浮かべ微笑んでいた。


樹里も微笑みを返す。



「うーん。まだかなぁ。なかなか難しいし塾もあるから練習時間も短いしね」



「樹里ちゃん毎日塾あるんだよね?」


「もちろん。毎日10時までね。だからなかなか時間ないのよね」


「すごい。私なんて塾は週二だし9時までだよ」



一年生がそれぞれに仲良しで輪を作り話していると扉がゆっくり開いて一人の女子が教室に入ってきた。


樹里はおもむろに顔を上げた。そしてその女子を見て強張らせた。


入ってきた女子は小柄で髪が長い二年生の女性だった。


小さな顔に大きな瞳が印象的だ。


だが。


多くの一年生が苦虫をかみつぶしたような顔をしていた。



彼女は仕打ちに耐えながら今日もこの教室に来る。


―もう来なければいいのに―。

吹奏楽辞めればいいのに。


それがここにいる一年生全員の心情だった。



彼女の大きな瞳はいつも宿命的なまでに下方に下ろされていた。床を見つめたままおぼつかない足取りで教室に入ってくる。


杉田奈緒子には一種異様な陰々さがあった。

樹里はその陰りから目を逸らす。


吹奏楽部の一年生全員が認識することがある。それはこの学部ではイジメが行われている。


上級生が寄って集って杉田奈緒子を侮辱する。

まるでガス抜きのように奈緒子は餌食となる。


誰かが聞いた話しでは、吹奏楽部内だけでなくクラスのなかでも杉田奈緒子は孤立しているらしかった。


何故?


樹里は最初疑問に思った。


何故この人が排除されるようになったのだろう。

そもそも何故差別が行われるのだろう。


在籍する一年A組にはイジメとよばれるようなものが一切ないからこそ樹里には疑問だった。


杉田奈緒子は自分の席まで来ると椅子の具合を確かめるようにしてからゆっくりと座った。


樹里の隣りの席になる。


腰をかけた奈緒子は小さな息を漏らした。


生気を追い出すような溜息混じりの呼吸だった。

だが生きている人がする呼吸の音だった。



樹里は横目で隣りの席を見る。


彼女の黒髪は生気を失ったように艶が無く、顔色もあまり良くなかった。


「樹里ちゃん。じゃあ戻るね」


「うん」



いそいそと離れていく友達。


樹里はクラリネットをハンカチで拭きながら横にいる彼女が発する空気を辿った。



入部したばかりのころにはじめて目撃した奈緒子に対する惨い仕打ちは、むせ返るほどに気管に刺激を受けた。


樹里の心に怒りと悲しみが覆った。

正義感が沸々と滾った



二年生の女が通りすがりに樹里の隣りの席に座る杉田奈緒子の頬を思い切り張ったのだ。


パシッと聞き慣れない音がつんざいた。


それは突然な出来事だった。


「え…何?」


樹里は状況を掴むのに数秒かかった。


頬を抑え俯く奈緒子。


そして奈緒子の頬がみるみる赤くなっていくのが樹里の目にもわかった。



「せ、先輩!いったいなにしてるんですか!」



樹里は立ち上がっていた。

「はぁ?」


二年生は立ち止まり振り返り樹里を睨んだ。

そばかすに細い目が印象的な女だった。


「ちょ、ちょっと先輩。だっていま…叩きましたよね?」




樹里が歩を進めようとしたそのとき誰かが樹里の袖口を掴んだ。



奈緒子だった。



「いいから…ありがとう…」


「え?だって先輩…」


見上げる奈緒子のはかなげな笑顔が痛々しかった。



「いい度胸してんね。あんたこいつの変わりになるってわけ?私達はそれでもいいわよ」


奈緒子を叩いた二年生は樹里の目の前まで来た。

他の上級生は何も言わない。

ほくそ笑む者もいた。

これは公然とした差別なのか。


「あ…いや…あの…」


一瞬にして全身に襲い掛かってきた恐怖によって言葉をしどろもどろにさせる。


弱い…。


樹里は高鳴る鼓動とともに自分の弱さを知った。



「須田。謝りな」



樹里は二年生に言われるがままに頭を下げて謝った。

悔しさで涙が出た。


「アハハ。よしよし。許すよ。これから杉田奈緒子をイジメることにつべこべ言ったら承知しないからね。ここにいる一年全員に言ってんの。わかった?」


樹里を含めた一年生全員が先輩らから目を背けた。



「奈緒子。あんた早く死んじゃえばいいのに」



奈緒子の机を蹴っていく二年生。



奈緒子は俯いたままだった。



それから樹里は避け続けている。

奈緒子のことを。



「あ、あの…。須田さん」


おどおどした声が隣りから聞こえてきた。


樹里は奈緒子を見ずに小さく首を振って軽く会釈を返す仕種をした



視界の隅でひっかかるように彼女のシルエットが映っている。華奢で小柄な体型はいつ消えて無くなってもおかしくないほどだった。



「あの…」


奈緒子がなにか意を決したように話しかけてきた。


「え…」


樹里が顔を向けると奈緒子は嬉しそうな顔をこちらに向けていた。


その時教室に上級生が入ってきた。

樹里は奈緒子からぷいと顔を逸らしてクラリネットの練習をはじめた。


奈緒子は摘み取られた花びらが可憐さの主旨を変えるように再び下を向いた。



私はどこでも嫌な人の隣ばかり…



二年生の女子が通り際に奈緒子の椅子を蹴っていく。

毎日の出来事だった。

奈緒子はそのまま後ろへ倒れそうになる。


樹里は何もしなかった。

何もできなかった。

見ることもしなかった。


「奈緒子!邪魔だよ!」


「……」


奈緒子は何も言い返すことなく椅子を元の位置に戻して座り直した。


樹里は毎日行われるイジメを見るたびに思う。


この人が…どうして…。





数日後。


夏休み前の大掃除が昼休み後に行われる。


席の位置から決められた六人がグループを作り、それぞれ教室の外に出て掃除をする。


昼休みのすぐ後なので生徒たちからは大きな欠伸が連鎖反応のように出ては消えていく。


「うし。シュン行くか!今日は煙草を吸う暇なんてまったく与えないからな!」


「馬鹿か壮太。声がでけえよ」


遠藤壮太と沢村俊介がいるグループは自転車置場へ向かい、大橋彰や須田樹里がいるグループは体育館裏の掃除へと向かう。


体育館を目指して歩いていく六人は各々に掃除道具を手に持っていた。下駄箱で上履きを靴に変えて校舎東側へと歩いていく。彰はポケットに両手を突っ込み靴の踵を踏みながら眠そうな表情で一番後ろを歩く。

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