君を守るということ 10
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何かの教科のどこかの教師がチョークを片手でもてあそびながら言った。
それは言葉尻に付け足すような投げやりで気にも止めない一言だった。
―今日東海地方も梅雨明けをしたらしいぞ―。
生徒たちの反応を見ることなく教師は教科書に目を落とした。
…梅雨明け…か。
教室中央の一番後ろに座る沢村俊介は教師のその言葉を何故かひどく色濃いままにしばらく耳元でくすぶらせていた。
そうか。夏が来るのか。
紫陽花は向日葵に変わり、蛍火は蝉時雨変わる。
俊介は何かを納得したかのように頷いてみせる。
目まぐるしく移り変わる風情の真意はきっと見上げる空が教えてくれるのだろう。
教師の言葉を残像としたままの俊介はいま無性に空を見たくなった。
求める夏空はすぐそこにある。
左側視界には眩い光が居続けているのだ。
重厚な白い雲と焼け付く陽射しが予測される。
だが。
その方向へ顔を向けたとき俊介の視線は見てはいけないものへと強制的に導かれていくのだ。
この場所から捉えられる窓の向こうに広がる果てしない大空はいつも理性と感情が制御と解放を繰り返し相乗していく。
俊介はいつものように外界の手前を遮るものを認識して、そしていつものように見惚れる。
鋭いままに凝視する俊介の身体は魂が抜けたかのように制止していた。ただそのなかで二つの瞳だけが炎々と鼓動を続ける。
―天使が舞い踊る―。
夏の陽射しは天使の優しさとなり窓際の席に座る彼と混在していた。
それが例えば雨の日であればどこか愁いな水気混じりの風が彼を包む。
空と同化するように彼はそこにいるのだ。
いま瞳を細め黒板に目をやる彼の柔らかい表情は俊介の目と心を通じて自らの掌まで下りてくる。
俊介は彰をそっと握りしめていく。
小指から薬指、中指から人差し指へとゆっくりと握られていくこの気持ちは希望と荒廃が満ち溢れている。
最後の親指が動き出したときに俊介の心は、はたと気付く。それは絶望的な懲戒が押し寄せてくるのだ。
へし折る…。
圧することによって突如薬指が跡形も無く消え失せる。
彰は場裏から開放されていく。
俊介は彰から逃げ出すように目を逸らす。
それは空からも目を逸らすことになる。
俺は狂ってる…。
変態だ…。
一匹の蝉の鳴き声が夏の来報を伝えるようにここまで聞こえてくる。南から流れてくる風がカーテンを揺らし教室に充満する熱気を浄化していく。
解き放たれた窓に、もたれ掛かるようにして外を見下ろす大橋彰。
気温はぐんぐんと上がっていく。
南門付近で俊介と三年生が喧嘩をしたのは二週間前になる。
あの喧嘩の次の日。
朝の教室で俊介は彰の背中に向かって話しかけていた。
「お前なんかやってんのか?」
「え?」
振り向いた彰の瞳から視線を逸らす。
「昨日見せたあれだ。あの蹴り。あれはカンフーか?少林寺か?」
「ああ。空手だよ」
彰はそう言うと俊介の痣だらけの顔を見つめてきた。
「な、なんだよ?なに見てんだ。喧嘩売ってんのかよ」
俊介が睨んで凄むと彰はクスッと表情を崩して微笑みを返す。
「ひどくなくてよかったよ」
「……」
うるせえよ。お前殺すぞ。
俊介は心のなかで言った。
そして顔を赤らめてる自分が心底嫌になった。
梅雨明けした日の夕方。
正門と呼ばれる校舎東側出口付近で俊介は、付き合っていたユキに別れを告げた。
告げるといってもなにを言えばいいかよくわからなかった。
何度か話し何度か手を繋ぎ、そして何度か抱きしめ何度か唇を合わせた。
女の身体の香り。
俊介はユキのうなじに顔を埋めその香りを知ったとき全身の血流が早くなるのを憶えた。
お互いが男女のその先にあるものを模索した。
大人ぶる初恋を共有した。
だが二人の間柄の解消は呆気なく終わった。
俊介がユキに伝えた言葉はたった一言だった。
「別れよう」
ぶっきらぼうなその言いはユキの思考を少しの間停止させた。
「え?どういうこと?」
「だから別れよう。もう好きじゃないんだ。ユキのこと」
ユキは俊介の裏切りに反逆するようにとめどなく湧き出る涙を流した。
「シュン君他に好きな人できたんだよね?そうでしょ?正直に言ってよ。言ってくれたほうが私も…」
「関係ねえよ。お前には」
「関係ないって…そんな…」
「好きじゃなくなった。だから別れる。なにか間違ってるのか?」
ユキは泣きじゃくりながら俊介の胸を二度叩いた。
「そんなの最低だよ!」
正門から走り去っていく13歳の女の背中はひどく小さく弱く見えた。
あの女はいったい俺のなにを知っているというのか?
何も知らないのだ。
俺の苦しみを
お前は。
知らない。
記憶は貧弱に簡単に忘却されていくだろう。
ユキはいい男と出会いそして自身を高めていける女だ。
こんな俺に振り回される女ではないのだ。
ユキのうなじに顔を埋めて鼓動を早めた俺は梅雨の終わりと共に消えた。
これからは腐敗臭を体内に抱きながら生きていくのだ。
ユキが走り去った後も俊介はしばらくその場所に居続けた。
空を見上げれば嫌でも思い浮かぶ。
夏の強い陽射しに照らされる彼の横顔が。
彼の左足が高く舞い上がりそして解き放たれる斬撃という名の衝撃が。
それらの幻影が何度も何度も頭のなかを引っ掻き回していく。
俺はどうなっていくのだ?
誰か。教えてくれ。
目の前にある現実を闇雲に納受する。
俊介は門の側壁のコンクリートに思い切り右拳を打ち付けていた。
ひりひりとした痛みはいまの自分を誇示しているような錯覚にとらわれた。
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授業が終わると壮太は俊介の席へ行き、二人は何か二三事話してから大橋彰が座る席へと向いはじめた。
二人が近付いていくと彰はいかにも寝起きな表情で、隣りの席に座る須田樹里と何か話しをしていた。
先週、東海地方も梅雨明けとなり、外を見れば陽射しがぎらぎらと校庭の隅々まで照らしていた。
彰が座る窓際の一番奥の席は、開け放たれた窓からの風と廊下に繋がるドアからの風が入り込んでくる。
ここは風が溜まる。
和やかな夏を運んでくる場所だった。
そして彰の前髪と襟を優しく揺らせ続ける。
外を見下ろすと二階からの景色が広がっている。
運動場では生徒達が体育の時間を終わらせて器具を片付けているところだった。皆が汗だくなのがここからもわかる。
そして生徒達が一年生というのもわかった。上級生に比べると身体が一回り小さい。
空は青く高く晴れ渡っており太陽はまだ高い位置にある。先週までの梅雨の長雨によって緩くなった地面は屹然とした固さを取り戻していた。
須田樹里は眼鏡をかけた背の高い女子だった。
彰は窺うように樹里を見ていた。
「俺が何か怒らせるようなこと言ったなら謝るよ」
須田は顔を上げた。
陽光を浴びて眼鏡が光りだす。
「べつに怒ってなんかないわよ。あのね、大橋君。私は怒ってはない、だけど」
「だけど?」
「授業はきちんと聞いてよ。先生が一生懸命やってくれてるのよ。それなのに大橋君は」
「ごめんさっきは寝てたね俺。風が気持ちよくてさ」
「昨日の数学も寝てた。三日前の英語も寝てた」
「え?俺はそんなに寝てるのか」
寝起き面のまま背伸びをする彰を見て樹里は心底馬鹿かこいつはと思った。
「最低ね」
そんなんじゃすぐに授業についていけなくなるからね。
と言おうとしたがやめておいた。
それを言ったとしてもすでに手遅れだからだ。
「さっきの授業のノート見せてくれないかな?いつの間にか寝ちゃってさ。たぶん半分も書けてない」
彰の無秩序な発言はかちんと来る。
「よくまあそんなこと言えるわね。授業中に寝ちゃう人に見せるノートなんてありません!」
彰の机をバンッと叩いた樹里の勢いに彰はたじろいだ。
「ご、ごめんなさい」
上擦る声で謝る彰。
誰がどう見ても彰が樹里に怒られているみたいに見えた。
そんな重たい空気のなかに壮太と俊介が平然と割り込んでいく。
壮太は彰の机に
「よいしょ」と座り
「ん?須田。どうした?何怒ってんだよ」
そのままの笑顔で彰を見る。
「いったいどうしたんだ?」
「いや…あのさ…ちょっとノートを見せてもらいたかっただけなんだけど…怒られちゃったよ」
ボソッと彰がいうと、樹里は腰に手を当てて眼鏡のブリッジを指で触れた。
肩幅に開かれた足もとのスカートが風でヒラヒラと揺れる。
「大橋君。いい加減にしなさい!」
夏の陽射しが、須田がかける眼鏡を再びぎらっと光らせた。
「授業中ほとんど寝てたんだよ?そんな人に」
「つべこべ言わずに見せてやれよ、優等生」
俊介が会話に割って入る。
「…」
樹里は俊介の声を聞くと言葉を飲み込むようにして口を噤んだ。
樹里は俊介のことが小学生のときから大の苦手だった。
「おい。見せてやれよ」
「え…でも…大橋くんが…」
「俺に同じ言葉を二度言わせんなよ」
凄む俊介の瞳はまさしく猛禽類のように鋭い。
須田はみるみると瞳に涙を浮かべていまにも泣き出しそうになる。
「あ、いや、ごめん。やっぱいいよ。次は寝ずにがんばる。もしまた寝たら叩いていいから。起こして」
彰が両手を合わせてから軽く頭を下げた。
「何よがんばるって。それにどうして私がそんなことしないといけないのよ。そんなの当たり前…」
「須田。ノートだせ」
俊介にもう一度言われると樹里は自分の机から先程の授業で使ったノートを取り出して彰の机に投げつけるように置いた。
「優しいな学級委員長」
俊介が樹里の肩書を強調していう。
須田は俊介と眼を合わせずに下を向いた。
「大橋君。これが最後だから。次言われても絶対に見せないからね」
樹里が最後の捨てぜりふのようにいうと俊介が笑いだした。
「お前はほんと小学生のときからかわんねえな。一言多いんだよ」
「沢村君もかわんないよ…もうちょっと優しくなっても…」
ぼそぼそという樹里は
「おい、いまなんか言ったか?」
と、また凄まれる。
「な、なんにもです…」
また泣き出しそうになった樹里は机の中の教科書を鞄に入れはじめた。
まだ五時限目でこれからもう一限授業があるのだが樹里はなにを勘違いしてるのか帰り支度を始めている。
なんだが気まずい雰囲気を壮太が打破しようとする。
「あ、あのさぁ、須田は確か吹奏楽部だよな」
「うん。遠藤君は剣道部だよね」
樹里は気持ちを落ち着かせるように後ろ髪を撫でた。
壮太が場を進める。
「須田が演奏をする楽器って確か…あれ?なんだっけ?それそれ」
机の脇にある黒いケース。
「これはクラリネット。ねぇ大橋君。もう部活始まっちゃうからノート早くして」
彰も樹里の言葉に、はて?と顔をするが、笑顔で頷いてから無言のままノートを書き写す作業に戻る。
「遠藤君は楽器に興味あるの?」
「ああクラリネットだ。ど忘れしたんだ。知ってるよでかい縦笛だろ?」
クラリネット。
彰の脳裏に鮮明なる杉田奈緒子が思い浮かぶ。
壮太はちらっと彰を見た。
彰は手を止めて聞き耳を立てる。
「そうよ。でかい縦笛。間違えてはないわ。え?まさか遠藤君クラリネットを演奏してみたいの?」
樹里は想像してみた。
熊がクラリネット…。
サーカス団の大きなテントが視界の枠いっぱいに広がった。
続きまして遠藤熊さんによるクラリネット演奏です。
樹里は込み上げる笑いを必死に押さえた。
「いやいや俺には無理だな」
「そうよね無理よね。大橋君。もう返して。時間オーバー」
「あ、須田ちょっと待ってくれ。もう一つ聞きたいんだけどさ」
壮太がまた須田に質問をする。
「クラリネットを演奏する二年生とも親しいのか?」
彰は壮太を見上げた。




