君を想うということ
初恋
2010年師走。
街をまばゆく彩らせていたクリスマスが終わり、世の中は年末年始に向けて忙しく駆け回る時であった。
愛知県東部に位置する街、豊橋市。
男はゆっくりとした動作で立ち上がり窓の外に目を向けた。
男の背後ではストーブの上に置かれた薬缶が沸々と滾り蒸気を発し続けている。
狭い部屋は長い時間、生温さと高い湿度に覆われる。
男は右手を上げる。その動作も慎重な思いが宿っていた。
一人の男が動く度に空気も呼応するかのように部屋の内部が張り詰めていく。
曇る窓を男の指がなぞる。
水滴が円弧上に拭き取られていく。
その指は男の容姿に反するように長く太く固い指だった。
白い肌に覆われた無骨な指。
男は外の景色を見る。
高校生のときから見続けた景色。
何も変わらない。
陰湿で圧迫する景色。
男は濡れた指をポケットに入れて煙草ケースをまさぐった。
男。大橋彰。
茶色のフィルターが彰の唇に触れる。
30歳。
大橋彰。
大学卒業後、豊橋市の機械工具を扱う会社に入社。五年前の25歳のときに新潟支店へと転勤になり、現在は新潟県新発田市に住んでいる。
独身。
狭い部屋の壁にかけられたカレンダーは過去なる日付をすべて赤い×印が席巻していた。
26まで消された数字。
彰は煙草を吸いながらカレンダーを無表情で見続ける。
幼い頃から見続けた風景だった。
過去と未来。そしていま。
なにかに追い掛けられるように父親が毎日欠かせず付ける×印を見続けてきた。
カレンダーに残る汚れなき五つの数字。
12月27日。
二日前の12月25日に新発田市から豊橋市に車で帰ってきた彰は、昨日26日、両親を連れ、車で1時間ほど走った場所にある蒲郡市の温泉街に行った。
親子三人の小さな旅行。
その旅行は彰のなかで何を意味していたのだろうか?
赤い×印。
28日を消す印を見たときに。
そのとき俺は何を感じているのだろう…か…。
彰はカレンダーから目を離すと、再び窓の向こう側に目を向けた。
大橋家は彰が中学を卒業したときに、逃げるように名古屋から豊橋に引っ越してきた。
両親はいまも同じアパートに住み続けている。
定年を迎えた父親は警備員のバイトをして母親は近くにあるラブホテルの清掃員をしていた。
二人はなんとか… 暮らしているという感じであった。
彰は欠かせず給料の一部を仕送りした。
幼い時から貧乏だった。
父親は給料のほとんどをギャンブルに注ぎ込み酒に酔うと母親に暴力を振るった。
ときにそれは幼い彰にも及んだ。
幼少期の彰は母親の涙を見ながら育った。台所で母親が涙を流し震えながらまな板を叩く背中を幼い彰は見続けてきた。
母親はさぞかし辛かったのだろう。ある日から新興宗教に没頭した。
それによって二人の喧嘩は一層に増えていった。
ひとたび父親が激情をすると幼い彰はただ呆然と立ち尽くす。あるいは部屋の隅で耳を抑えて過ぎ去るのを待った。
あちら側にいった父親がこちら側に戻ってくるまで。ただただやりすごす。
もし彰が母親の味方にもなれば暴力はますますひどくなるからだ。
「お前ら二人は俺を馬鹿にしてやがる!」
彰の頬を撃つ父親の平手打ちは恐怖でしかなかった。
母親は一人息子である彰に依存をした。生きる意味を、生きる価値を彰に託し求めた。
父親の突然なる仕事の解雇と膨れ上がった借金。
ちょうど同じく中学生の彰が味わった絶望。そして強く抱いたその場所からの隔離逃亡。
決められたレールに乗るかのように大橋家は名古屋から豊橋へと消えるように引っ越していった。
25歳のとき、新発田市への転勤が決まったとき彰は嬉しく思った。母親は一人息子の転勤を泣いて嫌がったが、今となってはこれでよかったと思っている。
いま二人はなんとかやっているみたいだ。
ただ…
彰は思った。
一泊旅行で二人の喜ぶ顔を見ていたら申し訳なく思った。ここ三年は一年に一度しか帰ってきていない。
父親の小さくなった背中。髪に混じる白髪が増えた母親。
あっという間だ…
30歳。
この歳にもなると一年が過ぎ去るのは早い。
彰の心のなかは15歳から付けられない×印が埋めていた。
あの日から。俺は止まっている…。
生きる屍と化しているのだ。
知りながら逃げ続けた15年。
27日。午後四時。
北風がさ迷い続ける夕暮れ時。
彰は蒲郡市から帰ってきたらすぐにある場所へと向かうのを決めていた。
西へ。
彰の脳裏に西の空が浮かぶ。
彰は煙草を灰皿で揉み消し、上着を羽織る。
台所では彰の母親が動静を見守り続けている。
「母さん。ストーブの近くに燃えるもん置くなよ。昨日も親父がすぐ近くに新聞を置いていたから。気をつけてくれよ」
玄関先で靴を履きながら後ろにいる母親に話しかけた。
「そうね彰。火事には気をつけないとね。もう行くの?」
「ああ。明日の夜には帰ってくるから」
彰は母親と目が合い小さく笑った。
「名古屋まで…行くの?。遠藤君の…」
母親は途中で話すのを止めた。
「…行ってくる」
母親は話しを切り替えるように無理矢理に笑顔を作りあげた。
「はい、はい。彰は気が変わりやすいから。予定が変わったら気にしなくていいからね。こっちには年明けまでいるんでしょ?」
彰は車の鍵を右手に持つ。
「ああ。正月まで世話になるよ。じゃあ、行ってくる。ところで親父は?どこに行ったんだ?」
母親は一瞬であるが寂しい顔をしてそれから目尻にシワを作りまた笑顔になった。
「また、いつものパチンコよ。せっかく彰に旅行に連れてってもらったのにあの人はダメね」
「ったく、親父は…」
変わっていないな…。
時が経っても 相変わらずこの人を苦しめて。酔って拳を振り上げる父親の影法師が脳裏に浮かび上がる。
「あの人は嬉しいのよ。彰が帰ってきてくれて、しかも温泉まで連れてってくれて。でも素直じゃないからねあの人は。ごめんね彰。あなたに会えたことすごく嬉しいのに。ほんと不器用」
「不器用か…親父も老けたな」
そう言うと母親はまた小さく笑った。
父親の広い背中に太い腕。
幼い彰はその威圧的な背中が怖かった。
親父のことは大嫌いで大嫌いでそして…
…憧れた。
「じゃあ行ってくる」
これから名古屋にいる遠藤壮太に会いに行く。
俺のかけがえのない親友。
遠藤壮太。愛知県東部に位置する豊橋市から名古屋市までは車で約二時間の距離である。高速道路を利用すれば、一時間足らずで着くのだが、彰は下道で行くことにした。
「焦ることもない。壮太。いまから向かうからな」
遠藤壮太
彰と同い年になる。
彼は小さいころからの夢であった警察官になった。
警察内でも 剣道の腕前は有名で名の通った剣士であった。これと決めたらとことんやり抜く男。彰も性格は似ているところがあり、幼い時からのよきライバル同士でもあった。
彼らは、築20年は過ぎたであろう古ぼけた四階建てマンションに住み、生まれた時からの住人同士だった。共に成長し共に遊び共に学んだ。
野球にサッカー、かくれんぼに釣り。 自転車での見知らぬ場所への遠出。
仲間達との遊びは毎日が冒険だった。
狭い世界の狭い視野の中、限られたありったけの知識と知恵と勇気で遊んでいたあのころが、彰が思うに、一番充実していたのではないだろうか。
二人が住んでいたマンションは、住人同士が皆仲良く屋上で花火をしたり、バーベキューをしたりと、日本のいまでは薄れつつある近隣との付き合いをしていた。
いま彰のなかで記憶が鮮明に蘇る。きっとそれら幼少期の記憶は簡単に引き出せるのだろう。ただ無理矢理に記憶の片隅にしまい込んでいるだけなのだ。
あのとき、四階建てのマンション屋上で見た景色はとても広かった。小学生や中学生だった彰はそこでよくこれからの長い人生を想像した。そして歓喜に包まれていくのだった。
あの事件が起きるまでは何の不安もなかった。
彰はアパート前の駐車場でエンジンをかけずにハンドルを握りながら一点を見つめていた。
黒のトヨタヴァンガードの運転席で彰は前方に広がる視野の先に心を運び込んでいく。
あの記憶。
夏に行われる町の花火大会。
マンションの屋上の生暖かい夏の夜風を感じながら、彰は体操座りをしながら花火を見ていた。空中に上がる花火はまるで自分に向かってくるような感覚だった。非現実的な光景、そして後ろで騒ぐ壮太が目障りに感じ、そして…そして…。
彰が横を向くと同じく座っている女の子がいる。肩が触れ合うくらいに近くに座る彼女。
彰は見とれていた。花火の光に照らされる奈緒ちゃんの横顔を…
―ねぇ彰君。すごく綺麗だね
―そうだね…うん綺麗だ
花火の閃光で赤く光る杉田奈緒子の横顔。
彰は見つめ続けていた。
奈緒子の長い髪から漂うシャンプーの甘い香り。
白い服が奈緒子に似合っていた。
後ろではしゃぐ壮太の大きな声。
いまのでっけ〜!
彰!見た?見た?さっきの花火でっけ〜!
遠い記憶。
初恋。
杉田奈緒子へ抱いた心。
それは数多く積み重なれた積木の一つにすぎない。
その赤色に輝く積木をいま彰は優しく見届けていた。
見届けるだけ。見つめるだけ。
その赤みは何も変わらない。この先も。
奈緒子の横顔も。
変わらない記憶。
悲しい追憶。
「さて…行くか」
彰はエンジンをかける。
車はゆっくりと走りだしていく。
角を曲がり、通りに出てから彰は煙草に火を付けた。深く煙りを吸い込み窓を少し開けて外に吹き出す。
世の中はやれ禁煙だ やれ分煙だのとうるさくなった。
彰は思う。こんなに良い物をやめてなにが楽しい?そんなに長生きがいいのか?長生きが勝利なのか?早死にが負けなのか?
煙草をやめる時は死ぬ時だろう。
景色は流れていく。
豊橋のアパートから30分ほど車を走らせただろうか。大きな道路表示の看板の下、国道一号線を左折する。
豊橋から名古屋へは、国道一号線が走っている。片側二車線の平凡な道と平凡な景色が続く。
彰は走行車線を安全速度で走り続ける。
時期が年末で時刻も夕方だ。車がとにかく多い。
今年の日本は暖冬傾向であった。いま彰が住む新発田市は冬になれば有数な豪雪地帯になる。だが今年は12月の雪は少なかった。
豊橋市の隣町である豊川市あたりだろうか。
信号が赤になり車がゆっくり止まる。
彰はなにげに携帯を見て助手席に置いた時だった。
ある情景が助手席の向こう側に広がっていた。
「こんなところにできたんだ…」
彰は去年のこの時期に同じく名古屋に向かった。 そのときはなかったはずだ。
それは空手道場だった。
中ではちょうど稽古中らしく白い道着に身を包んだ子供達が整列をしていた。
「懐かしいな」
年末27日。
稽古納めなのかもしれない。
道場は熱気で窓ガラスが曇っていた。
懐かしいな…
列の先頭には身体の大きな男の子がいる。その横には痩せた男の子。
まるで…俺と壮太みたいだな。
彰は信号を見るのも忘れ白い子供達を見入っていた。
ププー!
後ろからクラクションを鳴らされ 慌ててハザードランプを点滅させながら発車する。
「空手か。懐かしいな。」
彰は右の脇腹をさすった。
「あれは…効いたぞ壮太。」
あれは効いた…
なぁ壮太。
あれは偽りない真剣勝負だった。
奈緒ちゃんに恋をした二人の全身全霊なる戦いだった。
国道一号上下線ともに車が多い。路面電車が中央を走っていく。彰が運転する黒のトヨタヴァンガードはゆっくり西へと走ってゆく。北風が窓を小さく叩いた。
前車のマフラーから出る排気ガスが大きくたなびく。
昨日26日の夜から寒冷前線は南に下がりはじめ、上空は北風が強くなってきていた。その風は地上まで下りてくる。徐々に染め上げる。冬の香りを抱きながら。西の遥か先で赤く染まる雪雲。夕陽は見え隠れする。
太陽が沈むと共に寒さは一段と増していくのだろう。
今夜には愛知県でも初雪を観測しそうだ。
暖冬と言われるこの冬。その緩みは年内までなのだろうか。来年まであと四日。人々はどんな一年を送りそしてどんな一年に期待するのだろうか。
彰は右手人差し指をこめかみに当てながら物思いにふけっていた。エンジン音とタイヤ音の単調さが記憶の回帰の円を増長させていくように感じる。
雪か…
愛知の雪。
今日という日に降るであろう白い雪は何かを暗示しているのだろうか。
白…
思い出す彼女が示し続けた色。
奈緒ちゃんの…白色…。
雲の隙間からはい出るように夕陽が街を照らす。フロントガラスを彩る。
水平から射す弱い陽射しは彰の目を刺激してきた。
彰はバイザーからサングラスを取り出してラジオを付けた。
サングラスに隠される瞳。その内部で彼は邂逅を手繰る。
彰はいま記憶の装置だけがタイムスリップしていくように感じていた。忘れかけていたような記憶も頭に浮かぶように。
それはきっとさきほど見かけた道場の光景によってなのだろうと彼は思った。
それと久しぶりに親友に会いに行くことも重なるのだろう。
あとは、予測される白い雪が舞い落ちる世界だ。
彰の心のなかで、いま初恋を再び探り求める。
この単調な道路と、単調な景色。 無意味ともいえる自己満足な会話を続けるDJの声も上乗せしているのか。
しかし…
彰は苦笑いをする。
純粋だった。あのときは。何もかもが。馬鹿らしいほどに純粋を求めたのだ。
正義とは?
そして…恋とは。
俺と壮太。
行き着く先を認識した二人はある日、勝負をした。
二人の初恋の相手。杉田奈緒子を愛した故の勝負。
奈緒ちゃん。と呼んでいた。壮太も同じく奈緒ちゃんと呼んでいたあの時。
杉田奈緒子。
俺達より一つ年上で同じマンションの四階に住んでいた。
奈緒ちゃんはいつ引っ越してきたのだろう。
確か… 俺達が小学一年の時だっただろうか。
とにかく気付いたら 毎日のように一緒に遊んでいた。
マンションのすぐ隣りには、さして大きくはない公園があった。
どこの街中にでもあるようなみすぼらしい児童公園だ。
俺達はそこでよく遊んだ。
滑り台にブランコ。
砂場遊びに 鉄棒。
ボール投げをして
かくれんぼをした。
奈緒ちゃんには妹がいた。
奈緒ちゃんより四歳か五歳年下で近所の幼稚園に通っていた。
杉田美椙。
奈緒ちゃんはよく美椙ちゃんと手を繋いで一緒にいた。
美椙は姉が大好きで姉の奈緒子も妹が大好きだった。
二人はいつも一緒だった。
美椙の、お姉ちゃん!て高い声で楽しそうに呼ぶ声はいまでもよく覚えている。
「奈緒ちゃん。今日は何しよっか?」
彰が すでに泥んこになった姿で 四階の奈緒子の家に来た。
「あれ?なに彰くんどうしたの?。服が真っ黒だよ」
小学三年生になる奈緒子が彰を見て驚いた。
彰は頭をかく仕種をして「テヘ」と笑う。
「さっきどぶ川に落ちちゃった。ねぇ臭い?臭い?すげえ臭いだろ〜。お母さんに怒られちゃうから着替えに行くの嫌なんだよね。乾いたらニオイ取れるよね?ねぇ奈緒ちゃん行こうよ。壮太も公園で待ってるから。ね?遊ぼうよ」
「彰君ちょっと臭う」
奈緒子は鼻を摘んでわざとらしく彰の肩を指でちょんと押した。
「あ!何すんだよ。臭くねえったら!ねぇ奈緒ちゃん遊ぼうよ。みんな待ってるから」
「お母さん行ってきていい?」
奈緒子が奥に呼び掛けると母親が返事をした。
「はいはい。いいわよ。気をつけてね。あ、なら美椙も連れてってあげて。あら彰くん!どうしたの?真っ黒よ」
奈緒子の母親は玄関に妹の美椙を連れてきながら 心配顔の奥に笑顔を見せる。
「テヘッ」
彰はまた頭をかく仕種をする。
「あらあら。お母さんに怒られるわよ」
「うん。怒られる」
小学二年生になっていた彰。
母親の後ろには妹の美椙がいた。
奈緒子は小さな手を握る。
「じゃ、美椙。いこっか」
「うんお姉ちゃん。ママ行ってきます」
「よーし行くぞ!」
奈緒子と美椙は手を繋いで駆け降りていく彰に付いていくように階段を下りていく。
一階に下りてマンションの入り口を抜けて向かいの道路に出る。
「よーし今日はかくれんぼしよう。みんなやる気まんまんだぜ」
「いいわよ。彰くんが鬼になったら捕まらないからね」
「美椙ちゃんはお姉ちゃんから離れたらダメだからな」
彰は美椙の頭を撫でた。
「うんおにいちゃん」
「み、美椙ちゃん。あのさ僕はおにいちゃんじゃなくて彰君でいいよ。おにいちゃんだなんて言われたらなんか恥ずかしいだろ」
彰は顔を赤らめていた。
一人っ子の彰は 美椙のことが妹のように可愛いかった。おにいちゃんと言われて恥ずかしく照れるのだが本心はとても嬉しかった。
「おにいちゃん恥ずかしい?」
美椙が彰の袖を引っ張ると奈緒子が笑いだした。
「彰君。嬉しいんだよね、おにいちゃんて言われて」
「バ、バカ言うなよ。早く行こうぜ」
「おにいちゃん。おにいちゃん。おにいちゃん。おにいちゃん」
美椙の声は天使が滄溟に降り立つように高く透き通っていた。
「こ、こら美椙ちゃん、言い過ぎ」
「おにいちゃん、おにいちゃん、おにいちゃん大好き」
次は美椙が顔を赤らめていた。
公園に行くと壮太と 近所の同じ二年年の仲間達が三人いた。三年生は奈緒子だけになる。あとは園児の美椙。
「よ〜し。みんな集まったぞ。やるぞかくれんぼ!」
ガキ大将の壮太が号令をかける。
「おお!」
みんな笑顔だった。
彰は横にいる奈緒子の笑顔につい見とれた。
いつも美椙の手をとりいつも元気いっぱいで。
そして少しだけ僕よりおねえさんで
で、あの笑顔。
彰は不思議な気持ちになるときがある。
奈緒子とボール遊びで、転んだ奈緒子を助けようと思わず手を差し延べて繋いだとき。
心臓が高鳴って苦しくなった。 ずっと繋いでいたいって思った。
奈緒ちゃんの白くて温かくて優しい手。ずっと…握っていたかった。
それでぼーっとしてたら、相手の誰かにボールを当てられていた。
「彰くん。鬼は壮太くんだから早く逃げよう!」
奈緒子が彰の手を握る。
彰は心臓が爆発するくらいに鼓動が早くなる。
なんなの?この感じは。
壮太が 木に腕を当てて眼を伏せながら数をかぞえだす。
1 2 3 …
誰かが言う
「壮太早い!かぞえるの!」
「うるさいぞ!」
もっとかぞえが早くなる。
「わ〜」
みんな 隠れ場所を探して一斉に走りだす。
「奈緒ちゃんこっちに行こう!」
彰は奈緒子と美椙を連れてマンションの裏手に向かう。
そこで息を潜める。
三人は小さくなって マンション裏側のコンクリートに身を寄せる。
美椙が口を開いて小さな声を出す。
「あのね、わたしね、おにいちゃんかパパか、どっちのお嫁さんになろっかな」
彰の腕にもたれかかりながら言う。
「ちょっともう。美椙はなに言ってるの?」
奈緒子が恥ずかしそうにする。
「俺は美椙ちゃんのおにいちゃんでいいよ。うんおにいちゃん。わかったよ。いまからおにいちゃんて呼んでよ」
美椙の頭を優しく撫でる。
「うん!おにいちゃん!じゃあミスギはパパのお嫁さんになるねおにいちゃん!」
彰と奈緒子はクスクス笑い美椙を真ん中にして再び壮太に見つからないように小さくなった。
遠くで壮太の張りのある声が聞こえてくる。
誰かが見つかったみたいだ。
彰が何気に奈緒子を見ると目が合った。
彰は再び心臓が爆発しそうになる。
「あ、あ、あのさ、奈緒ちゃんてさ」
「え?」
急に恥ずかしくなる彰。
ボクは奈緒ちゃんをお嫁さんにしたい。
そう言おうとすると
「あー!いた!」
壮太が ひょいっと顔を出して大声を出した
「うわー!」
三人同時に大声を出して驚いてから笑い合った。
「彰。くせえーから次、鬼な」
壮太が鼻を摘むと、奈緒子と美椙も同じ動作をした。
「おにいちゃんクサイよ」
「ああ!なんだよそれ!よーし、ものすごくクサイ鬼だからな!覚悟しろよ」
毎日が楽しくて楽しくて。ずっと続いてほしかった。
ずっとなんてこの世の中にないのに、信じていた。永遠に…続くんだと。
たくさん笑ってたくさん遊んで。ずっと続くと思っていた。
だが、それは突然終わる。ある事件が魔物となり奈緒子を飲み込んでいくことになるのだ。マンションの欄干の感触。暗闇に染まる田園と点在する民家の明かり。
ざわつく夜空。
大人も子供も同じ先を見つめていた。
マンション屋上で見上げた花火大会。打ち上げ花火が破裂する度にあがる子供達の大きな歓声、風に流され鼻孔をくすぐる硝煙の煙り、鮮やかなる閃光がそれぞれの顔を染めあげていく。
彰は、隣りの奈緒子の赤く染まる横顔を見つめていた。
「あ!見て見て!お姉ちゃん!あそこ!」
奈緒子の隣りに座っていた美椙が突然立ち上がる。
美椙が小さな人差し指で示すのは幾度となく打ち上げられる花火のまたその先。
「お姉ちゃん!あれ!ドラゴンだよね!」
彰も見る。後ろで騒いでいた壮太も顔を向けた。
「え?ドラゴン?」
彰は満面な笑顔で美椙を見てから奈緒子に視線を戻した。
「あれは煙りだ」
壮太は豪快に笑う。
「違うよ!壮太おにいちゃんも彰おにいちゃんも!ほんとのドラゴンなの!花火を見に来てるんだよ」
硝煙が上空から東に流れていきそれが一本の線のようになっていた。街の夜空を横断していく巨大な白龍。
「真っ白なドラゴンだよ。うわぁ綺麗だなぁおっきいなぁ」
「うん。おっきいね」
奈緒子が慈しむかのように美椙の頭を優しく撫でた。
はにかむ美椙は瞳を閉じた。
「お姉ちゃん。ドラゴンだね」
「それも白いドラゴンだね。あ、白いドラゴンは神様なんだよ」
ほんと?
花火を見に来たのかな。神様も。
きっとそのついでに美椙にも会いに来たんだよ。
ほんと?私に?ほんと?お姉ちゃん!
うん。美椙は優しいから、きっと神様が褒めにきたんだよ。
奈緒子は頭を撫で続けていた。
奈緒子と美椙の後ろで彰と壮太も仲良く二人で肩を組んで微笑みながら夜空の幻想なる龍を見上げていた。
胸まで焦がすような花火の音。
奈緒子と美椙の柔らかい後ろ姿。
彰はずっと花火が続いてほしいと願った。
ずっと見ていたい。
ずっと感じていたい。
彰は奈緒子の背中に半歩だけ近付いた。
ある事件が…
いや、ある事故といったほうがいいだろう。
あれは
夏休みが明け二学期が始まってから数日経ったころだった。
学校からの下校道。
いつものように壮太と彰は二人でふざけあいながら帰る。小さな背中に甲羅となるランドセルを幾度となく揺らしながらお互いに意地悪なことをしたり学校のことを言い合う。
あの先生に褒められた。
教室の前の廊下で転んだ。今日の給食は美味しかった。
そんな話しを二人はいつまでも話せるくらいにはしゃぎあっていた。
「よし彰!今日は帰ってから何しよっか?やっぱさ野球だよな?みんな呼んで一組と二組で対抗戦な」
彰は空を見上げた。
西から張り出す厚い雲が真上まで競りあがってきていた。
「なぁ壮太。なんだかこれから雨になっちゃいそうだよ。だからさ野球はやめて誰かの家にいくってどう?」
「なんだよ。まだ大丈夫だって。雨は夜からだろ?それに俺はすごーく野球がやりたい気分なんだよな。だって昨日は彰の好きなサッカー付き合ってやったろ?やっぱさ俺は野球だよ野球。よーし、今日はドラゴンズの小松みたいな球を投げちまうもんね」
右肩をぶんぶん回す壮太。
「小松より星野だよ」
「うんうん星野な星野。ええよ。今日の彰はサウスポーの星野。俺は小松な。そうだな、打つとき俺は宇野でいこ。うし。やろうぜ。あれ?あ!なんかやる気感じない。彰からまったく野球の感じがしない。わかったよ。じゃあさ、じゃんけんでこのあと何するか決めようぜ!公平だろ?」
「望むところだ!」
大声でじゃんけんをする二人の上空はみるみる低くい灰色の雲に覆われていく。すでに数十キロ離れた西の空からは雨が降りだしているのだろう。
二人はマンション横の公園の前まで来る。
「野球。野球」
先程のじゃんけんで勝った壮太は勝利をもぎ取ったちょきのまま彰の背中を軽くつついている。
彰はむずむずする背中をくねらせながら公園に目を移した。
ブランコが小さく揺れていた。
「あ、奈緒ちゃんがいる」
奈緒子が一人でブランコに乗っていた。
二人は同時に走りだした。彰は途中で壮太を追い抜いていく。
足は彰のがめっぽう早い。
「今日は奈緒ちゃん学校終わるの早かったね」
彰が隣りのブランコに勢いよく座った。
壮太が 彰に盗られた〜というような顔をして 渋々、前の手摺りに腰をかけてランドセルを背中から外した。
「二人の声はずっと向こうから聞こえていたよ。彰君のうえーとか壮太君のうげーとか。今日はね四年生は五時間授業で終わりなの」
奈緒子は四年生になっていた。彰と壮太は一学年下の三年生。
「アハハなんだよそれ。うえーとかあぎゃーとか言ってないよ」
彰はブランコに立ち上がり力強く漕ぎ出して 片方の靴をぽーんと 蹴り上げた。
白い靴は弧をえがいて飛んでいく。
「ねぇ彰君。今日はこれから自転車買ってもらうんだよね?それからすぐに行く?私は―」
奈緒子が上目遣いに話しかける。彰は途中で話を遮るように口を開いた。
「それがさぁ今日は夜から雨だからまた今度ってお母さんに言われちゃったんだよね。雨が止んでから買ってくれるってさ。そんときは奈緒ちゃんドライブいこうね」
「う…うん。そっか。彰君すごく楽しみにしてたのに残念だったね。でも雨が止んだらってことは明日とか明後日だからすぐだね」
「うん!すげえ楽しみ!」
「ちょっと!俺もドライブ一緒に行くからな!」
壮太が口を尖らせた。
彰はまだ自分の自転車がなかった。
壮太の自転車を借りて十分乗りこなせるようになっていたので、あとは自分の自転車さえあれば三人で遠出もできるようになる。
「あれ。美椙ちゃんは?もう幼稚園は終わってるよね?」
壮太が聞く。
手すりのうえに上手くバランスを保ちながら両足を浮かしながら座っている。
ランドセルも器用に大腿部に乗せていた。
「今日の朝からお母さんと一緒に岐阜のおじいちゃんおばあちゃんのところに行ってるの」
奈緒子はゆっくりブランコを動かしながら状態を反らし上空を見上げた。
「ふーん。岐阜ってなんかすげえ遠いんじゃない?愛知県じゃないとこなんでしょ?」
「うん。すごく遠いよ。電車で一時間とか二時間とか」
「ふーん美椙ちゃんいつ帰ってくるの?僕さ、美椙ちゃんと一緒に庄内川見に行く約束したんだよね」
彰がケンケンをしながら靴を取りに行く。 あれ?明日は晴れの予報だぞ。 とか、でも雨はやっぱり降るよなぁ。など、ぶつぶつ言いながら片足で飛び跳ねていく。
壮太が待ってましたと、彰が座っていたぶらんこに駆け込む。
「美椙はおっきい川好きだもんね。でもね彰君、おじいちゃんの家の近くはもっとおっきい川があるから。美椙は満足して帰ってくるよ。明日の夕方には帰ってくるって」
「明日には帰ってくるんだ。ならさ、なんか美椙ちゃんにプレゼントあげようよ。びっくりプレゼント」
彰が言うと二人も賛成!と口を揃えた。
「よし!メダカつかまえにいこうぜ!喜ぶぞぉ」
壮太が、たも網が家にあるからと駆け出して行った。
「じゃあ僕はメダカ入れるなんか箱持ってくる!」
彰も駆け出した。
奈緒子が気をつけて!車来るよ!と二人に声をかける。
予定変更。
彰と壮太は野球もサッカーもやらない。
二人のなかの意志疎通だった。二人の心の真ん中には奈緒子がいる。
ただし。彰はわからなかった。奈緒子が彰と自転車で出掛けることに待ち焦がれていたことを。
奈緒子が抱いていく鋭利な刃物での傷口はここから始まっていく。
彰と壮太と奈緒子。三人でメダカ取り。
三人で近くにある用水路でメダカを三匹つかまえたときに雨がぽつぽつと降りだした。
走ってマンション入口まで来たときには瞬く間に土砂降りに変わっており三人はびしょびしょに濡れる全身を見合って笑いあった。
「濡れちゃったね」
「なんか嫌な雨だなぁ。でもなんとか取れたね、美椙ちゃんへのプレゼント。雨で三匹だけになっちゃったけど」
「ううん。きっと美椙は喜ぶよ。帰ってきたら二人から渡してあげてね。ふふふ、あとね、実はね美椙はもっと喜ぶことが待ってるの。それでおじいちゃんとおばあちゃんに会いに行ってるんだよ」
「え?なになに?なになに?」
壮太の口を奈緒子は笑いながら人差し指と親指で摘まんだ。
「んぐぐんぐぐんぐ…」
「いまは内緒。美椙から聞いてね。おそらく…おにいちゃんおにいちゃん聞いて!って向こうから駆け寄ってくるから、じゃあね!バイバイ!」
奈緒子は濡れた長い髪を揺らしながらマンションのなかへ走っていく。
「バイバイ!」
彰が大声を出す。
奈緒子は振り返りバイバイと応える。
バイバイ。
三人は何度も大声で繰り返しながら彰は一階、壮太は三階、奈緒子は四階のそれぞれの玄関を目指していく。
夜になると雨はより激しくなり地鳴りのような音で激しくマンションの壁を叩き続けていた。
俺はいまでも克明に覚えている。
あの日…。
強く降り続く雨と、一日まったく見かけなかった美椙
なにか言いようのない不安があったんだ。
次の日、学校から家に帰ってきたら母親に知らされた。
「彰!。奈緒子ちゃんのお母さんと美椙ちゃんが…」
「え?ちょっと!お母さん!どうしたの?なにがあったの!どうして…どうして泣いてるの!お母さん!」
「え…行方がわからないってどういう意味?ねえ!どういう意味なの!」
昨日からの大雨によって岐阜県で大きな山崩れがあった。
奈緒ちゃんのお母さんと
美椙ちゃんは
それに巻き込まれた…
懸命な捜索は続いたが、三日後に奈緒子の祖父母と母親、そして妹の美椙の四人は遺体となって見つかった…。
深い地中で母親が美椙を必死に守るかのように強く抱きしめたまま見つかった。
奈緒子の母の体内にはもう一つの命が宿っていた。
それを岐阜に住む祖父母に知らせに行ったのだ。美椙に弟か妹ができることを。
彰はタバコに火を付ける。 燻らす煙りが眼に染みる
あの事故は いろんなことを狂わせた…
あの事故さえなければ……
いまの最悪な現状ではなかったはずだ。
奈緒子の温もり。
彰の記憶はそれを忘れない。
決して。
愛を確かめあったあの日々を。
前方の信号が赤に変わったがアクセルを強く押し込んだ。タイヤが悲鳴をあげた。
目と鼻の先に悪魔がいる。悪魔の裂けた口元から発する荒い息遣いが頬を撫で唇を震わせていく。いにしえの人間達が叡智を駆使しても創造すらできないだろう極限なる醜い悪魔。死の世界へと断然と忽然に連れていく狡猾な残忍さを突き出る二本の牙に宿す。
得体の知れない力によって招かれるように死地へと赴いた奈緒子の母親と美椙。母親の胎内に宿るまだ下界も知らない命も一緒に。六歳になったばかりの美椙はどれほどの幸福を知ることができたのだろう?悲しみを乗り越えたさきにある喜びをどれだけ知ったのだろう?当時九歳だった彰は悪魔の存在を知った。醜い残忍な何かが、奈緒子の掛け替えのない命を一度に奪っていったのだ。
彰は寝付けない日々が続いた。美椙が見せてくれた笑顔と愛くるしい声。そして想像される死ぬ間際の恐怖と痛みと悲しみ。それらを考えるとあらゆる感情が入り混じり涙が止まらなかった。
夜中に目を腫らしながら何度目かのトイレに行く。隣りの部屋では父親が酒を飲みながら眠ったらしく明かりとテレビが付いたままだった。同じマンションの住人が亡くなってもこの人はまったく意に介なさいというのか?。彰は冷たい視線を父親に向けながら忍び足でトイレに向かう。
部屋に戻ると隣りで寝ていた母親が起きていた。
眠れないの?
うん…。…ねえお母さん。悪魔っているの?美椙ちゃんは悪魔に連れていかれたのかな…たくさんの大きな石や土の下に入っちゃってさ…痛かったよね…悲しくて…辛くてさ。お母さん…死ぬってどういうこと?どこに行っちゃうの?僕はもう…もう二度と美椙ちゃんには会えないの?
彰は泣きじゃくりながら母親に問い掛けていた。
母親は言った。
おいで彰。一緒に寝よ
母親は彰を抱きしめたまま横になる。
胸の膨らみが彰の頬を包み込む。
大きくて柔らかい母親の胸。そこに顔を埋めていると母親の優しさと温もりによって守られているという安心感が包まれる。彰はすぐに深い眠気がやってきた。
美椙を奪った悪魔を
”そのもの”と呼ぶことに決めた。
この世には悪魔がいる。
それは。”そのもの”
事故から一週間ほど経ったころ、マンションの住人達のなかで繋がりがある者達が杉田家に集まった。
杉田家の表札がかかる402号室は右端から二つ目の部屋になる。
いつも背伸びをして押すチャイム。
今日は彰の母親が押した。
一階の階段を上がるときから「奈緒ちゃーん美椙ちゃーん遊ぼ!」
連呼しながら二階、三階と駆け上がっていく。
三階で壮太が顔を出し彰の後ろを付いていく。
「俺も一緒に遊ぶからな!」
402号室の玄関チャイムを鳴らすと 奈緒子と奈緒子の母親と美椙が出てくる。
みんなが和んだ表情。
「彰くんの声はよく聞こえるね」
三人の満面の笑顔で出迎えてくれた。
だが…今日は違った。
彰の母親がチャイムを鳴らすと玄関を開けたのは
奈緒子一人だった。
「彰くん…」
いつもの笑顔なんてなかった。
くしゃくしゃな泣き顔の奈緒子。
彰は必死に涙を堪えて話しかけようとする。奈緒子に話す言葉は何度となく考えてきた。
励ます言葉を何通りも頭に入れてきた。なのに。
「奈緒ちゃん…」
その後は何も言葉が出てこなかった。
中に入れてもらうと 大人10人ほどが襖を外した部屋に座り込んでいた。
部屋の隅には壮太も小さくなって座っていた。
仲のよかった家族が
集まり偲んだ。
奈緒子の父親は毅然とした態度をしていたが、やがて誰かがぽつぽつと美椙や奈緒子の母親との思い出話しをすると、父親は睨むように位牌と二人の笑顔の写真を見つめ、そして溜めていたものが一度に決壊するかのように泣き崩れた。
「…あ…ありがとうございます…あ…ありがとう…ございます」
泣きながら 何度も何度も頭をさげた。
額が畳に何度も擦れる。
奈緒子の父親の涙が畳の色をほんの小さくだが変えていく。
その小さな部分の湿り気が、地中で苦しんだであろう愛する妻と娘の心に少しでも溶けこんでいくように。
幼い彰はそう願った。
みんなに愛されていた…。
みんなが泣いている。
この場にいる者達は憎むべき対象がいないぶん憤りさを欠いたままに悲哀へと傾斜した。
数十分後。
彰と壮太はいつものマンション隣りにある小さな児童公園にいた。二人は鉄棒の横で孤独を抱え寝そべるようなベンチに、半ズボンから出た両足を抱えながら座っていた。
啜り泣きが聞こえる。
一人は泣いていた。
一人は無言のまま空を見上げていた。
彰はしくしくと涙を流し、壮太は目を赤くしながら何かを睨みつけるかのように真上に位置する一等星を注視していた。
「…なぁ壮太…。もう会えないんかな…もう二度と美椙ちゃんに…会えないのかな。会いたいな…」
「そんなのは俺に聞くなよ。わかるわけないだろ」
早い速度で夜は深くなっていく。
「可愛いかったよな美椙ちゃん。おばさんもすごく優しかったし。もう…ぐっ…会えないんだよ…絶対にさ、ヒクッ…ヒクッ」
彰が涙を手で拭ったときに壮太が勢いよく立ち上がった。
「なあ彰!いい加減にしろよ!。もう泣くのはよせ」
「え?だって……何言ってるんだよ…死んじゃったんだぜ…美椙ちゃんがもういないんだよ。なんだよ壮太。お前は冷たい奴だ」
「うるさい!だから!もういいだろ!お前がめそめそ泣くな!」
壮太は深い怒りを排斥するかのように足元にあった小石を思い切り蹴りあげた。
「何怒ってんだよ!。壮太はなんとも思わないのかよ!悲しくないのかよ!」
彰が立ち上がり怒鳴り返したときに壮太のパンチが顔面に飛んできた。
大きな右拳が彰のこめかみに当たる。
「うわ!いてっ!な、な、何すんだよ!」
彰が壮太の胸倉を掴むと同時に、壮太はまた右拳を振り上げて彰の頭にぶつけてそのまま足を刈るように蹴りあげて転ばせた。
「ちくしょ!やったな!こいつ!」
彰も倒された状態で壮太のふくらはぎに思い切り噛み付いた。
「いでっ!くそ!彰!いい加減にしろ!いいか!よく聞けよ」
彰が立ち上がると壮太は肩をドンと押して距離を作った。
彰が壮太を睨む。彼の目は真っ赤に充血していた。
「いいか彰!俺らより奈緒ちゃんのが数十倍数万倍も辛いんだ。なんでお前がそんなに泣くんだよ!学校でも毎日メソメソ泣いて奈緒ちゃんの前でもメソメソメソメソ泣きやがって!いいか!美椙ちゃんが死んじゃったのはつらいよ!俺だって悲しいよ!でもお前がどれだけメソメソ泣いたってもう会えないんだよ!奈緒ちゃんのがすごく辛いのにお前がこんなに泣いてばっかで…奈緒ちゃんの前で…そんなんダメだ…バカ!彰のバカ!」
話しの途中から壮太も泣いていた、堰を切るように涙と鼻水が流れでた。
「壮太…」
彰は知った。壮太はずっと泣くのを我慢してきたんだと。
もっと辛く悲しみを背負った人がいるのだから。
その人の前では泣かない。と。
「壮太…」
「いいか!とにかく、とにかくな!俺らがさ…俺と彰お前で!奈緒ちゃんを…奈緒ちゃんをさ…守るんだよ!これからずっと守る!」
壮太は自らの胸を二度大きく叩いた。
「わかった…うん…わかった…ごめん」
「なら、もう泣くな彰」
壮太が彰の肩に軽く触れる。
「ごめんな。ここ、痛かったか?」
壮太が自分のこめかみを触った。
赤くなった彰の頬はみるみる腫れ上がってきていた。
「ああすごく痛かった!。だからますます泣いちゃっただろ!バカ!」
泣き笑いのまま彰が壮太の胸を叩いた。
「わかったよ壮太。俺らはもう泣かない。絶対泣かない。奈緒ちゃんを一生守るんだ」
「ああ約束な。守ろう。何があっても。だぞ?彰」
奈緒ちゃんを守る。
何があっても。
必ず。
命を賭けてでも。
幾つもの星が出ていた。
滑り台が月明かりで白く光っている。
風が公園のネットを揺らす。
―おにいちゃん―
二人は聞こえた気がした。
風が何かを揺らした音かもしれない。
遠くで見知らぬ子供が言ったのかもしれない。
だがそれは。
その声は。
二人は顔を見合わせた。
―おにいちゃん。
ありがとう。大好きだよ―
空から聞こえた。
まるで星が僕らに話しかけてきたように。
滄溟なる天使の声が降ってきたのだ。
もう泣かないって決めたのに。
二人は地面に突っ伏して泣いた。
彰と壮太は約束した。
男なら泣かない。
大切な人を守る。
何があっても。
必ず奈緒ちゃんを守る。
二人が交わした生きる意味なる宣誓だった。
唸るような強い風が北西から吹き荒れてくる。彰の乗る車のすぐ右隣を並走するトラック。荷台の幌を揺らす音。その乾いた音は今ある現実の空間へと心を戻らせる。
サングラス越しに広がる色褪せた情景は生きる生命が進行系に積木を積み上げていく側の世界。
車が西へタイヤを転がしていくのと同時に時も進んでいく。
いったい…。
彰の溜息が宙に舞った。
幼くして亡くなった美椙が必死に積み上げただろう積木は。いったいどこに行ってしまったのだろう?
それは。
いつしかあらゆる人々の心から消えていったのだ。
積木は跡形もなく崩れ落ち消滅したのだ。
彰はハンドルを握り続ける自分自身の右手を見つめた。
30年間生きてきた年輪を思わせる無数の皺が浮かび上がっている。
もちろんこの右手も知る過去に味わった自らの絶望と虚無。
そして失意を嘲笑うかのように空手で鍛えた勇ましさが跡を残す。
あらゆる感情と記憶がこの手には垣間見えた。
固く盛り上がったままの拳骨の皮膚。
コブラのように頭巾状に膨らむ指。
僅かに曲がったままの薬指。
日々鍛練の繰り返しによって凶器と変えた手足の名残。
そして身につけた強さを憎んだあの日。
俺は…。
彰は右手を強く握りしめた。
一人の女性を守りぬくために、一途なままに強さと勇気を求めた。
あの公園で。
遠藤壮太と交わした約束事から始まった…。
星々が輝く夜空は、公園の真ん中に二つのシルエットを作りだしていた。向かいあう大橋彰と遠藤壮太は小さな二つのお互いの右手を握り合った。
九歳の彰と壮太。
はにかみながらも強い力で確かめあうように握手をする。
「よし彰。これから何があっても俺達で奈緒ちゃんを守る。何があってもだ。これはその誓いの握手だ」
「よしわかった!守ろう!二人で!」
握った壮太の手からは大きな力強さと温もりを感じた。
排気ガスで黒ずんだガードレールがどこまでも続き、中央分離帯に落とされたゴミの吹き溜まりが点在する。多くの輸送トラックが東西へ荷物を運び乗用車が家路を急ぐ。
喧騒たる師走。
彰が乗る黒のトヨタヴァンガードは西へ。
やがて豊川市内にて国道151号線と交差する信号が前方に見えてくる。信号を右折すれば東名高速豊川インターチェンジがある。
彰の視界に交差点手前にある電光掲示板が入る。
渋滞 音羽蒲郡〜豊田 15キロ
東名高速も渋滞が出はじめていた。
彰は豊川インターチェンジには向かう気配を見せずそのまま信号を直進する。
壮太…。
いまお前はどこまで来てるんだ?
2010年。
日本は不景気が続いていた。
国道一号線沿いにはガソリンスタンド、コンビニ、定食屋だったであろう残骸が朽ち果てたままに残されている。
国道沿いを支配する殺風景がそれらによって増長していく。
彰が勤めている会社も不景気の影響で今年の暮れは長い休暇になった。去年までは愛知に帰る気持ちになど到底なれないくらいに短い休暇であった。
今年はゆっくりといられる。愛知県に。豊橋に。
そして名古屋に。
BGMをFMラジオからチェンジャーにストックしてあるCDに切り替える。
少しの間だけ車内は無音が支配し、そして小さなボリュームで車内を包み込むように流れだす。
ショパン
ノクターン。
円舞曲なので優美な曲であるが夜想曲でもある。前半を支配するのは情緒的であるが、静けさが漂いどこか寂しさと儚さも宿る。後半はワルツならではの舞踏に引き込んでいく。
ショパン、ノクターンといえば、第二番が有名だが、彰は第一番が好きである。
深い森の中にいる。暗黒が支配する世界にいるのは未知なる恐怖から逃れるためだ。自らの変革を求められることが怖いからだ。
だがいつしか光が誘う。
優しく手招きをするように。
身体のどこかが求めだす。鬱積が心のドアを叩く。
出よう。この深い森を。
そして伝播し始めた好奇心と希望によってついに意を決するのだ。それは自分の積木を積み上げるために。
ゆっくりと平原に向かう。押し潰されそうな不安と猜疑心を抱えながら一歩ずつおそるおそる歩んでいく。慣れ親しんだ森の深い闇を何度も振り返りながら。
そして森を抜け燦然たる光を浴びたときにいままでの過去を悔やむのだ。
ああ、こんなに森の外は…光は…空気は…温もりは、眩しくて暖かくて気持ちいいんだと。
いま彰は流れるクラシックと視界に広がる景色が同調するのを期待する。
マフラーから吹き出る黒煙によって薄汚れたガードレール。道路沿いに佇む朽ち果てた建物。それらは文明の発展の片隅で深い森からの脱却に取り残されたように存在していた。そのなかを優雅なままに流れる無数の車は、好奇心と希望をそれぞれの場所へと運んでいく。
運転をする行為から違和感が消えていく。
同化するのだ。
全ての物体と。
心を無にする。
肺に溜まった酸素を長い呼吸によって追い出していく。
いま彰の目の前の映像は空手の試合のシーンに切り替わっていた。
全日本大会決勝戦。
彰は胸を軽く叩いてから呼吸をする。
クールに受け止める。
冷静を欠いたら待つのは負け。
一瞬の技の攻防。
歓声が耳に届く。
大橋!大橋!
いかに無感情で戦うかだ。そして自分自身の全てを信じれるかだ。
瞑る瞳のなかの暗闇で何かが吹っ切れるのがわかった。
漲る自信と冷静。
これだ。
彰はいま完全なる勝利を確信した。
頭のなかは絶対的なる無音が支配していた。
栄光ともいえるフラッシュバックは慟哭の記憶と表裏一対。
それは決まってセットで映像として蘇る。
彰はそれを待っていたかのように再び大きく深呼吸をしてハンドルを強く握りしめた。そのまま皮張りのハンドルが変形するほどまでに握力をいれる。
腕と手首が筋肉によって大きく膨れあがる。血管が浮き上がる。黒革で巻かれたハンドルが悲鳴をあげはじめた。
彰は流れるクラシック音楽のボリュームを上げた。
車内の天井やドアの内張りが震えだす。
外部の音は何も聞こえない。
彰の頭のなかは長い無音が支配したままだ。
あの事故が起きてから、杉田奈緒子はよく彰の家に夕食を食べにくるようになった。彰はとても嬉しかった。 大好きな奈緒子と一緒にご飯を食べられるのだ。 そして食べ終わったら母親と一緒に流し台に並ぶ奈緒子の後ろ姿を見ていられるのだ。
ピンポーン。
チャイムが鳴り彰は待ってましたと走っていく。
小さな部屋が二つと小さなキッチンがあるだけの中を駆け足で玄関に向かう。
「はいはいはい!」
勢いよく玄関のドアを開けると予想通りの胸のドキドキが彰を襲いはじめた。
奈緒子が立っていた。
「はーい奈緒ちゃん。どうぞどうぞ、ささ、上がって上がって」
「ねぇ彰くん。ほんとに今日もいいの?おばさんに悪くないかな…」
「いいからいいから。気にしないしない。上がってよ。お母さんだって奈緒ちゃんが来るのすごく楽しみに待ってたんだからさ。気にしないしない」
彰の喜ぶ大きな声が奈緒子をリラックスさせていく。
奈緒子は笑顔になると靴脱ぎで白い靴を綺麗に揃えてから中に入っていった。
「奈緒ちゃんいらっしゃい。お腹減ったでしょ。どうぞどうぞ遠慮なく座って」
彰の母親がフライパンから皿に盛り付けながら奈緒子を見て微笑んだ。
「おばさん。ありがとうございます」
「ううん。いいのよ気にしないで。さ、たくさん食べてね」
テーブルに並ぶのはハンバーグと海老フライだった。
「うしやった!ハンバーグだ!」
彰は早速ハンバーグに箸を付けようとする。
「こら彰。きちんといただきますをして」
「はいはい。いただきます!うっめえ!お母さんのハンバーグ最高だよ!奈緒ちゃんも早く食べて」
そんな彰を見てくすっと笑う奈緒子。
とても楽しい食卓だった。
学校のことや、今日遊んだことを身振り手振りで楽しく話す彰。
奈緒子も彰や壮太と一緒に公園で遊んだときのことを彰の母親に楽しそうに話した。
「公園で、みんなでかけっこしたら彰君が一番だったもんね」
「うん。かけっこは誰にも負けない。でもねボール投げは壮太に勝てないんだよね」
彰がボールを投げる真似をすると手がコップに当たりそうになって慌てて引っ込めた。
「彰君と壮太君はほんと仲良しだもんね」
奈緒子が箸を上手に使ってハンバーグを食べる。
それを見ながら彰が
「奈緒ちゃんも仲良しだよ。みんな仲良し。でしょ?」
「うん!」
満面の笑顔になる奈緒子。
母親はフライパンにある残りのハンバーグを見て思い出したように
「あ、そうだ奈緒ちゃん。今日もお父さんの分もあるからね、帰りに持っていってね」
と言った。
すると箸を動かしていた奈緒子の手の動きが突然止まった。
「……」
奈緒子は箸を落とした。
そして泣き出した。
「…おばさんありがとうございます…」
「ううんいいのよ。明日もいらっしゃい。奈緒ちゃんはまったく気にしなくていいから。明日も明後日も来てね」
「はい…」
声を押し殺して泣く奈緒子。一滴の涙がハンバーグの上に落ちた。
彰は必死にこらえていた。泣かない。
壮太と誓った。
奈緒ちゃんを守る。
食べ終わると奈緒子が手伝いますと言って母親と二人で食器を洗いだした。奈緒子は背伸びをして一生懸命に手伝っている。
彰は二人の背中を、頬杖をつきながら見続けていた。
彰はずっと見ていたいな。と思った。
毎日見たいと。
「奈緒ちゃん!絶対明日も来てね!」
「うん!」
振り向いて大きく頷く奈緒子に彰も笑顔で応えた。こちら側に残された奈緒子と奈緒子の父親。杉田家の二人は助けあい励ましあいながら生きていくことになった。
少なからず…
幼い彰の目にはそう見えていた。
人は会者定離の苦しみから時間をかけて記憶を少しずつ馴化させ生者必滅、転化無常へと行き着いていく。植物が次第にその地域の環境に適した性質を持ち芽吹いていくように、人は生きていくためにいまある現実に否応なしに納得をさせて調整、順応をしていく。人は歎き戸惑いながらも平静を取り戻すために前を向き歩んでいくのだ。
透き通るほどの青空から一片の白い羽がひらひらと舞落ちる。
彰、壮太、奈緒子の三人が広げる小さな手の平のなかへとそれは引き寄せらていく。きっと包み込んだときには消え失せているのだろう。きっと。
だが感触だけがしっかりと記憶に残る。優しく繊細に感じたあの手触りがいつまでも。いつまでも。
美椙が亡くなってから一年が過ぎ、彰と壮太は10歳になり四年生になった。
身長も体重もそれぞれ相応に成長した。
二人の発育に関しては壮太のほうに著しさが見られた。
五年生になった杉田奈緒子も本来の無邪気な笑顔が戻りつつあった。
彰は学校から家に帰ってくると部屋にランドセルを投げ捨てるように下ろし、台所の蛇口をひねって水をコップ一杯飲み干した。そして間髪を容れずに公園へと向かった。
マンション入口の自転車置場まで来ると、同じく公園に向かう壮太の背中を見つけた。
「壮太!今日は何する!」
彰の大声は里の先まで聞こえそうに大きく通る。
壮太は背後の声を予測していたかのようにすかさず返答した。
「野球だ!すでに一組の奴らには集合かけといたからな!」
奈緒子も30分ほど後に学校から帰ってくると公園へと直行する。
そして彰と壮太が野球をするのを奈緒子はブランコに揺られながら応援をする。
「彰君も壮太君もがんばれ!」
奈緒子の黄色い声が耳に届くと俄然本気になる二人。
次の日は自ら野球をやってみたくなった奈緒子に、ボールの投げかた、バットの使い方など野球の基本を彰と壮太が一生懸命に教えた。
そして次の日、彰のクラスメートの男子が投げたボール(彰と壮太から奈緒ちゃんには絶対手加減して投げろよな!と何度も言われていた)を、即席のバッターボックスに立つ奈緒子は思い切りバットを振った。
「打ったぁ!奈緒ちゃんホームランだ!」
弧を描いてフェンスに当たる白球を見て手を上げて喜ぶ奈緒子。
彰と壮太もジャンプして喜ぶ。
「あ!走って奈緒ちゃん!ぎりぎりホームランじゃないから!」
夕焼けに染まる大地は、はしゃぐ声にも染まっていた。
繰り返す日々。
充実した日常。
あっという間に一日が終わり一週間が終わっていく。
マンション横の児童公園には彰と壮太のクラスメートが合流することもあったし奈緒子のクラスメートが一緒に遊ぶこともあった。
彰達を取り巻く小さな世界の周りは、違和感がない風に戻っていた。
彰と壮太は安堵する。
奈緒ちゃんの笑顔が戻ってきたことに。
ある日。彰と壮太が学校からの帰り道にいつものマンション隣りの公園に目をやると奈緒子が一人でブランコに腰を下ろしていた。
「あれ?珍しいな。今日は奈緒ちゃん一人だ。五年生はもう終わってたんだ」
壮太が彰に呟いてから大きな声を出した。
「奈緒ちゃんただいま!」
奈緒子は二人を見て笑顔でおかえり!と言ってから手を大きく振った。
「よし!」
二人はいつものように奈緒子のところまで駆けていく。
真剣になる。
どちらが先に奈緒子のもとへ行けるか。
どちらが奈緒子を…。
かけっこになると壮太が歯噛みする結果がいつも待っている。今日も例外ではなく、いつの間にか彰が壮太を追い抜いていた。
「奈緒ちゃん聞いてくれよ。今日はさ、彰がやっちまったんだ。めちゃバカなんだぜこいつ」
奈緒子の赤いランドセルはブランコ横にある滑り台に置いてあった。
奈緒子は学校帰りにそのまま公園に寄ったのだろう。
壮太が学校であった出来事を楽しそうに話しだす。
彰が遣らかしたおっちょこちょいな失敗談だ。
「あー壮太!奈緒ちゃんにだけは内緒にしといてって言ったのによ!なんて奴だ!」
二人は奈緒子の前でつかみ合いをしてはしゃぎあう。それを奈緒子が見て笑う。いつもの光景だった。
変わりのない穏やかな風が三人の周りを流れていった。
しばらく公園で話してから402号室の奈緒子の家にテレビを見に行くことに決まった。壮太が三階まで来たときに、「よし!この前ビデオ録画したやつ持ってこようかな!みんなで見ようぜ!ちょっと待ってて」と303号室の遠藤の表札がかかる玄関へと駆け込んでいく。
「壮太君なにが見たいんだろ?」
最上階の四階へと伸びる階段の一段目に足をかけた奈緒子が彰に聞いた。
「えーと、たぶんあれだよあれ。いま俺達のなかで人気あるんだよね。すごいんだよ。奈緒ちゃん楽しみにしてて」
彰の顔はニヤついていた。
珍しい彰の表情を見た奈緒子はビクッと肩を震わせた。
「あ!もしかしてジェイソンとか怖いやつ?ダメだよ。絶対ダメ!」
「え?奈緒ちゃん、そのジャイアン?え?ジェ?ジェイソン??てなに?強いの?」
奈緒子は先週父親と一緒に見たホラー映画の13日の金曜日に出てくる殺人鬼ジェイソンのことを簡潔に話し始めた。
彰の表情からは徐々に笑みが消えていった。
壮太が玄関を開けて階段で待つ二人に近付くと、どういうわけか彰が背中を丸めてびくびくと脅えていた。
「あれ?彰どうしたの?震えてるぞ。腹痛い?」
「奈緒ちゃん!僕、夜にトイレ行けないじゃんかよ!」
彰の涙目を見て壮太は首を傾げて奈緒子はくすくすと笑っていた。
彰がそうなった理由を奈緒子から聞いた壮太は大いに納得した。
映画とはいえ、奈緒子は人が死ぬ場面を見られるようになったのだ。
壮太はそれが嬉しかった。
数十分後には、奈緒子の部屋で三人は画面を見て興奮していた。彰は両手を強く握り、壮太は自分の太い腿を何度も叩く。奈緒子は両目を隠す指の隙間から画面を見ていた。
「いけ!そこだ!蹴りだ!ウヒャー!」
「決まったぁ!すっげー!いまの見たか?彰!すっげーな」
「キャッ!」
人が人を殴るシーンで小さな悲鳴をあげる奈緒子。
彰と壮太が熱中しているのは中国カンフーの映画であった。
カッコイイな。
ジャッキー・チェン!
彰、壮太の友達は野球選手の誰々、サッカー選手の誰々をカッコイイと騒いでいるが二人にはどの野球選手よりも、どのサッカー選手よりもいまブラウン管に映ってる人が一番輝いて見えた。
ジャッキー・チェン
理由は簡単だ。
強いから。
強さがあれば奈緒ちゃんを守れる。
もう二度と奈緒ちゃんを悲しませたくはない。
二人がいまなによりも欲しいもの。
それは純粋なる男としての強さのみ。
「カッコイイね強い人って」
エンディングテロップが流れるテレビ画面を、目を輝かせながら見ている奈緒子が誰ともなく呟いた。
それを聞いた彰と壮太は真顔で見つめあい大きく頷きあった。
その日の夜
マンションの一階と三階で少年二人は両親に必死に頼んでいた。
同じ頼み事。
「ねぇお願い!。どうしてもやりたい」
「とうちゃん!やりたい!強くなりたい!」
電話帳などで調べてみると隣町に空手道場があった。そこまでは自転車で30分はかかる距離だった。
二人は次の週から自転車を必死に漕ぎながら道場に向かうことになった。
ジャッキー・チェンの強さ。二人の本心は同じだった。
奈緒ちゃんを守る強さを身につけたい。
「こんばんわ!お邪魔します」
ある日の夜、久しぶりに奈緒子が彰の家にきた。
昨日、彰の母親がマンション入口で奈緒子と会ったときにたまには家に来なさいと夕食に誘っていたのだ。
「おばさん…。その顔の傷…」
奈緒子が彰の母親の頬に貼ってある絆創膏を見て不安げに聞いた。
彰はビクッと肩を動かす。
奈緒子はそんな彰の動きを見逃さないかのようにジッと見つめていた。
夕食の時間に彰の父親はあまり家にいない。
奈緒子も疑問に思っていたことだ。
彰は奈緒子の視線を感じると無理に笑顔を作った。
母親は絆創膏に触れてから奈緒子を見る。
「あ…こ、これね…自転車で転んじゃってね。えと…さ、で、できたわよ〜」
母親は奈緒子に背中を見せてカレーライスを盛りつけはじめた。そして振り返ったときにはわだかまりない笑顔に戻っていた。
「う…うわ〜ぼ、僕ね、大好きなんだよね…カレーライス。奈緒ちゃんも好き?」
彰の表情にはまだ動揺が残っている。
13日の金曜日の話しをしたときと同じ表情。
彰は怖がりで泣き虫である。そして想像力、感受性も豊富だ。
奈緒子は彰のことがよくわかるからこそ、いま同じく不安になり泣き出したくなった。奈緒子は俯いて鼻をすすった。
彰は父親が大好きだった。
剣道を教えてくれたり
キャッチボールをしてくれたり大きな肩の上へ肩車をしてくれる。
ただ酒を飲むと人が変わってしまうのだ。
顔を赤らめて帰ってきた父親はすぐに豹変する。大声を出し逃げ出す母親の頬を張り、髪を鷲掴みにした。ときには泣いて部屋の隅に隠れる彰にも暴力が及んだ。
「あなた!やめて!お願い!彰には手を出さないで!」
彰を抱きしめて守る母親に父親は躊躇なく蹴りを入れる。
「どけ!こいつの俺を見る目が気にいらねえ!なんて目をしやがる!」
混乱する少年がいた。
父親の二面性は彰をより臆病にさせて感情を不安定にさせた。
そして彰は徐々に表情を表に出さなくなっていく。
内なる闘志と外なる冷静。
押し殺す感情のなかで空手という砥石で心の刃を磨いでいく。
それが彼の精一杯なる自己防衛だった。




