第8話 プール
「なあ、もうやめようぜ」
2人の目線のちょうど中間くらいの高さの金網を見ながら森田が言った。
「怖いの?」
「怖いっていうか・・・うん、怖いな。お化けや七不思議が怖いんじゃなくて、
こういうことを仕組んだ人間がいて、そいつが近くにいるかもしれないってことが」
素直に森田が頷く。
寿々菜も同感だ。
だが、だからこそ、残りの全ての七不思議も見ておきたい。
仕組んだ人間と鉢合わせになることもあるかもしれないが、
今のところその「誰か」は寿々菜達に直接危害を加えている訳ではないし、
やはりその目的が気になる。
ただの冗談にしては手が込み過ぎている。
「夜の校舎もイイ雰囲気してるけど、プールも負けてないな」
「そうね」
一向に引き返そうとしない寿々菜を見て森田も諦めたのか、
月明かりを頼りにプールサイドを囲っている金網に手をかけ、よじ登り始めた。
「どうなっても知らないからな!」
「自分の身は自分で守るわ」
「・・・はあ」
暗闇にガシャガシャと金網が揺れる音が響く。
寿々菜が無事プールサイドに着地できたかどうかは、敢えて割愛するとして、
とにかく2人はプールを覗き込んで唖然とした。
「あ、そっか」
「なーんだ」
季節は春。
当然まだプールの授業はない。
つまり・・・
「水、入ってないじゃん」
「入ってるでしょ、一応」
「こんなのせいぜい20センチくらいだろ。それに、きったねー!」
森田がわざとらしく顔をしかめる。
プールの中には、去年の水の残りなのか、雨水が溜まっただけなのか、
藻が漂う緑色の水が少し入っているだけだった。
「こんだけ汚いと、なんか住んでてもおかしくないな」
「ツチノコとか?」
「・・・白木センパイの発想にはついて行けねー」
寿々菜と森田はどうしたものかとしばらくプールを覗き込んでいたが、
突然森田が靴を脱ぎ始めた。
「何してるの?」
「せっかくだから、入ってみようぜ」
「ええ!?」
これにはさすがに寿々菜も怯んだ。
入ると言っても足が少し浸かる程度だが、
それでもこの見るからにヌルヌルした水に入ろうとは思えない。
「なんだよ。白木センパイが言い出したことだろ」
「そうだけど・・・本当に入るの?」
答えを聞く必要はなかった。
森田は既に靴下も脱ぎ、制服のズボンを膝下までめくり上げている。
もう!!!
寿々菜もヤケになって靴と靴下を脱ぐ。
なんとなく森田には負けたくない(?)。
だが。
「~~~~うひょぉぉお~~~~」
「き、気持ち悪い・・・」
プールに入ったとたん、2人は足の裏のなんとも形容し難い感触に鳥肌が立った。
「俺、今年のプールの授業、受けたくねー!」
「私も!」
2人は少し爪先立ちになりながら、別々の方向にゆっくりと進んだ。
寿々菜としては怖くて一人になりたくなかったのだが、
森田に正直にそう言うのは癪である。
「なんかいる?」
「いや、なんにも。アメンボくらいだな。あ、蛙発見!」
「嘘!?やだっ!!」
また鳥肌が立つ。
しかしその時、森田が妙な声を上げた。
「うわあ!」
「何!?どうしたの!?」
「な、なんか、今・・・」
森田が両手を広げて左足をそろそろと持ち上げる。
「・・・なんかが俺の足に触った・・・」
「・・・蛙じゃないの?」
「いや・・・なんか・・・毛がついてた・・・」
寿々菜はゆっくりと視線をプールの中へ落とした。
そこには緑の藻が揺れているだけだ。
「何もいないわよ」
「だって、確かに・・・うわ!また!」
「ええ!?」
森田が今度は左足をプールに戻して右足を持ち上げる。
バシャバシャと水音がして、輪がプール全体に広がっていった。
寿々菜ももう「癪だ」なんて言っている場合ではない。
「森田君!こっち来て!出よう!」
「あ、ああ」
森田が寿々菜を振り返る。
その時。
バシャン!!
寿々菜の後ろで大きな水音がした。
寿々菜が固まり、森田が目を見開く。
「森田君・・・」
「・・・なんだよ・・・」
「今、私の後ろ、何か・・・いた?」
「・・・うん」
「・・・」
「なんか・・・黒くてデカイものが跳ねた」
「・・・」
「・・・」
2人は無我夢中でプールから飛び出した。
「森田君!」
全力疾走でプールから離れること約200メートル。
体育館の裏手で、寿々菜が森田の手を引っ張ってようやく二人は立ち止まった。
「なんだよ?」
「足が・・・」
「ん?ああ、大丈夫だよ」
大丈夫そうではない。
裸足でここまで走ってきたので、足の裏が擦り切れて血だらけになっている。
寿々菜も裸足なのが、こちらは怪我一つしていない。
ここまで走ってくる間、森田は寿々菜に幅の狭い柔らかな土の道を走らせ、
自分はアスファルトの上を走っていたのだ。
二人は体育館の脇にある水飲み場で足を洗った。
「あ、靴!靴下も!」
「持ってきてるよ」
森田が寿々菜に靴下と靴を差し出す。
「ありがとう・・・それに、足の怪我もごめんね」
「何が?」
森田は地面にドサッと座ると両手をついて足を少し持ち上げ、
それを乾かすかのようにパタパタと動かした。
寿々菜も隣に座る。
ここも静かではあるが、教室の中とは違い月明かりもあるし、虫の声や道路からの音もかすかにする。
夜風も心地よく、二人の恐怖は少しやわらいだ。
「さすがに疲れたな」
「そうね・・・もう帰る?あ、でも台本取りに来たんだったね」
七不思議に気を取られてすっかり忘れていたが、本来の目的は森田の台本を部室に取りに行くことだ。
だが、さすがに森田ももうそんな気が失せてしまったのか、首を横に振った。
「もういいや。今から帰って練習する気にもなれないし」
「うん・・・さっきのプールの中の、なんだったんだろう」
「さーな。またおもちゃかもしれないし」
森田はそう言ったが、
寿々菜は、そして当の森田も恐らく、そうではないと思っていた。
自動で動くおもちゃなら、あの広いプールで森田の足に2回も当たるとは考えられない。
ラジコンのように誰かが操縦していたとしても、暗闇の中、それも緑の藻が張っているプールの中のおもちゃを正確に動かすのは不可能だろう。
二人はなんとなく沈黙したが、森田が唐突に場違いな話を始めた。
「白木センパイはどこの高校受けんの?」
「高校?えっと、一応北原高校を考えてるけど」
「北原?公立の?」
「うん。私の頭じゃ、あそこが精一杯だもん」
「でも公立だったら芸能活動しにくいだろ。私立にしたらいいじゃん」
そう言ってから森田は自分で「ああ、でも白木センパイはそんなに忙しくならないか」と付け足した。
寿々菜はムッとしたが、自分でも「そうかもしれない」と思っているので反論できない。
「森田君は?2年になったばっかりだから、まだ考えてない?」
「うん・・・でも、多分、朝日ヶ丘にすると思う」
都内でも5本の指に入る、レベルの高い私立である。
もちろん寿々菜には無縁の高校だ。
「そう。頑張ってね。森田君て成績いいんでしょ?大丈夫だよ、きっと」
「・・・」
森田は何か言いたげな顔をしたが、結局何も言わないまま靴を履いて立ち上がった。