第6話 生物室
「どうして、この窓の鍵、かかってないの?」
迷うことなく校庭をつっきりって生物室へ向かい、
その窓の一つを外から開いた森田に寿々菜は訊ねた。
「ここの窓の鍵、壊れてるんだ」
「へー」
どうしてそんなこと知ってるんだろう、と思ったが、
森田自身が遊んでいる時に壊してしまったに違いない、と勝手に結論づけて、
寿々菜は窓から生物室に入った。
着地に失敗して派手にしりもちをついたのはご愛嬌である。
一方、華麗に着地を決めた森田は、そのまま真っ直ぐ生物室の扉へ向かった。
そこから廊下に出て、部室へ向かうつもりなのだろう。
寿々菜も慌てた立ち上がり、森田の後を追う。
しかしその時、目が黒板の横に立っているある物を捕らえて寿々菜は足を止めた。
骨と内臓だけでできた人体の標本である。
もちろん作り物だが、顔にぽっかりと開いた二つの空間は夜の闇より更に暗く、
ダランとしている両手両足は、今にも動き出しそうだ。
骸骨のくせして、どうして内臓はしっかりあるのよ!
と、震えながらも寿々菜にしては最もな突っ込みを心の中でして、
再び森田の背中を目指す。
が。
「・・・廊下の向こうから、誰か来る」
「え?」
「足音がする!隠れろ!」
森田はボーっとしている寿々菜の腕を引っ張り、机の下に飛び込んだ。
机と言っても普通の教室の机とは違って、4人掛けの大きなもので、
脚も4本の棒ではなく、前後が壁のようになっているコの字型の机だ。
この下に隠れていれば、覗き込まれでもしない限り見つからない。
しかしやはり状況が状況なので緊張してしまう。
寿々菜が、息が荒くなるのをどうしても押さえられずにいると、
森田の手が寿々菜の口を塞いだ。
そのことに驚いて、思わず声を上げそうになる。
生物室の扉がガラッと開き、懐中電灯の光が生物室内を照らした。
その光は天井を這い、寿々菜達が隠れている机の上を通り過ぎていく。
寿々菜は息を殺したが、森田は果敢にも懐中電灯の光をやり過ごした後、
机からそっと顔を出した。
「井ノ口だ」
森田が息だけでしゃべる。
「井ノ口って、生物の井ノ口先生?」
「ああ。見回りに来ただけみたいだ」
井ノ口は50歳手前の穏やかな生物の教師で、寿々菜も気楽に話すことができる。
今はもちろんそんな余裕はないが、見に来たのが井ノ口だと聞いて寿々菜は安心して森田の脇から顔を出してみた。
懐中電灯で天井を照らしているのは、確かに井ノ口だ。
光が再び寿々菜達の上に戻ってきて、2人は机の中に顔を引っ込めた。
それからしばらくして・・・おそらく1、2分だが、寿々菜には10分にも20分にも感じられた・・・井ノ口は生物室から出て行った。
「あー、焦った。白木センパイ、大丈夫か?」
「・・・うん」
芋虫のように椅子の間から這い出て、寿々菜は床にペタンと座り込んだ。
「センパイ?」
「・・・」
まただ。
なんだろう、この違和感。
寿々菜は、井ノ口が出て行った扉の方を見た。
何かに違和感を感じる。
でも、やはりその原因は分からない。
寿々菜がスッキリしない気持ちで考え込んでいると、
突然森田が寿々菜の隣にしゃがんで・・・寿々菜に寄り添うようにしてきた。
「な、何するのよ」
「おい、あれ・・・」
森田が声を震わせながら、黒板の横を指差す。
そこには先ほどと変わらず骸骨が・・・
「動いてる!?」
寿々菜と森田は思わずお互いの両肩を握り締めた。
さっきまでダランと垂れていた骸骨の両手が、万歳の格好のように天井に向かって高く上げられていたのだ!
「い、いつの間に・・・」
森田が恐る恐る骸骨に近寄る。
「森田君!やめようよ!・・・怖いよ」
しかし森田は寿々菜の言葉を聞かず、なんと骸骨にそっと触れた。
そのとたん、ガシャン!と音を立てて骸骨の両手が下がり、
元通りのダランとした状態に戻った。
寿々菜は冗談ではなく飛び上がった。
「さっきまで確かに、この格好だったのに・・・見間違いかな・・・」
「いや、俺も見た。・・・もしかしたらあの七不思議、本当なのかもな。
白い女の子の幽霊も出たって言うし」
「やめてよ!」
寿々菜は本気で怒ったが、
寿々菜の方に振り返った森田の顔は妖しい笑みを湛えていた。
「おもしろそーじゃん」
「何が!?」
「他には、音楽室のピアノとベートーベンと・・・水槽とかがあったな」
「だから!?」
「見に行こうぜ」
全力で拒否する寿々菜に構わず、
森田は寿々菜を引き摺るようにして生物室を出た。
どうして学校の音楽室の壁には必ず、
ベートーベンやシューベルトの肖像画がずらっと貼ってあるのか。
別に普通の学校の音楽のテストで「この人は誰でしょう」という問題は出ないのだし、
もし出したとしても、音楽室でテストをしていたら、壁に答えが貼ってあることになる。
とにかく、音楽室の壁にベートーベンの肖像画なんか必要ない、
と、寿々菜は思う。
だが、貼ってあるものは仕様がない。
寿々菜は「僕は君にそんなに睨まれる覚えはない」とベートーベンから文句が来そうなくらい鋭い目つきで黒板の上のベートーベンの肖像画(正確には本物の肖像画ではなくカラーコピー)を睨み上げた。
「ベートーベンの絵って、どうしてこんなに陰気臭いのかしら」
「そーゆー性格だったんじゃねーの?」
「ああ・・・自分で自分の耳を切り落としたんだっけ」
「それはゴッホだろ」
「そんな音楽家いたっけ?」
「画家だって」
「ふーん・・・きゃああ!!」
急に寿々菜が悲鳴を上げた。
森田がビクッとする。
「へ、変な声出すなよ!」
「だって今・・・見て!」
寿々菜がベートーベンの肖像画の真下に森田を連れて行く。
「別に何にもねーじゃん」
「でも今確かに、ベートーベンが泣いてるみたいに見えて・・・」
その時、外の道路を走る車のヘッドライトが窓から差し込んできた。
それは黒板の上の壁に貼られている肖像画を順に照らしていく。
そしてベートーベンの肖像画に光が当たった。
「うわ!」
「ほら!」
間違いなく、ベートーベンの両目から赤い涙が流れているのが見えた!
寿々菜は全身から血の気が引いていくのを感じた。
それは森田も同じらしい。
それでも森田は寿々菜の肩を抱き、固まっている足を何とか無理矢理動かした。
2人ともベートーベンから目を離さないようにして、ジリジリと音楽室の扉へと後退する。
そして、森田の手が音楽室の扉にかかったその時、
突然音楽室にピアノの音が鳴り響いた。