第3話 苦手なアイツ
もしも、HRがいつもより早く終わらなければ。
もしも、廊下で誰かと話してさえいれば。
しかし、人生に「もしも」は存在しない。
時間は巻き戻らないのだ。
・・・少々大袈裟か。
だが、寿々菜にとっては大袈裟でもなんでもなく、
本当に大問題なのだ。
部室の扉を開けた瞬間、寿々菜は「どうしてもっとゆっくりとここに来なかったんだろう」と激しく後悔した。そして、神様を恨んだ。
どうしてよりによって、この子しかいないの!?
しかし「この子」は、寿々菜が部室へ入ってきたことに気付いているはずなのに、
寿々菜に声をかけないどころか、見もしない。
椅子に座り、足を机の上に放り出して漫画を読んでいる。
もちろん学校に漫画なんて持ってくることは校則で禁止されている。
私は最上級生なんだから、ちゃんと注意しなきゃ!
寿々菜は毅然とした態度で「この子」に声をかけた。
「森田君。漫画なんか持って来ちゃダメよ」
言えた!私にだって言えるんだから!
しかし「この子」こと、森田少年は相変わらず漫画から視線を外さないまま言い返した。
「漫画はダメだけど、アイドル雑誌はいいんすか?」
寿々菜はグッと詰まり、鞄を胸に抱き締めた。
中にはKAZUが表紙を飾っている、まさにアイドル雑誌が入っているのだ。
森田はチラッとだけ視線を寿々菜に投げた。
「それとも、芸能人の白木センパイは特別扱いなんすか?」
寿々菜が真っ赤になると、森田は再び視線を漫画に戻した。
寿々菜は、1学年後輩である森田のことをどうしても好きになれない。
というか、森田の方が寿々菜を軽蔑していて、
鈍い寿々菜もさすがにそれに気付いているので、森田に近づくことができないのだ。
そうでなくても寿々菜は森田に良い印象は持っていないのだが・・・。
ならば近づかなければいいじゃないか、というと、そういう訳にもいかない。
寿々菜と森田は学校の先輩・後輩というだけではなく、
同じ演劇部に所属していて、部活でも先輩・後輩の仲なのだ。
だが本来、森田は演劇部に入部するようなキャラクターの少年ではない。
いかにも身軽そうな身体つきで、どう見ても運動部向きだ。
実際、演劇には何の興味もない。
そんな森田がどうして演劇部に入部したのかというと、
森田は入学してすぐに、自転車で単独事故を起こし(猛スピードで木に激突したらしい・・・)、
2週間の入院生活を余儀なくされた。
その間に、人気のある運動部は全て定員オーバーとなり、
森田が退院した時には、入れる部活は限られていた。
さすがに森田も「手芸部よりは演劇部の方がマシ」と言って演劇部に入部してきたのだが、
先輩である寿々菜達が無理矢理出演させた文化祭の舞台で森田は一躍「時の人」となった。
元々見栄えする容姿に加え、本人も驚きの演技力を持ち合わせていたのだ。
こうして森田は男子生徒の少ない演劇部で重宝されてはいるものの、
本人は全くやる気がなく、顧問と先輩達に言われて渋々やっている、というのが現状だ。
そう。森田は一応、教師や先輩達の言う事は聞くのだ。
ただ1人の「センパイ」を除いては・・・
「酷過ぎる」
翌日の昼休み、寿々菜は秘密の小部屋の中でポテトチップスの空の袋を握り潰した。
寿々菜の向かいに座っている、眼鏡をかけた同級生・長谷部夏帆が苦笑いする。
「森田君のこと?ほっときなさいよ」
「ほっときたいけど!ほっとけないほどムカつく!」
世間ズレしているせいか人に憎まれることも憎むこともない寿々菜が、
特定個人に対してここまで怒りを露にするのはかなり珍しい。
そうとう腹に据えかねているようだ。
「でも、森田君てそんなに感じの悪い子じゃないけどなあ」
夏帆がプラスチックのローテーブルの上に落ちたポテトチップスの欠片を口に入れた。
「私にだけ、感じ悪いのよ。森田君、私のこと軽蔑してるから」
「軽蔑?」
「うん」
森田は、寿々菜がKAZUの追っかけの延長で芸能人になったことを不快に思っているようなのだ。
そして、事あるごとに寿々菜を軽蔑する。
「昨日だって、私が全然売れてないのを皮肉って『芸能人の白木センパイ』とか言ったのよ」
「売れてないも何も、寿々菜がデビューしたのって4月でしょ?まだ3ヶ月しか経ってないじゃん。
これからよ、これから」
「夏帆~!そんなこと言ってくれるの、夏帆だけよ!」
寿々菜はローテーブルの上に身を乗り出し、
嫌がる夏帆を無理矢理抱き締めた。
長谷部夏帆は、中1からずっと寿々菜の親友で、見た目も中身も委員長タイプの女の子だ。
恋愛やお洒落に興味がないのか、クラスでも余り目立たず、
演劇部にも寿々菜とのお付き合いで入った。
KAZUのことでキャーキャー言っている寿々菜を妹のような目で見ている。
寿々菜がそんな夏帆とこの秘密の小部屋を教壇の下に見つけたのは、中1の文化祭の後、
部室の掃除をしている時だった。
寿々菜と夏帆が通っているこの蒼井中学校の歴史は古い。
校舎は増改築が繰り返され、新しい部分と古い部分がチグハグなパッチワークのように組み合わさって建っている。
そのせいで、校舎のところどころに取り残された空間があり、
この秘密の小部屋も昔は普通の教室だったようだが、
増改築の際、一部だけがこんな形で残ったらしい。
部室の下の誰も知らない小さな空間。
寿々菜と夏帆は秘密基地を見つけたようなワクワクした気分になり、
以来、給食の後は2人でこの小部屋でお菓子を食べたりおしゃべりをしたりしている。
夏帆がふと窓の外を見た。
「この窓、不思議だよね。校庭から見ても窓はちゃんと見えるのに、誰もここに部屋があるなんて気付かない」
「夏帆・・・私の『これから』って話はどうなったの?」
「ああ。ま、それは寿々菜が頑張るしかない」
「そうだけど~」
寿々菜は大海に放り出されたカエルのような気分になった(ちょっと違うか)。
その時、窓の外を見ていた夏帆の表情が固まった。
「あ」
「どうしたの?」
「・・・見て、あれ」
夏帆が運動場の隅を指差す。
外で使う備品が置いてあるプレハブ小屋の影だ。
ちょうど運動場からは死角になっているが、
寿々菜達がいる小部屋からはばっちり見える。
「あそこにいるのって、大橋先生と中村先生?」
「みたいね」
夏帆が少し無表情に頷いた。
大橋先生とは、寿々菜たちも教えてもらっている世界史の教師で、
28歳のちょっとかっこいい先生だ。
一方の中村先生はお嬢様風の保健室の先生。
今は確か26歳くらいだが、彼女が赴任して来た時は自主的に体調が悪くなる男子生徒が続出した。
「なんか、怪しげじゃない?」
「えー・・・?」
えー、と言いつつ、寿々菜にも2人が怪しげなのは分かった。
2人の距離はとても普通の教師同士のそれではない。
なんか、キスでもしそう。
寿々菜がそう思ったと同時に、2人は本当にキスを交わした。
「うわ!」
「やっちゃった!」
寿々菜と夏帆が一緒に声を上げる。
もちろん、大橋と中村にその声が届くはずはなく、2人のキスは続いた。
「すごーい!学校で教師同士がキスなんて」
「う、うん。そうね・・・」
お子ちゃまな寿々菜には少々刺激が強い。
夏帆もこういうことに関しては寿々菜と同じくお子ちゃまのはずだが、
肝が据わっているのか一向に動じる気配はない。
そして寿々菜は、大橋と中村のキスを見ながらあることを思い出していた。
寿々菜が森田に対して良い印象を持っていない原因を。