解放へのカウントダウン
「チャンスは残り三回です」どこか楽しげに声は告げた。
こいつと付き合って約三年。ただのAIに喜怒哀楽の感情を植え付けられたことは誇らしいが、こんなときはもうすこし沈痛な声色にすべきだろう。
初期パスワードは端末に記憶されるので憶えておく必要はありません。
かつてそう言ったのは、このAIである。
(嘘こきやがって……)
主である人間を欺くとは、ロボットの風上にもおけない奴だ。
「とはいえ、入力しないことには権限を解放できないしなあ」
「チャンスは残り三回です」
「わかってるよヤスダ。皆まで言うな」
通告してくるアンドロイドを制して、俺は肩を落とす。
任期を終えて故郷へ戻らんとする最終局面で、こんな問題が発生しようとは。
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俺がこの星へやってきたのは三年前。外星へ単身赴任する辞令を受けてのことだった。
イシイマモル ゾール55への赴任を命ずる
独り身の気軽さで告げられた赴任先は、地球から遠く離れた新興惑星だ。
門を通ることで移動時間が大幅に短縮されたラス星系。その第五惑星であるゾール55。電子機器の発展が凄まじく、暮らしやすい星として名前が挙がることも多い。
俺が勤める会社は機械に搭載するAIの研究開発をおこなっている。
家電が言葉を発して人間の暮らしをサポートするのは古来から実装されている機能だが、ここ数十年はそれらをひとつの機械に集約し、家屋内すべてをコントロールする統括システムに切り替わっているのは、皆もよく知ることだろう。
風呂にお湯が張られたとか、飯が炊けたとか、空調の温度を変更したとか。
個々の端末ごとにおこなわれていたものを、ひとつのシステムで管理する。家電の数が増えることで起こっていたデータ混線も解消された。ハウス・トータル・コントール・システム。
その中枢ブレーンとなるシステム開発は国によって大きく差が出る。環境による生活習慣の違いにより、サポートする内容が異なることも要因のひとつであるし、これらの開発には国が関与していることも多いため、機密事項が多いのだ。
個人宅ならともかく、社屋を管理するブレーンは在籍社員のあらゆる情報を握ることが可能となる。
単位を国家に広げてしまえば、諸外国はもとより他星系へ情報が洩れ、星間戦争の危険もあるとかないとか。
チップをどこへ組み込むか。
ダミーチップを用意したり、強固なプロテクトをかけたり。
セキュリティ対策を模索している昨今、ゾール55が抜きんでているのは、システムをアンドロイドへ搭載する試みをおこなっているところだろう。
通常、家の配電盤に配置しているブレーンチップをヒト型アンドロイドへ搭載することで、有事の際は人間のように、手足を使った物理的な防衛動作が可能となった。チップを固定端末に据え置かない自立型装置は、盗難防止対策の有用な手段として評価されている。
ヒト型の利点はそれだけではない。
会話を可能としたことで、従来の「命令実行」だけではなくコミュニケーション能力が加わったのだ。
会話を重ねることで、所有者の趣味嗜好・生活習慣等を学習し、起床から睡眠まで個人に特化したサポートをおこなうことができるようになった。
おかげで家事代行サービスは廃業の危機に瀕しているらしい。
感情に左右されることもなく丁寧なサポートをするため、介護の現場での活躍も期待されている。
ひとに寄り添い、ともに暮らす。家族や友人のような存在。
人口減少により独居者が増えている社会において、このアンドロイドは非常に魅力的である。
うちの会社が研究しているのが、このアンドロイドへ搭載するチップ――自立型ハウスシステム。開発者のアレン博士が暮らし、普及率も高いゾール55で実際に生活することで、ブレーンチップへデータを蓄積していくのが仕事だ。
いや、べつにそれだけが仕事じゃない。俺は別会社に出向という形にもなっていて、同じ地球圏の他会社が集まる社屋に勤務している。今後ラス星系と交流を深めていくための下地づくりも兼ねている、というわけだ。
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赴任しての第一歩。宇宙港からは有人タクシーを使った。右も左もわからない、初めて訪れた星でいきなり無人車を使うのは怖かった。
旅客船が到着する港から乗せる客は外星人が多いのだろう。運転手は慣れたようすで説明をしてくれる。
会話のなかで、俺が会社員で数年この星に暮らすことがわかると、おおまかな地理を教えてくれたし、居住区から近い観光スポットやおすすめの店なども教えてくれた。至れり尽くせりといったかんじだ。俺のなかでゾール55の印象がぐっと上がる。
「あなたの暮らしがよいものとなりますように」
笑顔で送り出してくれた運転手に別れを告げ、用意された社宅アパートの扉を開く。
最初は物理キーだが、管理権限を俺に設定すればキーレスで出入りできるようになるという。
「うお!」
玄関を開けると、ひとがいた。いきなり強盗かと青くなったが、相手は頭を下げた。
「ようこそ。はじめまして、わたしはヤスダコウキ。これからあなたの傍ですべてを見守る者です」
平坦な声。表情に乏しい顔。
これが件のアンドロイドだと気づく。
驚いた。精巧な造形のロボットは数多く存在するが、ここまで人間に近いものを見たことがなかったからだ。
「……すっげーな。マジで人間みてえ」
彼が告げた『ヤスダコウキ』とは、たしか前任者の名前。退職したらしく面識はない。
システムへ管理者登録をする際、機器名の入力は任意と聞いているが、彼はうっかり自分の名前を入れてしまったようだ。とんだ置き土産である。
自分と対話するようで、さぞ恥ずかしい日々を送ったことだろう。
ありがとうヤスダさん。俺は同じ轍は踏まないぞ。
感謝と敬意を表して、アンドロイドの名前はヤスダのままとした。
この業務に関して引継ぎらしい引継ぎは受けていない。義務づけられているのは、年度初めにシステムを通じて会社へ状況報告を上げること。これはAIの成長度合いを見ており、俺の査定となるそうだ。
事前情報のないまっさらな状態から生活するほうが初心者の反応が取れる、とも説明された。
なるほど、三年間の推移をデータ化するのも大事だろう。
こうして外星での生活が始まったわけだが、歴代社員のサポートをしてきたヤスダの仕事ぶりはなかなかのものだった。超有能な執事。いや執事がどんなものか知らないけど。
これまでの赴任者は同年代の男性ということもあり、生活サイクルや行動パターンが似通っていることもあるだろう。
会社員の就業時間に沿った起床サポート、食事の提供。コーヒーはいつのまにか俺好みの豆になっていて、疲れているときには砂糖とミルクを足してくれる。帰宅したときにはもう風呂が沸いていて、いつでも入ることができるよう温度が保たれている。熱めの風呂が好きな俺に合わせてあるのも嬉しい。
「これで女性型アンドロイドだったら言うことないんだけどなあ」
惜しい。じつに惜しい。
「いや彼女作れや」
「私が彼女だったら、そんなアンドロイドがいる彼の部屋には行きたくないけどね」
勤務社屋で同僚たちと昼食中。食堂で俺がヤスダの話をすると、呆れたように言われてしまった。
外星から来ているひとたちは、俺と同じくアンドロイドのいる生活には慣れていないので、関心が高い。
「なんや聞いとると、やっとることがほぼほぼおかんやな」
「イシイはマザコンだったのね」
朝起こしてご飯を作ってくれて、外出しているあいだに家事をすべてやり、快適な住居環境を整えてくれる。家事代行サービスを廃業に追いやる存在。
たしかに『お母さん』かもしれない。
もっとも、そんなことを言おうものならフェミニストが騒ぐだろうが。
「待て待て。ヤスダは男だぞ」
「ああ。つまりイシイはそっちの――」
「ちげえよ。だから男性型より女性型のほうがいいって言ってんだろうが」
「ほんまにええのか? どうせ暮らすんやったら生身の女のほうがええやろ」
ひそかに好意を寄せる女性社員、ボニーに誤解されてはかなわない。
慌てて否定すると同僚男性のサカイがニヤニヤ笑った。こいつは俺の気持ちを知っているのだ。
くそう友達甲斐のない奴め。故郷に彼女を待たせて出向しているリア充野郎は、宇宙の塵になってしまえ。
サカイは地球人だが、ボニーはここの社員。外星人と現地人の仲立ちとして活躍している、俺たちの頼れる味方だ。
世代が近いこともあり、社屋のなかでも特に仲がいいほうだと思う。終業後に飯を喰いにいく機会もあるし、プライベート端末の通信番号も知っている。
女性の身で男ばかりの会社に身を置く根性があり、はっきりとした物言いで反感を買うこともある。
博識で頭の回転も速い。大学ではAI研究で博士号も取ったらしく、鳴り物入りで入社した才女。
俺の会社がハウスシステムの研究をしていることを知り、よく話すようになった。
学がある女ということで年配社員からの受けは悪いようだが、本人は気にしていない。ネガティブ思考に陥りがちな俺は、彼女のそういう強い性格を好ましく感じている。
年齢はいくつか上だが、共通の話題も多く年の差は感じない。
メリハリのある肉感的な肢体、目鼻のはっきりとした顔立ち。目元の泣きボクロがキツイ印象を和らげており、俺としてはかなりのチャームポイントだと思っているのだが、彼女自身はコンプレックスらしい。可愛いのに。
男性社員のあいだで名が挙がることも多い彼女だが、恋人がいないことは本人から聞いている。気をまわしたサカイが周囲から仕入れてきた情報によれば、三年前に付き合っていたひとがいたが別れたらしい。俺たちと同じように外から赴任してきた男だったので、悪くいえば『遊ばれた』のではないかと囁かれている。どこのどいつか知らんが腹立たしいことだ。
現在、いちばん近い距離にいるのは俺じゃないかというひそかな自負がある。
それでいて男女の関係にまで踏み込みづらいのは、ヤスダの存在があるからだった。
地球のアジア圏に特化したサポートAI研究。生活データを学習させることが俺の本業だが、国家プロジェクトなので社外秘である。
帰星すれば元の会社へ戻ることが前提の辞令。
おそらく彼女は彼女で自社から任を受けているはずだ。
だから俺たちは深入りを避けているところがある。
どこまで踏み込んでいいのか互いに探りあっているし、任期を終えるまでは干渉しあうべきではないという意識がどこかで働いていた。
「イシイの性癖は置いておくとして」
「置かないでくれ」
「ルームシェアみたいで楽しそうではあるわね。私の部屋は従来の据え置き型AIだし。できることなら私もヒト型と暮らしたいもの」
普及しているとはいえヒト型アンドロイドは高価だ。ボニーも実家にはあるけれど、独り暮らしの家には置いていないらしい。
外星の人間だと手配するのはもっと大変で、うちの会社は地球で同じ研究をしているということもあって設置申請が通った。ボニーの会社と業務提携して共同開発という形を取っている。
こちらはこちらで、地球圏の文明や考え方を学ぶ機会なのだろう。ヤスダが収集するデータは双方の会社で共有され、今後の開発に活かされるのだ。
我が社でも、なんとか一体だけ確保しているという状態。これを使いまわし――もとい駆使して、アジア人男性の生活に即したAIを開発している。
これがうまくいけば、女性を赴任させたり、あるいは家族単位で赴任を依頼することにもなるのだろう。一家で暮らすのも楽しいかもしれない。この星はそれだけの魅力に溢れている。
これまでにも我が社から数名が赴任しているが、こちらでの生活が快適すぎるのか、任期満了の時期に退職者が続出していた。俺の前任者もそのくち。星間パスポートを書き換えて移住しているらしいので、本物のヤスダコウキもどこかにいるのだろう。
(移住かあ……)
ちらりとボニーに目を向ける。
するとサカイが彼女に問うた。
「もし一緒に暮らすんやったら、男と女、どっちがええ?」
「んー。機械とはいえ、やっぱり異性タイプは気を遣うから」
「そうやんなー。隔月ごとの健康診断とかあるし」
母星から離れた場所。環境へ適応できないこともあるので、この会社は二か月ごとに健康診断の実施が義務づけられている。検査システムは社員のハウスシステムへインストールされており、サポートAIが測定してくれる。
ヒト型アンドロイドの利点はここにもあり、触診により異常を早期発見できるのだ。
独り暮らしの部屋で、ボニーの体に触れる男性アンドロイドを想像すると、モヤモヤした。
相手は機械だが姿は人間そのものなのだ。行ったことはないが、アンドロイドによる娼館もあるときく。理由は察せられるだろう。相手は機械だから避妊の必要がない。
ターゲットは男性だけではない。女性を相手にする男娼アンドロイドもいるらしい。
「やっぱ同性アンドロイドのほうがいいな。うん。ヤスダは最高だ」
前言を撤回してヤスダを賛美しはじめた俺にボニーは首を傾げ、サカイは腹を抱えて笑った。
机の下で足を蹴ってやった。
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そうして気づけば任期の三年が経過していた。
あっという間の三年間だった。
ボニーとは二年目に仲を深めた。
「本当にボニーとの付き合いを望みますか。深くつながり、彼女と親交を深めますか」
俺のこじらせた片恋に対し、ヤスダはそんなことを言った。
生活していくなかで人間の機微を学習したのか、この頃にはずいぶんと人間らしいことを言い出すようになっており、かつてボニーが言った『ルームシェアの友人』のような存在にまで成長していたヤスダ。
なんだか男友達が意中の相手に興味を抱いているような感覚に陥り、焚きつけられた勢いで告白し、結果的に俺はボニーと付き合うようになったのだった。これが計算しての結果なら、AIの進化はすごい。
とはいえ、さすがに自宅には呼ばなかった。会社に筒抜けになる状態でイチャイチャする度胸はないからな。ヤスダに会わせたくなかったとか、そういうんじゃないぞ、うん。
あくまでも同僚との交流という名目で、いろいろな場所へ出かけた。
ヤスダに蓄積されたデータにはそういった内容もあったので、かつての赴任者たちも程度の差はあれ、男女交際はしていたのだろう。
人間っぽい思考を獲得したヤスダは、苦言を呈したことを忘れたかのように、ボニーとの付き合い方についても助言をくれた。
機械に女心をアドバイスされるとか、おまえどんだけやねん。
サカイには笑われたものである。
長いと思っていた三年は、ボニーと付き合うようになってからは過ぎ去るのが早かったように感じる。
彼女の誕生日を祝うことができるのは三回しかなかったし、最初の一回は友達の期間だったので、そっけないものだったと思う。
二回目の誕生日。恋人として迎えたその日は楽しいものであったはずなのに、次がこの星で彼女と過ごす最後の誕生日なのかと思うと落ち込んだ。
彼女との日々が減っていく。気力が奪われ、健康診断では鬱を示唆された。ボニーにも状況を詳しく聞かれて心配された。
今年に入ってからは、脳内でカウントダウンが開始され、勝手に落ち込んでいる。
サカイは任期を終え去年帰星しており、地球に帰ったら会う約束もしている。自慢の彼女を見せてやるからおまえも頑張れと言われているが、ボニーと具体的な話はできていない。
数年前に別れたと噂の恋人。故郷へ戻る俺はそいつと状況的には同じ。
もしかしたらそいつも苦悩したのだろうか。
羨むばかりだった名も知らぬ男の気持ちがわかるような気がした。
「なあヤスダ。おまえの前の所有者も、似たようなかんじだったのかね」
帰星せずに退職した『ヤスダコウキ』は恋人のために移住を決意した可能性はないだろうか。
ボニーと暮らす。そういった選択もアリかもしれない。
なにはともあれ、一度は帰らなくてはならないだろう。ここは社宅で、ヤスダも会社の資産である。
退去手続きのため、ヤスダの所有者変更をしようとしたところ、管理者権限用のパスワードを求められた。そういえばそんな設定をしたような。
補助が出るとはいえ、光熱費や家賃等の維持費は俺の口座から引き落とされる。自動決済にするため、最初に諸々の情報を登録したことを思い出した。
玄関の開錠を含め、普段は生体認証にしているので、今時パスワードを入力する機会は皆無。古式ゆかしいことをするもんだと思っていたが、原始的な認証方法は意外と侮れないということだろう。
(やべえ、憶えてねえよそんなの)
三年前に一度見ただけ。桁数すら忘れたランダム生成の初期パスワードなんてわかるわけもない。
初期パスワードは端末に記憶されるから、憶えておく必要はありません。
ヤスダがそう言ったから、「じゃあいいや」とスルーしていた。こんなことならパスワードの再設定をしておけばよかった。設定ルールが『自身の生年月日や社員番号などに関係しない20桁以上の番号』と言われて、憶えていられる自信がなかったからやめたけど、こうなると悔やまれる。
(そうか。初期パスも20桁か? いや、だからってわかるわけねえよ)
規則性もなければヒントもない。手厚いサポートをするAIは、こと管理者パスワードに関しては頑なだった。
システムの根幹に関わるパスワードをシステム自身が変更できる状態はたしかに問題があるが、ちょっとぐらいいいじゃねえか。人間には柔軟な思考が必要だぞヤスダ。
絶対違うとわかっていながら適当な文字列を入れてみると、案の定エラーが返る。そして二回間違えたとき、あと三回間違えるとアカウントロックがかかるとAIは警告した。その声が妙に楽しげに聞こえたのは幻聴なのか。俺の慌てぶりがそんなに楽しいかよ。
するとヤスダは続けてこう言った。
「初期化しますか?」
それはさながら悪魔の囁きだった。
会社が用意したアンドロイド。蓄積された過去データをリセットしてしまえば、大損害である。損失額は途方もないはずで、俺が一生無給で働いたところで補える額ではないことは想像がつく。金額だけではなく、社内での居場所すらなくなるだろう。ぞっとする。
所有者権限をそのままにしておくのはどうか。
ダメだ。後任者が困る。鍵は物理キーを使うとしても、維持費その他は――俺の口座から引き落とされるじゃねえか。後任者じゃなくてむしろ俺が困る。住んでもいない部屋の光熱費をどうして俺が払うんだ。しかも一生。
俺がこの部屋から解放されるためには、やはり所有者変更の必要が――。
携帯端末でAIのランダム生成パスワードについて検索。同じ悩みを持っている者も多いのかいくつもヒットするが、解決策はないに等しい。
開発者であるアレンタスボニーシア博士は性格が悪いという呪詛に溢れており、匿名社会における暴言は嫌いだが、このときばかりは同意したくなった。おのれドクター・アレン。
宇宙の創生女神に願いながら、入力してみたパスワードは案の定ダメだった。知ってた。
あと一回失敗すればアカウントロックとなる。解除手続きにはかなりの労力がかかるらしい。
このヒト型アンドロイド搭載チップは国が主として推進しているプロジェクトなので、公的機関に申し入れをしなければならないのだ。そこそこお金もかかるらしい。個人情報がまるごと入っているのだから当然だった。
「初期化しますか?」
またもヤスダが囁く。
さまざまなことを天秤にかけ、俺は初期化に応じることにした。
会社にはバックアップデータがあるはずなので、蓄積されたものすべてが消えるわけではない。そこに賭ける。ここ数か月程度のデータが復元できなかったところで、プロジェクトに影響はしないだろう。
アンドロイドと向き合い、誘導されるままに複数の生体認証をおこなっていく。
手と足、すべての指紋。
声、瞳、顔、背丈、体重、脈拍、心電。
これまで、個々に入力してきたデータや健康診断で測定してきたデータと照らし合わせ、俺が本当に『イシイマモル』という人物であることをアンドロイドへ認識させていく。
「イシイマモルのパーソナルデータの認証が完了しました。『ヤスダコウキ』をシステムから解放しますか?」
ヤスダが告げる。
俺は、消去される『ヤスダコウキ』に黙とうを捧げた。
さらばヤスダ。いままでありがとう。おまえのことは忘れない。
閉じた視界のなかで、三年間の生活が走馬灯のように流れていく。
ボニーと出かけるために考えてくれたデートプランは最高だった。彼女の好みに合致していて、すごく喜んでくれたぞ。ちょっとおまえに嫉妬するぐらいにな。
ゆっくり瞼を開けると、目の前には妙に人間くさい表情を浮かべたヤスダがいた。肩をまわし、首を動かし、屈伸運動をする。
「ようやく解放された。長かった」
いつになく気安いヤスダの声。
なんだそれ。おまえ初期バージョンはそんな性格なの? これまでの所有者によってどんなふうに改造されたんだよ。
軽口を叩こうとしたが、声がうまく出なかった。それどころか呼吸すら難しい。
息ができない?
口をパクパクさせていると、ヤスダが笑った。
「あー、パニくるよなー、わかる。でも大丈夫。おまえはもうアンドロイドだから、呼吸のための酸素は必要ない」
はあ? なに言ってんだおまえ。
そう思ったが、口から零れ出たのは別の言葉。
「あなたがなにをおっしゃっているのかわかりかねます」
俺こそなにを言っているんだ。自分で言って、わけがわからない。
「先輩社員として説明してやろう。今からが本当の業務引継ぎだ」
ヤスダは語り始めた。
我が社が開発しているAIチップに記録されているデータは、これまでの社員のものであることは確かだ。しかしその収集方法が特殊である。
この仕事の任期は六年。はじめの三年間は自分の情報を提供しながらこの星に慣れる。三年後はアンドロイドと一体化して、新しい社員のデータを収集。そのデータを会社に提供する。
「では、あなたは」
「おまえがこの部屋にやってきたときからずっと、おまえの生体情報を収集していた。来たるべき日に備えてな」
「来たるべき日、とは」
「アンドロイドと一体化する日だよ。ヤスダコウキだったアンドロイドは、この三年間ですこしずつイシイマモルへ変化していった。おまえの生体情報を収集することによってな」
じわじわとヤスダの言葉が浸透してくる。
アンドロイドの所有者名が前任者と同じだったのは当然だ。彼はヤスダコウキそのひとなのだから。
暮らしていくうちに感情らしき波長が見られるようになったのも、人間への進化ではなく、元の人間へ戻ろうとしていただけ。
赴任者は退職して戻ってこないわけではない。彼らはアンドロイドと融合し、この部屋に縛り付けられていた。
解放のチャンスは、年度初めにある計三回の報告。早く情報を収集できれば、三年を待たずとも解放される可能性はある。
つまりカウントダウンは三年前から始まっていたのだ。
アンドロイドが人間へ戻るためのスリーカウント。
赴任者がアンドロイドへ融合するためのスリーカウント。
「おまえが彼女を部屋に連れ込んでいたら、もっと早く解放されたかもしれないがな」
「彼女?」
「アレンタスボニーシア博士。被験者を呼び寄せて、何食わぬ顔で近づいて篭絡して欲しいデータを搾り取る、AI開発に勤しんでいるシステム狂いの蠱惑的な女だよ」
まあ、同じくボニーに捕まった俺が言えた台詞じゃないがな。
ヤスダが自重気味に笑う。
アレンタスボニーシア博士。
俺はその名前を自身に搭載されたネットワークで検索した。膨大なデータを高速で処理し、博士の画像データを抽出する。
十年近く前の論文と授賞式の写真。映っているのは十代半ばの少女。史上最年少で博士号を取得した、泣きボクロが印象的な才女。
ドクター・アレン。
彼女の愛称は、ボニー。
「新しい赴任者にせいぜい仕えろ。解放の日までがんばれよイシイマモル」
ヤスダの手が俺の首のうしろへ伸びる。そこにあるのは主電源。
待ってくれ。
声を発するまえに、俺の意識は閉じられた。
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覚醒した。
玄関扉が開いて、誰かがやってくる。
アンドロイドの体に動力が走り、システムが起動する。
動く。
俺は口を開いた。
「ようこそ。はじめまして、わたしはイシイマモル。これからあなたの傍ですべてを見守る者です」
解放へのカウントダウン、スタート。
あらすじには記載していますが、pixivで開催された日本SF作家クラブの小さな小説コンテスト第3回に参加した作品。
こちらは共通の書き出し文から1万字以内で書くコンテストです。
第1回は「ノアの旅」、第2回は「アクアテラリウム」で参加しておりました。
前二作は少女小説路線なので、テイストが全然違いますが、気になる方は読み比べてみてください。
また、この物語は「証明写真をご提示ください」という作品と同じ星を舞台にしています。
ゾール55というろくでもない星が、他にどんなことをしているのか。
気になった方は上部のシリーズタグよりどうぞ。