095 写真の面影
菱前老人から車を回してもらうのは断った。すごい勢いで断った。
すでに近所で噂になっているようだが、これ以上ネタを提供する必要もない。
ゆえに駅から歩いて向かう。
すでに何度か訪れている老人の屋敷の前に着いたら、お手伝いさんが扉を開けてくれた。門の後ろに隠れていた?
そしてなぜか顔パスになっている。雌伏すると誓ったのだが、おかしい。
「よう来たな」
「久しぶりという程ではないですが、おかわりないようで」
いつもの和室に通された。きっと、襖の向こうには、秘書が控えているのだろう。
「今日は電話で話した通り、写真を現像したので見てもらおうと思ってな」
和のテーブルにはすでに写真が準備されていて、種類ごとに分けられていた。
「人物と建物……それとこれは、資料ですか?」
「契約書や、向こうでもらった資料のコピーじゃな。必要があるかもしれんと思って、用意しておいた」
「なるほど、拝見します」
とりあえず資料は脇に避けておく。リーガルチェックなどは、専門の部署があるだろうし、俺が見る必要はない。
人物の写真は二つに分けられていて、ビルの前と街中だ。
ビルの前で撮したものは、パーティに出席した人たちだろう。
入口近くにカメラマンを待機させておき、出入りした人物を片っ端から写したらしい。
「随分と枚数が多いですね」
「何が必要か分からんからな、できるだけ多く撮るよう、伝えておいた」
写真を見ると、全員横顔だ。
隠し撮りだからか、被写体はカメラの方を向いていない。
次々と写真をめくっていくと、小山田と名乗った詐欺師のものもあった。
最後まで見たが、俺の記憶に引っかかる人物はいなかった。
「こちらの束は、別の場所ですね」
「うむ。ワシが出かけた先のじゃな」
「リトル東京ですか」
「うむ」
数年前まで日本からの観光客で賑わっていた場所だが、写真を見ると日本人は三割ほどしかいない。
不況が日本に蔓延するにしたがって、徐々に訪れる人が減少していくのだが、その萌芽がもう現れていた。
このあと、観光客相手の商売を諦めた人たちがここを去ってゆき、かわりに中国人や韓国人が空き店舗を利用するようになる。
おそらくリトル東京が、最後の輝きを持っていたのがこの時期だったと思われる。
俺は次々と写真をめくっていった。
「こうして見ると、無理に日本に似せようとはしていないのですね……ん?」
一枚の写真で、俺の手が止まった。
「どうした?」
老人が身を乗り出してきた。
俺が手にした写真。なんのことはない。ただの土産物屋を撮影しているだけだ。
だが、そこに写っている人物に見覚えがあった。
紺色のエプロンをして店を手伝っている若い男性。
奥には同じ色のエプロンをした女性の姿もある。
「少し気になりまして……」
「ふむ?」
老人が写真を覗き込んでいるが、別に変なところがないため、不思議がっている。
俺はこの写真の中の若い男性を知っている。
忘れるはずがない。俺を嵌めた上司だ。
荘和コーポレーションで、米国カリフォルニア支部長を務めていた奥津利明に間違いない。
当時の年齢は62歳だから、いまは22、23歳のはずだ。前職はフェニックス・ファンドで、融資を担当していた。
米国育ちだとは聞いていたが、こんなとこにいたのか。
「すみません、完全に個人的なお願いですが、この写真に写っている人物について調べてもらえませんか?」
よほど必死な顔をしていたのだろう。
「最優先で調べさせよう。社員は現地に残してあるし、調査させるなら、専門を雇えばよい。日本円はまだまだ強力であるし、人海戦術くらい、わけないわ」
老人は快く請け負ってくれた。
ヒシマエ重工を狙った巨額詐欺事件。それに関わっていると思われる地面師のホームグラウンドに俺の仇敵がいた。
これは偶然なのか、それとも……。
菱前老人宅を辞した。
すべての写真を見たが、他に俺の記憶を呼び起こすものはなかった。
現地に残った者たちは、引き続き情報収集を続けるそうなので、このあと有益な情報が入るかもしれないとのことだった。
家に帰ってテレビをつけると、ソビエト連邦内でおこった内部分裂のニュースをやっていた。
ソビエトは『連邦』というだけあって、いくつもの国が合わさって一つの国家として機能している。
中でも一番大きくて有名なのがロシアだ。
ソビエト連邦自体は、アメリカに並ぶ超大国と言われているが、この時代、内部分裂で中はボロボロだったりする。
数年前、バルト三国で探鉱者のストライキがおこった。
「すわ、政治的ストか?」と思ったら、石鹸を求めてのことだった。
どうやら、炭鉱労働者が満足するレベルの石鹸が与えられていないらしい。
日本なら一個百円も出せば買えるものを求めてストをおこすなど、信じられなかった。
共産国でのストライキなど、命がけのはずだ。当時彼らは、石鹸のために命をかけたのだ。
「そうか、ソ連崩壊はもうすぐか」
先月、エリツィンが大統領に就任した。
来月の中旬、政治改革反対派は、ゴルバチョフに対してクーデターをおこす。
ただしクーデターは、三日ほどで失敗する。
エリツィン大統領がクーデター推進派に対して徹底抗戦を呼びかけ、ロシア共和国最高会議ビルに立てこもり、クーデターに対抗する多くの市民が、エリツィンのもとに詰めかけたのだ。
これによってクーデターは失敗し、ゴルバチョフの求心力は低下。エリツィンが台頭してくる。
時を同じくして、バルト三国やウクライナ、キルギスタンなど多くの共和国が独立を宣言する。
「USSRという略称も、今年限りだな」
ソビエト連邦崩壊は、今年の十二月だったはずだ。
久しぶりにビートルズの『Back In The USSR』を聞きたくなった。
欲しいものは何でも手に入るUSAから、ソ連に戻ってきた喜びを歌にしたのだが、あの皮肉のスパイスを利かせた歌詞は、ちょっとした中毒性がある。
もちろん元ネタは、チャック・ベリーの『Back In The USA』だ。
曲を聴きたくなったとはいっても、音楽配信がないこの時代だと、CDショップに行くか、レンタルショップに行くしかない。
「やはり、何をするにも不便だな」
俺はサイフを持って、近所のCDショップまで出かけるのであった。
中学の剣道部は厳しかったですが、高校は地獄でした。
だいたいどこの高校剣道部も、同じかもっと厳しかったと思いますけど。
ウチの場合、部活動の時間は、すべて一年生を鍛えるために使われました。
そうしないと「夏を乗り切れないから」です。
朝練が週三回で、午後練は毎日(土曜は弁当持ち)です。
部活はまず、掛かり稽古から始まります。
掛かり稽古は、0.1秒でも止まることは許されません。常に相手に技を出し続けていきます。しかも、多種多様な技を繰り出さなければいけません。
通常は三十秒、長くて一分ですが、部長のさじ加減でその時間がどんどんと伸びていきます。
稽古のはじまりで、一年生のガスはゼロになるのです。そこから通常の稽古になるため、毎回しんどい思いをします。
なぜ毎日、こんなキツイ思いをしないといけないのかと思っていると、夏休みに『一日稽古』がはじまります。
これは「合宿を乗り切るために必要」という位置づけで、一日でも休むと合宿を乗り切る体力がつかないと言われて、毎日ボロボロになるまで動かされました。
部活中、どんなにキツくても、足を止めることは許されません。
それをすると、延々と同じ事を繰り返させられます。かえってキツイので、死に物狂いでやるわけです。
当然限界があって、プツンと意識が途切れて倒れるわけです。
「一年、出せ!」と言われるのですが、前述のように動きを止めることは許されていません。
「ハイッ!」と言って、稽古を続けながら倒れた仲間を蹴るわけです。蹴るしかないんです。
すり足で近づいては蹴る! 蹴る! 蹴る! で、ようやく入口にゴロンです。
するとマネージャーが倒れている部員の防具を外します。
私が二年のとき、一年の一人が倒れました。
真夏は酸欠にならないよう、武道場の横の扉を開けておくのですが、一年が間違えてそっちへ蹴り出したようです。
段差が50cmくらいあるので、気づいていいと思うのですが、必死だったのでしょう。
しばらくして顧問がやってきて、稽古中の私たちを避けるように端を歩いていると、コンクリの上で痙攣している部員。
「何やってるんだ!」と顧問の一喝。
入口に蹴り出せばマネージャーも気づいたのですが、炎天下の中、ずっと外で痙攣していたわけです。
全員正座で、顧問に無茶苦茶怒られました。
そんな地獄のような稽古ですが、短時間集中ですので帰りはそれほど遅くなりません。
部活が終わったあとは、私はアルバイトです。欲しい物はいっぱいあり、遊ぶお金も必要。
工場で、夜まで働いていました。
アルバイトがない日は、バスに一時間乗って町へ繰り出しました。終バスの時間まで町で遊んで、地元に帰ってからも友達とその場で喋っていたので、家に帰る頃は日付が変わっていた事が多かったです。
いま考えると、よく体力が続いたなと思います。
成績は下降しまして、二年の秋に「これはヤバいかも」と思って、三年になる直前に顧問と大げんかして退部しました。
あと半年待てば引退ですが、その半年が明暗を分けると思ったので。
部活を辞めたあとも、しれっと地元の道場に通っていたら顧問に見つかって、ときどき私をしごきに来るんですよ。ヒドくありません?
二日後に国立後期試験なのに、ぶっ倒れるほどしごくんです。
前泊しなければいけないのに、わざとです。容赦ないんですよ、あのク○顧問。
受かりましたけどね!




