085 ラスベガスへ
菱前老人は、詐欺師に会うため、ウキウキしながら出ていった。
あの小山田一郎と名乗った詐欺師だが、まだ素性がバレたことを知らない。
老人とどんな話をするのか興味あるが、老人は俺をその場に連れて行きたくないらしい。
社員を数人引き連れていくようなので、あとで結果だけ聞こうと思う。
というわけで俺は今日一日、フリーだ。
「ラスベガスに行ってみるか」
ホテルのフロントで確認したところ、最寄りの空港を使えば、ラスベガスまでおよそ一時間らしい。
料金は片道42ドルと格安だ。
『夢』の中で俺は、冤罪で逮捕された。
マスコミが待ち構えている中での逮捕だ。
まったく状況が分からなかったため、当初はものすごく混乱してしまった。
混乱だけではない。あとで思い返せば、記憶もあやふやだった。
当初は満足に答えられず、あれで警察の心証が悪くなったのかもしれない。
俺はなぜ、ラスベガスから飛行機に乗ったのか。
たしかに搭乗チケットは、ラスベガスからだった。
だが記憶力のいい俺が、どれだけ思い出そうとしても、ラスベガスで何をしていたのかどころか、どうやって飛行機に乗ったのかすら覚えていなかったのだ。
――記憶の欠落
サクラメントで工場の受注に成功し、現地で向こうの社員と打ち合わせをした。
着工日を含めた諸々が決まり、俺は一度、報告のため帰国したはずだった。
それなのになぜ俺は、ラスベガスから飛行機に乗ったのか。
手がかりはラスベガスにあると思うが、そう都合良く欠落した記憶が見つかるだろうか。
俺は空港までタクシーで向かい、そこからプロペラ機でラスベガスの町に降り立った。
ラスベガスといえばカジノだ。
「眠らない町」と言われ、いまも多くの富裕層がきらびやかな建物の中でギャンブルに勤しんでいるはずだ。
「……さて、どうするかな」
勢いで来てみたものの、見たことのある風景はない。
ここは砂漠の中にできた町だが、歩いて回るには広すぎる。
移動するにはタクシーが便利だが、その前に目的地を決めなければならない。
「そうだな……南に行ってみるか」
一昔前のドラマや映画、小説でラスベガスが舞台になると必ず、マフィアが登場する。
カジノやホテルをマフィアが仕切っているのだ。
一文無しになった客は、カジノの地下に連れていかれ、弾が一発だけ入った拳銃を渡されて小さな部屋に入れられる。
すると部屋の中から銃声が聞こえて、マフィアのボスが「片付けておけ」と指示したりする。
その時代、カジノを仕切っているのはマフィアであることはみんな知っていたし、きらびやかな町の裏には、そういった暴力が潜んでいることを理解していた。
そんなダークな場所で、富豪たちが遊びたいと思うだろうか。
一般人もそうだ。小金が貯まったからカジノへ行こう……となるだろうか。
善良な一般人がカジノで遊びたいと考えても、マフィアが仕切っているというだけで敬遠するはずだ。
80年代に入って、負のイメージを払拭するため、米国政府はマフィアへの締め付けを厳しくした。
結果、マフィアが所有するホテルなどは売却され、マフィアの影響力は日増しに少なくなっていった。
その後、町の拡張ラッシュがはじまる。
するとまた、マフィアが暗躍し出すが、さまざまな法律を駆使してマフィアを押さえ込んでいったのである。
90年代に入ると、マフィアの影響力はほぼ払拭され、またもや町の拡張が始まったのである。
「この時期はたしか、ラスベガスの南部だったよな」
いまから俺が向かうところは、町の拡張がはじまっているはずだ。
タクシーに乗り込んで十五分ほど。
思った通り、ラスベガスの南部はいままさに拡張の真っ最中だった。
完成した住宅や店舗がある横で、建築途中の家が並んでいたりする。
区分けしたまま放置されている箇所もあり、あと数年もすれば、ここに多くの家が立ち並ぶだろう。
しばらく進むと大きな建物が目に入った。
スーパーマーケットだろうか。
建物に看板を設置している人たちがいる。
「あっ、運転手さん! 止めてください!」
タクシーの運転手は不審な目を向けてきたので、ここで降りると告げた。
運賃を支払い、タクシーを降りると、俺は看板に近寄った。
「……これ、見たことあるぞ」
新品の看板を設置しているのだから、この建物は開店前だ。
だが俺は、ここに入ったことがある。もちろん今ではない。2030年当時だ。
ここでは、食品と雑貨、それにカウンターでコーヒーとドーナッツを売っていた。
「……うっ!」
看板を見上げていると、急にフラッシュバックが来た。
俺はここに立ち寄った。
だが、目的があって店に入ったのではない。
何度もフラッシュバックがやってきて、映像が次々と蘇ってきた。
「そう、俺はここで三人のあとをつけたんだ……気づかれないよう、ゆっくりと……」
一人は男性……おそらく亜門清秋だろう。
残りの二人は女性だ。後ろ姿と横顔を見ただけだが、よく似ていた。
歳は……それほど若くない。40代くらいだろうか。
清秋と一緒にいる二人の女性は、どこかで見たことがある。
「…………あっ!」
思い出した。
清秋と一緒にいるのは、占い師と名乗ったあの双子の少女たちだ。
かすかだが、面影がある。
「あのとき俺は、清秋と双子のあとをつけていたのか」
どうやら、双子とは初対面ではなかったようだ。
そこまで思い出したとき、更なるフラッシュバックがやってきた。
パパパパッと、時系列を完全に無視した記憶の流れ。
断片的な記憶の欠片が、次々と俺の頭に流れ込んでくる。
もともと『俺の記憶』だからか、無秩序な記憶の欠片でも、順番通りに並べ替えることができる。
「そうか……飛行場で見かけたか」
サクラメントで俺は、飛行場にいた清秋を見たのだ。
何十年も会っていなくてもすぐに分かった。
同時に気になった。
清秋は日本で官僚をしているはずだ。それがなぜ、こんなところにいるのか。
俺は黙ってあとをつけた。
清秋は双子と合流し、何やら話をしている。
俺はそれを盗み聞きして、彼らがこれから飛行機でラスベガスへ向かうことを知った。
清秋がサクラメントに来たのは双子と合流するためだったようだ。
(アイツは官僚だ。外国で不正をしているかもしれない)
直感だが、清秋の弱みが握れるかもしれないと考えた俺は、スマートホンで彼らが乗る飛行機をネット予約し、余った時間で変装のため、売店でサングラスを購入した。
そうして俺は、清秋たちと同じ飛行機に乗り込んだのだ。
運良く席は離れていたし、俺はサングラスで顔を隠していた。
清秋に気づかれることはなかった。
タクシーでやつらのあとをつけ、ここに寄ったことまでは思い出した。
「ここであいつは買い物をして……それから……?」
それからどうしたのか。思い出せそうで思い出せない。
「ここからどこかへ向かったはずだが……どっちへ向かったんだ?」
この不自然な記憶の欠落がもどかしい。
俺はどこに向かえばいいか分からず、その場に立ち尽くした。
物語(二章)が佳境に入ってきました。
二章完結まであともう少しです。
この物語はコロナ禍前にプロットを作成してあるため、いまの時代と少し考え方や、社会の雰囲気がずれたりして、結構悩ましいです。
物語は、第三章できっちり終わりますので、その辺は安心してください。
現在夏祭りの準備で大わらわです。次の投稿は早くて日曜日。
もしかすると月曜日以降になるかもしれません。
祭り当日に必要なものをいま全部確認して、修理しながらもとに戻すという作業をしています。
チェックするのは、はっぴ、のぼり旗、祭り提灯とかですね。
ああ、めんどい。
パスポート、いわゆる『日本国旅券』の表紙を開くと、日本語と英語で序文が書かれています。
『 日本国民である本旅券の所持人を通路故障なく旅行させ、
かつ、同人に必要な保護扶助を与えられるよう、関係の諸官に要請する』
なんとも頼もしい言葉です。これなら外国に行っても安心ですね。
このような保護要請文は多くの国のパスポートに記載されていますが、それも当然。
外国では何がおこるか分かりません。日本政府が全力で守ってくれるからこそ、安心して日本を離れられるわけです。
今回お話するのは、日本国が日本国民を捨てたアレです。
昭和の日本人ならばだれでも知っていて、令和のいま、知らない人が多いのではと思う『昭和の常識、令和の非常識』。
かつて日本が捨てた民が再び日本にやってきた物語。
『中国残留日本人孤児』についてお話ししたいと思います。
テレビで毎年やっていましたので、私の年代では常識ですが、知らない人のために少しだけ解説。
昭和20年、終戦は突然おこりました。満州(当時の中国と考えてください)には多くの日本人が移住していました。
日本は連合国に無条件降伏したので、満州の権利は手放しました。
「日本人は自力で日本まで帰ってきてください。港に帰国船は用意しておきます」こんな感じの通達があっただけで、あとは知らんぷりです。
「じゃあ、帰ればいいじゃん」と思うかもしれませんが、取り残された人の多くは技術者と農地開拓者でした。
満州に鉄道を敷く、鉱山を開発する、道路を作る、畑を増やすなどで中国の奥地にいた人たちは寝耳に水。
しかも「日本が負けた」と知った中国人は、日本が整備した工場や建てた家、持ち込んだ車や家具などをすべて奪ってしまいました。
着の身着のまま無一文で放り出された日本人は、何百キロも歩いて港までたどり着かねばなりません。
昭和二十年、地図もない中、「あっちの道路を使うと次の町に行けるらしい」なんて不確かな情報で移動するのですが、先立つものがありません。
「助けて、なう」なんてSNSに投稿できればいいのですが、昭和二十年です。
町や村で十日くらい働いて、数日分の食糧をもらって次の町まで歩く。道中は野宿です。
そこで働いて次の町までの食糧を稼いで移動するわけです。
ですから、港にたどり着くのに一年、二年かかるのです。
親切な中国人もいれば、そうでない中国人もいます。
その中で家族を守りながら、野宿を繰り返して、足を棒のようにして日本を目指したわけです。
飢えと寒さ、貧困の中で、彼らは必死に日本を目指しました。
たとえば、家族の中に3歳、5歳、7歳の子供がいたとします。
荷物を背負って毎日二十キロ、三十キロ歩くわけです。
一年通して健康でいられるかといえば、そんなことはありません。
終戦は八月十五日です。半年も移動すれば冬。冬の寒さは厳しいですよね。
子沢山の時代ですが、体力のない子供からどんどん死んでいきます。
80人くらいの日本人で固まって移動していたものの、夜を明かすたびに減っていくわけです。
「このままじゃ……死なせるだけだ」と泣く泣く、子供を中国人に預けて先を進みます。
歩くことができない子供ですから、幼稚園児前後が多かったのではないでしょうか。
そんな「中国人に預けられた子供」が何万人もいました。
それが『中国残留日本人孤児』の正体です。
毎年テレビで「肉親判明」のニュースがやっていました。
年に一回だったと思いますが、日本政府が中国残留日本人孤児を日本に呼んで、肉親かもしれない人たちと面会させます。
DNA鑑定のない時代ですので、本人や家族の記憶が頼りです。
「○○くんと呼ばれていた」とか「一緒に遊んだ子はこんな感じだった」「預けられたときの服」「預けられたときの状況」などささいな記憶を互いに出し合って、「もしかしたら自分が捨てていった子供かも」「自分を捨てた親かも」と面談を繰り返すのです。
日本語が喋れる人はほとんどいませんので、面談ひとつとっても大変です。
各局のテレビでやっていましたが、真面目な番組だからか『中国・残留・日本人・孤児』と単語を区切って発音していたのを妙に覚えています。
テレビでは、ドラマチックな判明があったりと、当時中高生だった私は真剣にテレビを見ていました。
この帰国事業の『調査』がはじまったのが、1981年のようです。
帰国事業がはじまったのはそのあとでしょう。
小説の舞台である1990年(私が大学生の)頃は、かなり判明者が多かったと思います。
テレビでもかなり盛り上がっていた印象です。
そう、いま小説の舞台となっているちょうどこの頃、中国残留日本人孤児の判明ピークでした。
そこから少しずつ判明者が減っていき、1999年(私が結婚した頃)に終了したようです。
満州に取り残された日本人は軍人を除いておよそ160万人。
途中から中国で内戦がはじまってしまって、帰国もままなりません。
また、新政府が樹立すると、国交がないので、船も出せなくなります。
「戦後の帰国事業をなんでいまさらやってるんだ?」と疑問に思う人もいるでしょう。
国交がなかったのです。
日中国交正常化が行われたのは1972年です。
当時満州に取り残された人たちの帰国事業がはじまったのは、そのあとになるのも必然です。
「えっ、それまで日本に帰れなかったの?」と言われれば「そうです」とだけ。
船による集団引き上げは1958年に終了して、その翌年に未帰還者は全員『死亡』扱いをすると日本政府が定めました。
つまりこれは、死人の帰国事業になるわけですね。
国交が正常化された1972年から帰国事業の調査がはじまる1981年まで、中国に残された多くの日本人が、戸籍上死んだままというのは、なんとも表現のしようがありません。
今回、中国残留日本人孤児について知らない人も増えてきているんだろうと思って書いてみました。
かつて日本国から捨てられた人たちがいたこと。みなさんは知っていましたか? それとも常識だったでしょうか。




