033 菱前宅訪問
五月最後の日曜日。
俺はいま、重厚な門扉の前にいる。
表札が大きくて分厚い。
達筆な文字で『菱前』と書かれている。
そう、ここはヒシマエ重工の社長である菱前宗久老人の住む家だ。
「思った以上にデカいな」
塀がずっと続いている。
二十三区外とはいえ、これだけ広い敷地を持つ者はそうはいないだろう。
『夢』の中で俺は、偉い人と会って商談を交わしたことが何度もある。
旧家や名門と言われる家柄の人もいれば、一代で財を成した人もいた。
俺はそんな彼らと、対等以上に渡り合ってきた。
いまから会う菱前老人は、そんな中でもとびきりの人物である。
荘和コーポレーションという後ろ盾のない俺の身分では、本来絶対に会うことは叶わないタイプの人である。
「まあ、なんとかなるだろう」
菱前老人に手紙を出したが、返事はもらっていない。
だが、会ってくれると俺は信じている。
手紙には、いまだ世間に公表していない銀行買収業務について書いたのだ。
その情報をどこで知り得たのか、どこまで知っているのか、興味深々だろう。
俺はインターフォンを押した。
この時代、まだ映像付きのインターフォンは普及しておらず、門扉の上に監視カメラが見える。
――ギギッ
てっきり応答があると思ったが、いきなり門が開いた。
しかも門の内側で待機していたようで、黒のスーツの成人男性が四人も立っていた。
まるで映画のようなシチュエーションだ。
「大賀様でいらっしゃいますか」
「はい、そうです」
少しだけ緊張してきた。
「お待ちしておりました。主人のもとまでご案内させていただきます」
「ありがとうございます。ちなみに主人というのは、菱前宗久様でよろしいでしょうか」
「さようでございます」
ホッと小さく息を吐き出す。どうやら無事、会うことができるらしい。
「それではこちらへどうぞ」
「よろしくお願いします」
前後左右を挟まれて、俺は屋敷の中へと足を踏み入れた。
ここへ来る前、ヒシマエ重工と菱前宗久氏について、できるかぎり調べた。
『夢』の中の知識は、いまより十年後……ヒシマエ重工が力をなくしてからのものがほとんどだ。
ゆえに知識の補完をしてきたのだが、「驚くことに」と言えばいいのか、「さすが」と言えばいいのか。
ヒシマエ重工は、菱前財閥から切り離された一部門とはいえ、かなりの力を有していた。
日本の重工業を支えた企業の一つなのだ。
デカくて当たり前。優秀な社員がひしめき合っていることだろう。
それが最終的には荘和コーポレーションに吸収合併されるのだから、いかにあの巨額銀行詐欺事件が与えたダメージが大きかったのかが分かる。
「こちらでお待ちです」
「ありがとうございます」
渡り廊下で、部屋の方を向いて正座する。
そっと和室の襖を開けると、室内には小柄な老人が座っていた。
「はじめまして。手紙を出しました大賀愁一と申します」
その場でお辞儀をして、ゆっくりと顔を上げる。
「入ってきなさい」
「……では、失礼して」
老人の正面でまた正座する。
俺と老人の間には何もない。
和テーブルすらないと、なんだか落ち着かない。
一方の老人は自然体。
俺もなるべくそう映るよう、背筋を伸ばして肩の力を抜いた。
「菱前宗久じゃ。差出人と同じ名……まさか本人だったとはな」
菱前老人が驚いている。
どうしても予定が合わないこともあるだろうと思って、手紙には自分の住所と名前を書いておいた。
返事がこなかったのは、偽名を疑ったからのようだ。
「もちろん本人です。事前に連絡があるかと思ったのですが」
「本気にしておらんかった。勝手に名前を使われた可哀想な少年を脅しても、詮ないからのう」
脅すつもりなのか。
「そういうことでしたか。御前の時間をこれ以上無駄にいただくつもりもありませんので、さっそく本題に入らせていただきたいと思います」
「……ふむ」
菱前老人の雰囲気が変わった。
ちなみにこの「御前」という呼び名は、詐欺事件の報道のさいにテレビで使われたものだ。
社長を退任して相談役になったため、菱前社長と区別するために呼び始めたのだと思う。
現在、菱前老人はまだ現役の社長であり、引退していない。
だが、俺の中ではもう、そのイメージで固まってしまっている。
「先日ですね。都内の喫茶店でくつろいでいましたところ、とある密談を小耳に挟みまして、ぜひともその関係者である御前のお耳にと思った次第です。どうやら騙されている最中のようですね」
と、最初から爆弾を投下してみた。
途端に圧力が増す。威圧というより、殺気に近い圧だ。
「――どういうことだ、小僧!」
怒声ではない。押し殺した声だが、さすがに腰を浮かしかけた。
『夢』の中では枯れた老人だったが、ここまで覇気を出せるのか。少しだけ感心した。
「お時間があるようでしたら、すべてお話しいたします」
肝が冷えたのを隠しつつそう告げると、菱前老人は二度、手を叩いた。
「残りの予定はすべてキャンセルせよ」
「……かしこまりました」
襖の裏から応えがあった。
秘書だと思うが、護衛も兼ねているのだろう。
「時間はできた……さあ、すべて話してもらうぞ」
菱前老人は首を傾け、やや上目遣いに俺を睨んだ。
すべて吐くまで絶対に逃がさんぞ、という気迫を感じる。
すんなりと会えたし、こっちにも興味を持ってくれた。
……これ、成功と言っていいんだよな?
この物語には、1990年代当時のものが多く登場します。
私の記憶を頼りに書いているところもあるので、いろいろご了承ください。
この時代、私はバイト先で、高齢の方々からいろんな話を伺いました。
インチキセールスで捕まってから足を洗ったおじさん、重いドラム缶を傾けながら転がして、失敗して前歯すべて失ったおじいさんなど、昭和っぽい人といっぱい知り合えました。
集団就職で東京に来たおばさんは、工場の制服が支給される前に入社式をすることになったので、中学のセーラー服で出席したそうです。
セーラー服で入社式などいまでは考えられませんが、一番いい服が学生服という人は結構いたそうです。
「東北はみんな貧乏だったからねえ」とよく言っていたのを思い出します。
この物語に登場する大人たちも、そんな昭和な時代を生き抜いてきたのだと思ってもらえれば、物語理解の一助になるかもしれません。
それでは引き続き、よろしくお願いします。




