001 2030年から1990年へ
2030年8月23日。
立川拘置所を出た俺は、強い日差しに目を細めた。
周囲を見渡したが、報道陣の姿はない。
それどころか、通りにはだれ一人いなかった。
「どうやら、もう俺のことは興味ないらしい」
ホッとした瞬間、うだるような暑さが襲ってきた。
燦々と輝く太陽が容赦なく俺の身体に降り注いでいる。
もはや、「暑い」ではなく「熱い」と言っていいレベルだ。
「地球温暖化もここに極まれりだな」
毎年、夏の気温が上昇している気がする。
「喉が渇いた……どこかで飲み物でも」
左右を見渡したが、自動販売機のたぐいは、どこにも見当たらなかった。
「これも『DSファイブ』の弊害か」
この場でしゃがみ込みたくなる自分を叱咤激励し、俺は歩き出した。
数年前、温暖化対策の一環として、東京都が『電気削減五箇条』という条例を打ち出した。
無駄な電気代を削減することで発電所に余裕を持たせ、地球温暖化を防ごうという試みだ。
家庭やオフィス、公共施設、工場など、ありとあらゆるものがDSファイブの対象となった。
そのせいで町中の自動販売機の数が、ピーク時の三分の一にまで減ってしまった。
防犯灯やオフィスの明かりはすべてLEDに付け替えられた。
工場、事業所、店舗などもそう。条令通りの節電対策を採らない業者には罰則が待っていた。
いくら節電を唱えても効果がないため、東京都は物理的に節電させる方向に切り替えたのだ。
「だから必要なときに、お茶ひとつ飲めないんだよ」
自販機を探すか、木陰で休むか。
フラフラと歩道を歩いているうちに、フッと暑さを感じなくなった。
あれほど煩かった蝉の声が聞こえない。
「どうし……うっ!?」
胸が……いや、心臓が痛い。苦しい。
左手で胸を押さえたが、痛みは治まるどころか、さらに激しさを増した。
「だ、だれか……」
かすれた声が出た。だが、それだけだ。
周囲を見渡したが、この暑さで、通りを歩く人は皆無。
心臓がぎゅっと縮む感触がする。胸を掻きむしりたくなる。
本能的に、これはヤバいと感じた。
「助けを求めろ!」と、頭の中の俺が警鐘を鳴らしている。
「だ……」
今度は声にすらならなかった。
アスファルトが迫ってきた。いや、俺が倒れているのだ。
このままじゃ頭を打ってしまう。
手を出そうにも、身体が思うように動かない。
「ああ……」
衝撃がきた。
目の前が真っ暗になる。
痛みは……感じなかった。
「ねえ、大賀くん。ぼーっとして、どうしたの」
「……ん?」
「眠いの? それとも、勉強のしすぎ? たまには身体を動かさないと、運動不足でコロッといっちゃうかもよ」
「はっ?」
「……ちょっと、睨まないでよ。いま逢坂さんが入ったから、次は大賀くんの番だからね」
「えっ? 次って? なにを?」
「進路面談よ、ほんとうに大丈夫? ……まっ、大賀くんならどの高校でも受かるんでしょうけど、面談は受けなきゃだめだからね」
「おまえ、江藤……なのか?」
「なあに?」
「江藤……たしか、理恵だったよな」
「なによいまさら……大賀くん、本当に変よ? 気分悪かったら、先生に言った方がいいわよ」
江藤はしばらく首を傾げていたが、そのうち「じゃね」と呟いて去っていった。
ここは学校の廊下で、俺は紺色の学生服を着ている。
廊下の窓から見える景色に、見覚えがあった。
俺が通っていた公立中学校のものだ。
江藤も中学二年と三年のときに同じクラスになっている。
記憶力には自信がある。間違いない。
「なぜ俺が、中学校の廊下にいるんだ? それに進路面談? というか俺の姿って、いま中学生?」
肌を焼くような照りつける太陽もいまはない。
後ろに撫でつけた髪は見当たらず、後頭部は刈りあげてあった。
校内履きにはマジックで「大賀」と書かれている。
「中学生で進路面談と言ったら、中学三年生の秋?」
俺は立川拘置所を出て、フラフラと歩道を歩いていたはずだ。
自動販売機を探している途中で胸の痛みに気付いて、そして……。
「なんだこれは!? どうなってるんだよ! ついさっきまで、五十五年間生きてきた記憶があるんだぞ。全部思い出せるんだ!」
叫んでみたが、事態は変わらない。
もしいまが中学三年生だとしたら……あの暑い夏の日から、四十年前に戻ってしまったことになる。
「はっ? はぁ!? 裁判は? 冤罪事件は? 夢じゃないのか? ……だって俺は」
上司と会社に嵌められて、身に覚えのない罪で捕まった。
あれだけ会社に貢献したのに、奴らは俺に罪をなすりつけやがった。
起訴され、判決を待つ身だったが、唐突に冤罪が晴れた。いや、晴らしてくれた者たちがいた。
かつて俺が打ち負かし、踏み台にしたライバル会社に、俺は助けられた。
そう、俺はこれからの人生をかなり細部まで思い出せる。
四十年後のあの日……拘置所を出たときまでの記憶がしっかりと残っている。
「俺は死んだのか? それとも夢を見てる?」
考えられる可能性は三つだ。
1.俺はまだ中学生で、大人になったのは、ただの妄想
2.四十年後のあの日、俺は死んだ。そして記憶を持ってこの時代に戻ってきた
3.俺は倒れたが、死んでいない。いまも睡眠状態にある。そしてこれは夢
右手で左手の甲を引っ掻いた。痛い。
ミミズ腫れになるまで何度も引っ掻いた。やはり痛い。
唇を強く噛み、両手で頬をパーンとはたく。どれも痛い。現実の痛みだ。
まずこれは現実だと思う。だが……。
「いまが現実でも、1の可能性はないと思う」
妄想にしてはリアル過ぎた。高校大学、そして就職してからのすべてを思い出すことができる。そんな夢があるものか。
「かといって、3は嫌だぞ」
本来の俺は植物状態になり、呼吸器をつけられたままベッドに寝かされているのだろうか。ゾッとする。
「だとすると……」
教室の扉が開かれ、女子生徒が出てきた。
「ありがとうございました」
女子生徒は教室の方を向いて、深々と礼をした。
「あっ、大賀くん。待たせちゃったね。次どうぞ」
「あ、ああ……」
「どうしたの? 先生、待ってるよ」
彼女は、逢坂珠代。出席番号は俺の一つ前になる。
「そうだな……行ってくる」
この日のことも覚えている。
俺は担任と面談し、T大予備校とまで言われているK高校を受験すると宣言したのだ。
「失礼します」
俺は面談を受けるため、教室に入っていった。
一炊の夢:人生の栄華のはかないことのたとえ。邯鄲の夢。邯鄲の枕。(学研全訳古語辞典)
これは『枕中記』の中に登場する中国の故事で、邯鄲という人物が官僚になるために故郷を出ます。
途中の宿屋で黄粱(きび)が炊けるまでの僅かな時間に夢を見ます。
都にのぼり、立身出世を果たし、宰相になったものの、冤罪をかけられます。
やがて冤罪が晴れて復職し、だれもがうらやむ人生を歩んでからその生涯を閉じます。
ですがそれはすべて夢。
邯鄲は「立身出世は夢で果たした。もういい」と畑を耕すために故郷に帰っていく話です。