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Philistia  作者: 桜田文也
第二章
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2-13 泥の底

熱い。右手が、焼けるように熱い。


「はぁ……はぁ……、この、俺が……」


視界の端で、銀狼(シルバーウルフ)の毛並みが木漏れ日を反射してぎらりと光った。

何頭やった?三頭か、四頭か。

かつての俺であれば、こんな獣ども、一瞬で肉塊に変えていた。

だが今の俺の左手にあるのは、刃こぼれした安物の剣一本だ。振るえるだけで自慢だった大斧は、今や構えることさえできない。


地面を蹴る音が響いた。

背後の一頭が、俺の喉元を狙って跳ねる。

「……ふざけるなッ!」

『ギャンッ!』

俺の突きが、獣の顎下を貫いた。ざまあみろ。

どうやらこいつで最後、残りは逃げたようだ。

目が霞む。


突然眼の前に小さな影が飛び出した。

角兎(アル=ミラージ)

何かを追っていたのだろうか。だが手負いのもっと狩りやすい獲物を見つけたようだ。

反転してこちらへ突撃してくる。

ちくしょう、こっちは満身創痍だ。

こんなところでコイツにやられるなど、あの野郎を笑えない。

「クソが!!」

左手に持った剣を投げつけた。


直後、視界が急速に暗転していく。ここまでか。

最後に感じたのは、小さな影が忍び寄る気配だった。



目が覚めたとき、最初に感じたのは鼻を突くような悪臭だった。

家畜の糞と、垢、そして煤の匂い。

重い瞼を押し上げる。

視界に入ってきたのは、今にも崩れそうなほど歪んだ梁と、真っ黒に煤けた藁。横たわっているのはベッドですらなく、薄汚い布を敷いただけの硬い床だ。


「……っ、ここは……」

言いかけて、喉の渇きに言葉が詰まる。

ゲホゲホと咳き込む俺の前に、小さな影が音もなく現れた。

十歳かそこらの、小柄なガキだ。

ボロボロの服を着て、顔は土埃で汚れている。

やせ細った体、赤切れた指、爪の間に入り込んだ泥。

ガキは手に持っていた木椀を、俺の口元へ差し出してくる。



俺は咄嗟に身を起こそうとして、右手の激痛に顔を顰めた。

見れば、不格好な布が巻き付けられている。

自分の体を見回すと、シルバーウルフとの戦いで負った傷にも同じように布が巻き付けてある。

手当のつもりだろうが、あまりの不潔さに吐き気がした。


「……気安く触るな。俺が、誰だと……」

言葉を遮るように、少女は無言で椀を差し出してきた。

椀の中には、白濁としたお湯のようなもの。そこに数えるほどしか見当たらない、大麦の粒が浮いていた。

これは、ただの『水』だ。


「……なんだ、これは。家畜の餌か?」

吐き捨てるように言う。

だがガキは、俺の言葉を理解していないのか、あるいは聞こえていないのか。

ただ静かに、困ったような顔をして、何度も椀を差し出してきた。

その水のような汁を啜る。

喉を通り過ぎるそれは、味の一切しない、まさにエサだった。


「ああ、あんた、気がついたのか」

奥の部屋から男と女が出てきた。

ボロボロの服、やせ細り日焼けした肌はところどころ擦り傷や切り傷のようなものがある。顔は土埃で汚れ、手先はやはり汚い。

コイツの両親か。

一目で分かった。こいつらは『農奴』だ。

「あんた、娘を助けてくれたそうだな。ありがとう」

何のことだ?身に覚えのないことで感謝されるのも気味が悪い。

娘というのはこのガキのことだろう。

その娘とやらは、相変わらず家畜の餌を差し出してくる。


「もう気づいているかもしれないが、この子は耳が聞こえないんだ」



それから、俺の人生で二番目の屈辱の日々が始まった。



あれから何日経っただろう。

シルバーウルフどもにつけられた傷も徐々に癒え、なんとか自分で立ち上がって歩けるほどには回復した。

ただ、飯はあの家畜の餌だけではなかった。

気を失う前に投げた剣。それがアル=ミラージに命中し、追われていたガキを助けたことになったらしい。

その時の戦利品(・・・)が俺の傷を癒やす糧となった。

アル=ミラージの味は、まあ、悪くない。塩さえあれば。

だが、王都の三流亭でも、これよりはマシなものを出すだろう。


「おい」

俺は疑問に思っていたことを聞いてみた。

「この国で普通に暮らしていれば、食うことには困らないはずだ。お前らは、なんでこんな惨めな生活をしてる?」

両親は顔を見合わせ、軽くうなずいてから俺の方を見た。

「この子を医者に診せるために借金をしました」

「……耳か?」

母親がコクリとうなずく。

無駄なことを。生まれながらに耳が聞こえないのであれば、この先聞こえるようなことになることもないだろう。

「返済の条件は、住み込みで土地の開拓をすること。配給もあり、家族皆で暮らせると……」

ため息が出るほど大馬鹿だな。汚い詐欺師が合法に奴隷を確保する、よくある手口だ。

「……もし私たちに何かあったら、この子をお願いします。この子は貴方に懐いている」

「はあ?」

いきなり何言いやがる。

耳の聞こえないガキなんかが何の役に立つっていうんだ。

「面倒事を押し付けるんじゃねえ」



『ドンッ!』

扉が突然蹴り開けられた。俺は咄嗟に立てかけてあった剣を握った。

「おいおい、自分の仕事もできねえのに、なにを贅沢に肉なんか食ってるんだ?!」

三人の男があばら家に入り、周りを見渡した。一人と目が合う。

「や、やめて……!」

母親が震えながら怯えた目で男たちを見ている。それを父親が庇い、娘はただ縮こまっている。

なるほど、これがこいつらの日常か。


「これは俺が仕留めた獲物だ。どこで食おうが俺の勝手だろうが」


気に入らない。

ひ弱な農奴相手に偉ぶる小悪党が。

気に入らない。

反抗する力も意思すらも無くした奴らが。

気に入らない。

こんなくだらない場所にいる今の自分が。


「ボリスさまの敷地で捕れたものは全部ボリスさまのものだ。勝手に取って食って良いわけねえだろ!」

「そこの森に転がっているシルバーウルフ五匹で満足しとけ。たかがアル=ミラージまで欲しがるような強欲は痛い目を見ないと治らないか?」

剣の柄に振れる。右手が疼くが顔に出すな!

「シルバーウルフ?お前がやったのか?!」

「そうだと言ったらどうする?お前らも同じ目に遭うか?」

「まて、まて。実はあんたを探していたんだ!」

俺を探していた?どういうことだ?

「ボリスさまがあんたに礼をしたいそうだ。最近シルバーウルフどもに困らされててな」

つまり俺は知らずのうちにボリスとやらの問題を解決していたわけだ。

「付いてきてくれ」


裾を掴むガキの手を振り払い、小屋を出た。

三人の男と馬車に乗り、ボリスの屋敷に着くまで、俺は後ろを振り返らなかった。

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