2-11 救国の剣
「なんだ、これは……?!」
アベルが驚愕の声を上げる。
エカテリーナが取り出した暗黒の塊を床に転がすと、その周辺の空間がぐにゃりと歪んだ。
蝋燭の火が出すゆらぎや、熱帯に見られる陽炎のようなものではない、もっとはっきりとした歪み。
”そこ”から、何かが這い出てきた。
それは、有機物とも無機物とも、虫とも動物とも見える、そもそも生き物かもわからない見た目のモノだった。
暗黒の塊を取り込んだソレは、言い知れない嫌悪感や恐怖と言ったものに包まれている。テラテラとした表皮は柔らかそうであり、鋼よりも硬そうに見え、その表面には赤い筋のような模様が入っている。
同時に襲ってきた吐き気を催すような嫌悪感と恐怖心。
これはまずい、セティは直感的に感じた。おそらくこの場の殆どの人間がそう感じたはずだ。
直後、ソレは音のない叫び声を上げた。
ルキウスとアベルは剣を取り落として膝をついてしまっている。セティもなんとか立っては居るが、身体の自由が効かない。首を動かすこともできず、視界外の状況は掴めない。
ただ、その中でもエカテリーナは平然とこちら側へ歩いてきている。相変わらず顔には微笑みを湛えて。
「まずは……」
そう言いながら、エカテリーナがルキウスを指した。
空間から這い出てきた”ヤツ”が、その体の一部を槍状に変化させてゆく。
まずい。ルキウスを殺し、この場の王以外を全員殺せば、もう一度王を洗脳してエカテリーナに力を継承することができるだろう。少なくとも自分ならそう考える。
だが、身体が動かない。
”ヤツ”が音もなくルキウスに近づいてゆく。そして、槍状のモノがルキウスを狙って放たれた。
「ぐぅッ!」
寸前に割って入った影。
「父上!!!」
フェルディナンド王がルキウスを庇って貫かれた。
そしてその瞬間、セティは身体に自由が戻ったのを感じた。
「ち、父上……!」
倒れ込む王を抱きかかえるルキウス。
血の匂いと共に、手に伝わる体温が急速に失われていく。
「父上!!」
喉が裂けるほどの叫びも、瀕死の王には届かない。
怒りと絶望が渦を巻き、膝が崩れ落ちそうになる。
「あら、残念です。身体の自由が利いたのですね。」
「何が楽しい!」
ヒュンッ!
アベルの剣がエカテリーナを狙った。
「……何もない!?」
まるで空気を斬ったかのような違和感に、アベルは思わず後ずさった。先ほどと同じく、確実に狙って、そして捉えたつもりが空振った。
直後、何もないはずの空間から鋭い一撃が飛んできた。水刃を寸でのところでかわす。
「あら、いまのを避けますか。」
エカテリーナの楽しむような、見下したような声。
「ヴァレリ、加勢しろ!」
珍しく叫喚するセティに、それまで静観していたアドルフ伯が短剣を抜いた。
「仰せのままに。」
そのままエカテリーナの前に立ちはだかるアドルフ伯。無造作に見えて隙がない所作だ。
「アベル殿、交代です。」
アドルフ伯がアベルの前に歩み出る。アベルはすぐさま、別の敵を見据えた。
「アドルフ伯、ご自分が何をなさっているのか理解しているの?」
エカテリーナが軽蔑したような目をアドルフ伯へ向けた。だが、当のアドルフ伯は意に介していない。
「私の役目は、この国を守ること。」
静かに言葉を発し、構えるアドルフ伯。やはり一分の隙もない。
「ヴァレリ、そちらは一人で大丈夫ですね?」
「はい、勿論です。」
セティとアドルフ伯の会話に少しの違和感を覚えたアベルだが、すぐに眼の前に敵の攻撃が迫り、紙一重でそれを回避した。
「考える時間ぐらいは欲しいね……!」
まずはこの危機を乗り越えなければならない。
ザァッ という音と感触。
「なんだ、コイツ。手応えが無い!」
敵を捉えたアベルの剣は不思議な感触を残しながら空を切った。いや、間違いなく敵も斬ったはずだ。
少なくとも先程のエカテリーナのときよりはマシな、水を切ったような変な抵抗感。だがこれは効いているのだろうか?
「魔法も効果は薄そうです。」
セティも手札である炎、風、水、地の四種精霊魔法を試してみたが、手応えはいまいちだ。
「お前たちごときに私と”カオス”の相手がつとまるものですか。」
相変わらずエカテリーナは微笑みを崩さない。それは不気味な優雅さを更に引き立てている。
カオスと呼ばれたソレは、轟く不定形の体の表面から数本の触手のようなものを形作り、鞭のように打ち付け畳み掛けてくる。
動きが単調なため避けるのは易いが、一撃でも喰らえば怪我では済まない威力を持っているため、油断はできない。
カオスの攻撃を一手に引き受けるアベルを背に、セティは王と、彼を抱きかかえるルキウスに駆け寄った。だが……
「ルキウス殿、まずはアレを片付けないと!」
「ですが、セティ殿……!」
もう、王は手遅れだ。おそらくルキウス自身もわかっているはずだ。
「王の想いを無駄にする気ですか?!」
「!!」
「王が貴方を庇ったのは、そうやって悲しませるためではないはずです!」
その一言が、ルキウスの胸に火を点した。
その目が戦う覚悟を宿したものへと変わるのを見届け、セティは戦闘に復帰した。
「フオォォォォ!」
「効いた?!」
ルキウスの剣先が敵を貫いた瞬間、空気が裂けるような悲鳴が響いた。
それまで無感情に蠢いていた塊が、痙攣し、赤い筋を走らせながらのたうつ。ヤツが苦しんでいるようだ。
「なんですって?!」
今まで微笑を絶やさなかったエカテリーナの顔に、明らかに驚愕と焦りが生じた。その瞬間
ヒュンッ!
アドルフ伯の短剣がエカテリーナの鼻先をかすめた。
「アドルフ伯、その短剣……!」
エカテリーナの顔から余裕が消えている。
すぐにルキウスが抜いた剣に視線をやり、そして小さく、だがはっきりと呟いた。
「まさか、この場に二つもあるとは……!」
その言葉を聞き逃さなかったセティ。
「ヴァレリ、こちらへ!アベルは王妃を!」
「承知。」
「何か考えがあるんだね?」
セティの指示により、素早く場所を入れ替わるアベルとアドルフ伯。アベルはエカテリーナを、残りの三人でカオスを相手取る位置関係となった。
「フオォォォォ!」
「ギイヤァァァァァ!」
カオスが声にならない声を上げて苦しんでいる。
ルキウスとアドルフ伯の連携は、確実にソレを追い詰めている。
「くっ、このままでは……!」
今まで微笑みを崩さなかったエカテリーナの表情に、明らかな焦りが生まれている。
それでも触手をめちゃくちゃに振り回すカオスの攻撃は、相変わらずの脅威だ。
プシュッ!
エカテリーナが放った水弾は、セティが生成した土壁に阻まれた。水弾の狙った先はルキウス。
「器用だこと。」
セティはカオスとエカテリーナ、両方の戦闘を同時に支援している。水弾の直前、セティの土壁はカオスのルキウスへの攻撃を一つ阻止していた。
エカテリーナの言葉にはまだ余裕があるが、すでに表情や所作にはそれがない。今の彼女は明らかに虚勢を張っている。
ビュッ!
アベルの剣がエカテリーナの首を捉え、そして空を切った。
「あら、危ない。貴方、女性にも剣を向けるのね。私でなければ首が飛んでいたわ。」
「僕も美人に剣は向けたくないけどね。だけど、相手がバケモノなら話は変わる!」
ブン!
変わらず空を切るアベルの剣。
ビシャ!
「うおっと!」
またもや何もない空間から突如として現れた水刃を躱したアベル。
「……そこだね。」
アベルがエカテリーナに背を向けた。
「クオオオォォォォォォォォ……」
どうっ、とカオスが床に斃れた。
それを背に、アベルが壁に向かって歩き出す。
「まさか、カオスが……!」
エカテリーナは驚愕の表情を浮かべているが、すぐさまアベルの行動に気づいた。
「まさか……!」
ビッ!
アベルが眼の前を剣で払うと、多少の手応え。そしてなにもないはずの空間から血が流れ落ちた。
「高度な幻影だね。下手な攻撃さえしなければバレなかっただろうに。」
アベルがその流れた血に向かって剣を構える。
「……見抜かれましたか。」
アベルが構えた先に、薄着の女性が姿を現した。
「圧倒的に戦闘経験が足りないね。魔法は凄そうだけど。」
喉元に剣先を突きつけ、アベルがちらりとセティを見る。
「こんな高度な幻影魔法は見たことありません。光魔法ですか?」
さすがのセティも感心しているようだ。
「それに、まさか貴方の正体がエルフだったとは。」
エルフ。ヒトに近い姿かたちをしているが、その根本は精霊に近く、主に深い森の中に住む種族。
身体能力、魔力ともにヒトよりも高く、また寿命はヒトの五倍程という。
長身、痩身とはいえ遠目にはヒトと区別がつきにくいが、もっとも大きな身体的特徴は、ヒトと比べて大きく、そして尖った耳である。
頬の切り傷から血を流しているエカテリーナは……紛うことなきエルフの特徴を備えていた。
「黙れぇ!」
突如叫んだエカテリーナ。突然の変貌にその場の全員が驚愕した。
微笑を消したエカテリーナの顔に、狂気が宿る。
「妾を、あの森に巣くう下賤の者どもと同じに語るな!」
突然の激昂。何が彼女の逆鱗に触れたのだろう。
「我は、偉大なるファー……」
ドスッ!
右手を振り上げ、何かを言いかけたエカテリーナは、叫び始めた口と手はそのままに、目を見開いて驚愕している。
ゆっくりと視線だけを落とす。そして自身に突き刺さった細剣を見下ろした。
何の理由か激昂し、我を忘れたエカテリーナの隙を、この男は見逃さなかったのだ。
「よくも、父上を……!」
凍るような冷たい声を発したルキウスの剣がエカテリーナの胸を貫いている。
「……あり得ぬ……妾が……」
先程ルキウスが立っていた位置からは一五メルは離れていそうだが、彼の脚力であれば造作もないことだろう。
「はは、あそこから、一瞬で?」
アベルが乾いた笑いと共に友を称えた。
どさりと床に倒れるエカテリーナ。
一瞬だけビクンと大きく動き、その後微動だにすることはなかった。




