2-7 正体
あの方の言葉は完璧だった。あの方に従っていれば、俺様の地位は盤石だった……!
俺様は失敗した。あの方を失望させたかもしれない。
男はひどく打ちひしがれていた。酒に酔い、周囲に当たり散らしながら通りを歩く。右手には包帯。
いつもの取り巻きも、今はいない。
だが、待ってくれ。一度失敗した程度で見捨てられるのか?俺様はただの捨て石だったのか?
既に周囲は暗く、周りの人々は大柄な男が酒に酔って暴れているのを遠巻きに見ているだけだ。その目には軽蔑と哀れみの色が出ている。
「その目で俺を見るな!!」
剣を抜き、左手で滅茶苦茶に振り回す。
ひいっ、と小さな悲鳴を上げて散り散りになる人々を呆然と眺めながら、小さく呟く。
「俺様は、俺は……どこで間違ったんだ?」
ああ、この期に及んでも何の助けも無いということは、そういうことなのだろう。
「なあ、誰か、助けてくれよ……」
「皆さんにお話があります。」
宿屋、食堂、いつものテーブル。
少しだけいつもと違ったのは、その場に全員が集合していることだ。
ファルコが「改めて話がある」と四人を集めたのだ。外は既に暗く、相変わらず宿屋に他の客はいない。
ファルコはセティ、アベル、テレス、アリスの順に顔を見る。もう一度セティの顔を見て、小さく頷いた。
何を話そうか迷っているのだろうか。或いは何から話そうか、と。
「まず、グリゴリーについてですが、彼はこのまま失脚するでしょう。少々哀れですが……。」
むしろ彼の所業を考えると、その程度で済むのならば軽いものだ、とセティは考える。
「君はアレが正式な決闘だと言ったね?」
「はい、用意しました。」
アベルの問いに、ファルコは一枚の書面を取り出す。
「よくこんなの用意できたね……!」
アベルが驚くのも無理はない。まさしく正式な決闘許可証だった。
「どこでこんなものを……?」
テレスが疑問に思うのも無理はない。これは貴族がその責任において発行するものだ。
「ヴァレリ・アドロフ伯爵です。彼に発行してもらいました。」
「……え?」
ファルコの答えに、テレスは言葉を失った。
「決闘の二日前に、彼にこの証書を作ってもらうこと、それと一つ調べ物を頼むために直接会いました。」
ファルコが立ち上がり、歩きながら話を進める。
「調べ物の方はすぐに終わりました。むしろ証書を作るのが多少面倒で、時間ギリギリになってしまいました。」
なにせ、内容が内容だったので、と、少し悪戯っぽく笑うファルコ。だが、やはり疑問は尽きない。
「ま、待ってくれ。何故君がそんな人物と会えるんだ?」
そう、テレスのその問いこそが一番重要なのだ。ファルコはさも当然のように話しているが。
「ああ、そうだ。その点で皆さんに一つ謝らなければなりません。」
「私の本当の名前は、ルキウス・アウレリウス・ファルクレスト・アルトリウス。不肖ながらこのアルトリア王国の王太子をさせていただいています。」
「王……太子……?!」
唖然とするテレス、思わず開いた口に両手を当てて目を見開くアリス。
「もっとも、お二人は既にご存知だったようですが。」
テレスがセティとアベルを交互に見るが、アベルは肩をすくめた。
「僕はセティに聞いていた。セティは最初から分かってたみたいだけどね。」
「東方では王家の男児に鳥、女児に花に因んだ名を付けると聞いたことがあります。加えてその名に由来する品を贈るのだとか。その剣の柄がそうではありませんか?」
セティの問いに、ファルコ改めルキウスは隼の柄頭があしらわれた剣を抜き、掲げた。
「この剣は東方のアマカネ帝国の宝剣シカンダ。かの剣聖が所持したとされるものです。私の母である第一王妃サクラと共にアルトリアにもたらされたと聞いています。」
第一王妃サクラ姫は、十五・六年ほど前に”ある事件”で死去している。これはアルトリア王国を揺るがす一大事件となっていたが、王子もその時に死亡したと伝えられていた。だが、生きていたのだ。
「これが私がアドロフ伯爵に面会できた理由です。」
「調べ物も頼んだと言ったね?」
アベルの問いにルキウスが頷く。
「彼の邸宅に住んでいた、一人の侍女について。」
テレスは不意に視線をそらし、手元のカップを握り直した。その指先に力がこもっていたのを、セティは見逃さなかった。
「その侍女はアドルフ邸に幽閉……正確には保護されていた、という方が近いかもしれませんね。この話をするには、まずはアルトリア王家の話をする必要があります。」
「まだ母上、サクラ姫が父上に嫁ぐ前の話です。王家では一人の侍女が問題になっていました。彼女は、『王に手籠めにされ、子を授かった』と触れ回ったのです。彼女は精神を病んでしまっていました。」
「もちろんそのような事実は無かったのですが、王宮は彼女の処遇に困ります。もちろん放置できませんし、解雇してそのまま外に出すわけにもいかない。精神を病んでしまったと言う理由で処刑するわけにもいきませんからね。」
「そこで手を挙げたのが、忠臣ヴァレリ・アドロフ伯爵。彼がその侍女を引き取り、彼の邸宅で軟禁、療養させることになります。」
「そして彼女は子を生みます。妊娠自体は妄想ではなく、父親は庭師とのことでした。」
「生まれた子は男女の双子。女の子は母親の実家へと引き取られますが、男の子は彼女が執着したためそのまま屋敷で育てられます。」
「つまり、貴方達のことです。」
ルキウスはアリスとテレスへ交互に顔を向けた。
「つまり、貴方達ふたりとも、王家はおろか貴族の血筋ではありません。これでアリス殿がグリゴリーに狙われる理由は消えました。もっとも彼は力を失うでしょうが。」
自業自得だ。グリゴリーは、愚かにも自国の王太子に私怨で決闘を挑み、あろうことか王家の宝剣を奪おうとしたのだ。王家はもしかするとレノフ家自体を取り潰すかもしれない。
「……残念でしたか?」
ルキウスがアリスの方を見て質問した。アリスは少し驚いた様子を見せたが、すぐに返答した。
「いいえ。私はお貴族様になるよりも、静かに暮らしていきたいです。」
「そうですか。その言葉を聞けて安心しました。実はこの事を伝えようか迷っていたのです。」
アリスの言葉は本心だろう。それに、彼女には政治渦巻く貴族ぐらしは向いていない。
「私の話はここまでです。それから、セティ殿とアベル殿には別のお話がありますので、部屋で。」
すべてが狂ってしまった。途中まではうまく行っていたはずだ。
ふらふらと、暗い路地を歩く。腰には剣。右手の自由は効かないが、左手でもそこいらの凡人にやられるつもりはない。何よりわざわざ武装している相手を襲う者もいないだろう。
酔いが醒めてしまい、思考が晴れてくると、どうしても考えてしまう。
「どこから間違った?最初からか?」
アイツ等が現れてからだ。それまでは計画通りだった。うまく行っていたはずだった。
足に力が入らない。どうやらこちらにはまだ酒精の影響があるようだ。まるで上半身と下半身が別々の生き物であるかのように言うことを聞かない。
「いや、今からでも挽回できる。アイツを殺して剣さえ奪えば……。」
「まだ何か企んでるのかい?」
背後からの声。咄嗟に振り返る。そこにいたのはアベル・ドレール。
「悪いが君の考えはだいたい分かっているんだ。うちの相棒は優秀でね。君がこのまま大人しくしてくれているなら、放っておこうって話になってたんだけどね。」
思わず剣を抜く。ふらふらの身体で構える。
「やめておきなよ。これ以上は流石に擁護できない。それに、その手でまともに剣を振れるとも思えない。何より万全であっても君は僕には勝てない。」
「くっ!」
そのとおりだ。たとえ万全、それこそこの右手の怪我が無かったとしても、この男には勝てないだろう。
「僕達三人は、もうすぐ宿を離れる。だが、何かあったらもう容赦はしない。」
「くそっ!」
思わずアベルに背中を向けて、ふらつく足で逃げ出した。
「お前はグリゴリーか?こんなところで何をしている?」
「誰だ?!」
人通りのない路地の端で座り込んでいたら、いきなり声をかけられた。酔いはすっかり醒めている。
暗くて顔は見えない。
「決闘に負けて塞ぎ込んでいるのか?」
「うるせえ、黙れ!」
よく見ると、男は剣を持っている。俺様を殺す気か?
「ちょうどいい。私の話を聞け。」
この語り口、どこかで……
「グリゴリー、お前にもう一度チャンスをやろう。あの三人はもうすぐ宿を離れる。ファルコが一人になる隙があるはずだ。殺して剣を奪ってこい。」
「お前、まさか……?!」
この声、語り口。……もう一度チャンスをやる?
「黙れ。お前の言うことはもう聞かない。お前のせいで大きなものを失った!」
その上こうやって手ずから俺様を始末しに来たのだ。
「今から取り戻す方法を教えてやる。グリゴリー、お前は私の指示通りに動けば良いのだ。」
「うるさい、黙れ!」
こっちに来るんじゃない!
咄嗟に抜き身のまま地面に落ちていた剣を拾い、左手ながら”ヤツ”に突きつけた。
「おい、何をしている?私の言葉が聞けないのか?」
そう言いながら”ヤツ”がこちらに近づいてくる。突如、”ヤツ”の足がふらつき……
うっ!と言う短い悲鳴。
……刺した。刺さってしまった。
寄りかかるように倒れ込んでくるその男。顔が、見えた。
「お前は……テレス!」
あのアリスの弟。俺様が手に入れそこねた女の弟。
「お前が『あの人』だったのか……!」
テレスの何故、というような表情、そして……
「その目で俺様を見るな!」
軽蔑と哀れみを含んだような目。
思わず突き飛ばした。
グリゴリーがテレスの肩を突き飛ばすと、テレスはふらつく足で離れ、傷口を押さえながら後退りし、なにか言いたげに口を開きながら側溝へ転落した。
翌朝、王都の水路から一人の若者の遺体が発見された。
死因は溺死だったが、腹部の刺し傷によって自力で側溝から這い上がれなかったのだろうと結論付けられた。