第8話 ブラックアウト
机の引き出しを開けナイフに視線をやる。
「急に三浦君たちが豹変するかもしれないからやっぱり必要だよ」
路地を歩く吾郎のブレザーの前裾がわずかな盛り上がりを見せている。今日は忘れずにナイフを腰に差してきていた。学校が見え、同校の生徒たちが正門に吸い込まれていく。
2日前の朝とは違い、落ち着いた気持ちで門をくぐる。凶器を腰に忍ばせているものの、使い道を探している最中だ。使えばこれまでの日常に後戻りできないため、激情に駆られて動くわけにはいかない。
校舎に入り、靴を履き替えていたら、三浦の声が聞こえた。出くわさないように立ち止まり、声に耳を澄ます。歩いているのか声が遠くなっていく。シューズボックスから顔を覗かせて、三浦とクラスの女子2人が声を弾ませながら会話しているようだ。玄関ホールを過ぎて階段を登っていくのを確認し、距離を保ちながら吾郎も同じ速度で歩いていく。
「えーほんと! よかったー。」
「昨日、立花の母ちゃんが立花に俺たちが来たことを伝えてくれたみたいなんだ。 そのときの印象がよかったんだろうな」
『立花』と言う言葉を聞き会話の内容に吾郎は耳を研ぎ澄ます。
「俺たちの誠意が十分伝わったのか、立花のやつ今までのこと全部を許してくれたんだ。 あいつは凄いやつだよ。 あんないい奴をいじめていたんだなって思うと恥ずかしくて溜まらなかったよ」
足元が崩れていくような感覚を覚え、階段の手すりを掴む手に力が入る。三浦たちは廊下を歩いていく。
――幸助君、あれだけのことをされたのに何故?
「それで立花君はいつ頃学校に来るの?」
「もう少ししたら来るってさ。 あいつがクラスに馴染めるようにしてやらないとなあ」
そう話す三浦の背後を吾郎は気が付いたら歩いていた。
「あ、二見君おはよう」
女子の一人があいさつをすると、もう一人も「おはよう」と言った。
「お、二見! 聞いてくれよ! 立花と話ができたんだよ。 それで全力で詫びたら許してくれたんだよ。 立花はもう少しで学校に来るんだ。 お前も嬉しいだろ! 俺、立花とかなり仲良くなれる気がするんだよね」
――ふざけるなよ。
強い憤りで吾郎は言葉が出なかった。
「もちろん二見とも」
そういって吾郎の肩に腕を絡ませる。
「あれ? 聞いてる?」
無反応の吾郎に三浦が問いかける。
「……」
「……二見、おーい?」
三浦が歩く吾郎の前に立ち、両手を肩に置き首を曲げて顔を覗き込む。三浦はそこで虚ろな両眼を見てさっと身を引いた。そのままトボトボと教室に歩いていく吾郎。
「あいつ、どうしたんだ?」
「朝が弱いんじゃないかな」
三浦に女子が返した。
ロッカーにカバンや手荷物を入れて教室に入り席に座る。すぐに三浦と先ほどの女子2人が入ってくる。
騒がしいクラスの雑音の中で吾郎は先ほどの三浦の言葉の意味を考えていた。
――もしかして幸助君も変わってしまったのかな。
不安が吾郎の胸を焦がす。
ホームルームが始まる前、クラスにいる男子たちと話している三浦がおもむろに席から立ち上がり教室を出た。反射的に吾郎は席から立ち上がり、三浦を追って教室を出る。
廊下では会話をしたり、忙しく歩き回る生徒がいて後をつけていても気づかれなかった。
前を歩く三浦の体を値踏みするような目で見る。高い身長、太い首、広い肩幅、手足は骨太で長い。
吾郎は三浦の後を追う理由が自分でもわからなかった。ターゲットたちが幸助と和気あいあいとしている姿を想像すると、いてもたってもいられず後を追っていた。
それはなんとしてでも阻止しなければならない情景だった。
内臓がぐつぐつと煮立つような狂おしいまでの破壊衝動に正常な思考は焼き付いた。
――やるしかない。
突然、湧き出してきた剥き出しの殺意に躊躇なく腰のナイフを引き抜く。
三浦はエントランスを通り、渡り廊下の方向に進んでいく。周囲に人がいなくなってきたので足音を殺し、三浦との距離を詰める。入口にあるトイレへ向かうようだ。
最高のシチュエーションに恵まれ、全身からアドレナリンが充溢し、心の準備は瞬時に整った。前から人は来ない。一度後ろを振り返り、人の目がこちらに向けられていないことを確認し、ナイフの ケースを外してからポケットに入れた。朝の光を受け白い刃が平穏な学校の空間で怪しく光る。
ナイフを片手に怒気をみなぎらせた吾郎の存在に全く気付かずに三浦がトイレに入っていく。
味気ない高校生活に青春をもたらしてくれた幸助。真面目で明るくて友達思いの幸助。それをやつらは笑いの道具にして踏みにじった。
心のどこかで計画を実行することはないんだろうな、と吾郎は思っていた。しかし、幸助と三浦たちが仲良さげに終業式を迎え進級する未来が現実味を帯びてしまった。それが燻っていて行動に移せない吾郎にとって決定的だった。
息を殺し三浦の背後に張り付くように迫る吾郎は、今までの鬱積した怒りをナイフに込めて無防備な三浦の背中に――
その瞬間、吾郎の視界は真っ暗になった。聴覚や肉体の感覚もどこか遠くにいってしまったみたいで真っ暗な空間を浮遊しているようだった。
この空間には前にも一度来たことがあったような気がした。鈍った思考でこの空間にいつどこで訪れたのか記憶をたどっていたら、突如現れた鮮烈な光が暗闇を切り裂いた。暗闇は消えてなくなり、空間は輝きそのものになり吾郎は輝きと一体になった。
吾郎はまどろんで、それから深く目を閉じた。
ざらざらの表面。ヒビが入っていたり、欠けていたりする壁面を見ている。
――ん?
「――なわけねえよ」
「いやいや、マジなんだって。 ゴリラは握力が1トンあるから、ライオンやトラじゃ勝てねえんだよ」
目の前で奈良と六本木がいた。見渡すと三浦や雲野、五味に須藤もいる。いつものメンバーが揃って賑やかなカフェテリアで談笑しているようだ。
「はあ? 流石に1トンはないだろ」
六本木のゴリラ最強説に奈良が否定する。
「あるんだよ。 ゴリラにはな。 パワーが桁違いなんだ」
「そもそもゴリラの握力をどうやって測るんだよ」
ゴリラの強さに絶対の自信のある六本木に雲野が野暮なことを言う。
「え? お前、それは……頭がいいから訓練させて測ったんだろ」
「そもそも握力計に1トンって測れるの? 壊れるんじゃない?」
須藤がニヤけた表情で六本木の主張を言い消す。
吾郎は須藤の頭の包帯が気になった。
「あーもううるせえ! ゴリラが最強なんだよ!」
「どうでもいいわ、くだらねえ」
吐き捨てるような口調の六本木、笑いながら三浦が突っ込みをいれた。
気の抜けた笑いが仲間内で流れる。
広々としたカフェテリアの窓から見える中庭には、冬の間に葉を落とした丸裸の木々から開ききっていない新芽がたくさん生えていた。
陽光をまとった鮮やかな緑が揺れ動く。美しいさえずりが耳に入り、目を細めると小鳥が枝先に止まっているのを発見した。平和な世界ののどかな昼下がりに気心の知れた仲間とくつろいでいる。
「あれっ?」
突然、吾郎が心に引っ掛かりを覚えて声に出した。声に出すつもりはなかったのだが、奥底からの得体の知れない違和感に声が出てしまった。
「ん? どうしたの?」と須藤にいわれるが、答えられるほど形にならない。
「いや、なんでもない」
皆の失笑する声がする。
「なんだよそれ、気になるだろ」
「んー……」
五味にそういわれても、心の引っ掛かりをうまく言葉にできないのだ。仲間たちに小突かれながらはっとなる。
「あっ」
「ど、どうした?」
六本木が体を吾郎の方向に傾け言葉を待つ。
「やっぱり、なんでもない」
仲間たちから口々になじられ強めに小突かれた。吾郎は笑いながらやめてよ、と言った。ふざけているのではなくて、奇妙な感覚の言語化ができないため、感嘆詞しか出てこないのだ。
適切な言葉があるとすれば――非現実感。
「いつから三浦君たちと一緒に行動するようになったんだっけ?」
率直な疑問が口に出た。
「いつからって、最近だけど……?」
三浦が不思議そうに答える。
「ああ、そうだったよね……」
空返事をして、最近の日常生活を振り返るが、ボヤけてはっきりしない。
「3日くらい前からじゃね。 いつも二見俺たちを避けていたけど、最近かなり付き合いがよくなってきたよな」
頭の後ろを両腕で組んでいる奈良があくびをした後、眠そうに言った。3日前どころかそれ以前の三浦たちとの関係性も瞬時に想起することが難しい。
難しそうな表情の吾郎に雲野が真面目な顔で語りかける。
「ここ数日で一気に距離が近くなったよなあ。 須藤とも気がついたらつるむようになっていたけど、前はいじめていたんだよな」
「ほんと、前は酷かったよ。 俺なんか毎日死にたかったよ」と須藤が言う。
雲野の言葉で須藤と自分が常習的にいじめを受けていたことを知る。酷い扱いを受けていたならば現在、こうして気軽に話せる関係でいられるのだろうか。自分の身に起きたことなのに何故か実感がわかない。
「もう散々に謝ったし蒸し返すなよ」
三浦が苦笑いを須藤に向けて申し訳なさそうに言う。その言葉にかすかな不快感を覚えて吾郎は一瞬険しい表情を三浦に向けた。
三浦がこっちを向いたのですぐに顔色を元に戻した。
午後からの授業ため、生徒たちがぞろぞろとカフェテリアから移動を始める。室内は次第にさざめきを大きくしていき、目の前の友達の声がそれに伴い小さくなる。しかし、仲間たちの会話を頭の中で繰り返している吾郎にはなにも届かなかった。
世界が自分の知らないところで展開していて、それに自分だけが気づかずにいるような妄想めいたことを考えていた。