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きっと俺にはストーカーかそれに類するあだ名が付くだろうと思った。でも長い間つながりがあった幼馴染という立場だから、むしろ紬はこれを自分の汚点として誰にも話をしないかもしれない。翌日の教室では、少なくとも俺のことを話題にしている人は誰もいなさそうだった。
俺は最低だった。他の女子は名前で呼べないのに、昔からの知り合いというだけで紬だけを下の名前で読んでいるのが、ずるい上に気持ちが悪い感じがした。いっそ転校してしまいたい。父が遠くの地に辞令を受けたらいい。そうしたら、俺は絶対に父についていこうと思う
「これ、どこで撮ったんだ?」
部室では加藤が待っていた。
「隣の駅の近く」
「ちょっと来いよ」
加藤について階段を降り、靴を履き替えて外に出る。
「どこ行くんだ」
「駐車場」
校門脇に教員用の駐車場がある。その中から、加藤は一台の車を示した。灰色の地味な車だった。
『え・314』
「誰、誰のなんだよ、これ」
「神谷の」
これは偶然だろうかと思った。俺の知らない紬の友達の住んでいるアパートに、たまたま学校の先生が住んでいるなんてことは、現実で起こるようなことなんだろうか。
「神谷はいいセンスしてるわ」
俺には全くそうは思えなかった。心臓が急に出力を上げて、体中の血管を破裂させようとしている。頬が熱くなってきた。
「神谷が住んでるのって、苅屋駅だよな?」
「お前の撮った写真がそうなら、そうだと思うけど。あいつの家なんて知ってどうするんだよ。数学教えてもらうなら、神谷より大塚のほうがいいと思うぜ」
紬が入っていったのは、神谷の住んでいたマンションだった。
「神谷が住んでるのって、何号室なんだろう?」
「なんでそんなことを気にするんだ?」
三階の、右手から三つ目の部屋。そんなことがあるわけない。紬と神谷の間に接点があるのか俺は知らない。
「神谷のこと嫌いだっけ?」
「なんか、先生がアパート借りて住んでるのって、滅茶苦茶違和感がある」
「当たり前だけど、先生だろうが、大統領だろうが、最強の動画配信者だろうが、衣食住がないと、皆ひとしく死んじゃうんだよ」
*
今回で最後にしようと思って、俺はもう一度あのアパートに行った。円周率ナンバーの車はまだ停まっておらず、神谷はまだ帰って来ていないみたいだった。
公園のブランコに座って、神谷が帰ってくるのを待った。今回で絶対に最後にしようと思った。神谷の入った部屋が、紬の入った部屋と違うことだけを確認したら、全部終わりにしよう。
先生が生徒を自分の家に招くのは法律違反じゃない。だけど、俺の知っている先生は生徒を自分の家に招いたりしないはずだった。両親とか先生とか、社会のもっと大きな力がそれを許さないからだ。
もしも神谷が紬と二人だけで会っていたとしたら、俺は神谷を社会的に抹殺することが可能だった。圧倒的な同等的正義を盾に、自分よりずっと年上の大人を、俺の人生から追放することができる。
先生の何がいいのか、俺には全然わからない。英語の先生だって、音楽の先生だって、俺にはとても可愛いとは思えなかった。どうしてなんだろう。どうして世界の女子生徒たちは、よくわからない男の先生に恋愛感情を抱いたりするんだろう。
男子高校生と男性社会人を分けるものは一体何なんだろう。頭の良さ? もしそうだったとしたら、神谷なんかよりも加藤のほうがずっと頭がいいだろう。
『先生は、勉強の嫌いな人がなる職業なんだよ。本当に勉強を教えるべき人は、きっと今頃、大学の研究室でピペットを握ってる。先生よりもずっと安い給料で。本当に学問を愛して教える資格があるのはそういう人なんだよな。俺は早く卒業したい。本当に学問に真剣に向き合ってる大人のいる場所に行きたい』
加藤は教員を馬鹿にしているところがあった。言い過ぎだと思ったけど、大人を馬鹿にできることは、今の俺たちにしかできない特権のように思えていた。そのときに大人をぶった切った刃は、切り返す先できっと十年後の俺たちを断罪するだろうという予感があった、けれど、十年後の痛みは永遠の彼方にあるように見えたから、無視した。それに、加藤があそこまでいうんだから、きっといいんだろう。
俺は大人を見くびっていて、その報いを受けようとしているのかもしれない。もしも神谷と紬のことが問題になったら、紬はどう思うだろう。
本当に俺を殺そうとするかもしれないとさえ思った。夕日を背に俺の前に立つ、あの日の紬の姿を思い出した。得体のしれない黒い怪物が、あの小さな体に住んでいるなんて俺は想像していなかった。
アパート前の駐車場に、灰色の車が停まった。中から出てきたのは神谷だった。
心臓が大きく跳ねた。もうすぐわかる。神谷の部屋が、紬の入っていったのとは別のところだったらいい。
俺はなんて愚かなんだろう。学校の先生が、どの部屋に入っていくかを世界の終わりみたいな気分で待っている自分がおかしい。
一秒が長く引き伸ばされたような感じがした。目の前の光景が現実感を失って、ゲームのグラフィックみたいに見えた。
三階の右から三番目の部屋の扉に、神谷はまだ現れない
女子生徒は、男子生徒よりも先に、権力にこびたほうが生きやすいことを学ぶ。だから、先生を好きになるのもしれない。
なんで今、そんなことが頭に浮かんでくるんだろう?
「辻村?」
穏やかな声に飛び上がりそうになった。ずっと見上げていたせいで、近づいてくる人に気が付かなかった。
「生徒に見られるのはちょっと困るな。何やってるんだ」
神谷だった。右手に持っていた煙草の箱を胸ポケットにしまった。俺は息が止まりそうだった。
とっさに理由が思いつかなかった。俺は事態には滅茶苦茶弱いみたいだ。
「神谷先生を待ってました」
口に咥えた煙草が揺れた。俺が神谷先生の自宅を知っているのはおかしい。普通の高校生は、わざわざ学校の外で先生を待ったりしない。
「質問か?」
「でも、ここでは話せません」
「うちに来たらいい。あそこの三解」
神谷には現代的な感覚が欠けている。普通、高校生を自分の家に呼び込むなんて、面倒おとにしかならないはずなのに。
公園を出てアパートまで歩く。
「荒川からも、何か相談されたんですか?」
神谷の表情が明らかにこわばった。
先生だって人間なんだと思った。
食べて、眠って、朝は嫌々起きて朝食を食べ、皿を洗った後はスーツに着替え、生徒のいない朝の通学路を一人歩いて校門をくぐる。俺たちと大して変わらない。
黒いスーツの背中がマンションの階段を登っていく。上がった先には神谷先生の住んでいる家がある事実がなんとなくおかしい。
神谷の後に続いて部屋に入る。一室だけの小さな部屋には、テーブルが一つだけ置かれていた。家具は棚が一つあるだけだ。今日引っ越してきたばかりかというくらい部屋は片付いていた。
「座って待ってて」
神谷は、冷蔵庫からペットボトルを取り出してコップに注ぐと、俺の正面に座った。この部屋で生活する人間なんだという不思議な実感が、そのコップに波々と満ちていく感じがした。
「驚かせて悪かった」
「いえ」
俺に口出しする権利はなにもない。紬と神谷が付き合っているからと言って、俺が何かできるなんてこはなかった。
「先生は荒川と付き合っているんですか?」
神谷は視線を落とした。
「俺が最初に手を出したわけじゃない」
「そうですか」
だからなんなんだろう、と思った。先生が無理に押し切って、紬が嫌々それに付き合っているだけかもしれないという妄想を抱えたままでいれば、ないはずの幸福を予感しながら毎日を過ごすことができただろう。
「辻村はどうしたいんだ」
「僕が、ですか」
そんな台詞を吐くなんて信じられなかった。辻村はどうしたいんだ、だって?
「荒川と先生がいいと思っているなら、僕に何かを言う権利はありません。ただ、誰か他の大人には言うと思います」
神谷はずっと黙っている。絶対に自分が正しいとわかっている会話は自分の嗜虐心をくすぐるもののはずなのに、俺はもう何もしたくない気分だった。惨めさに体が震える。目の前のコップを手にとって、中身を一気に飲み干した。
法律や倫理なんてどうだってよかった。俺は、自分の利益のために正義を利用したいと思っている。
「それならそれでいい」
「どうしてそんな他人事でいられるんですか」
「成人男性なんてもう死んでるのと同じなんだだよ。こんな世の中がどうでも良くなってから、しかも学校の生徒から好かれるのか。全く意味がわからないんだよな。その幸運を、もっと人生の前半にシフトして欲しかったよ。神様の設計センスは信用しないほうがいい」
神谷は立ち上がった。
「生物はその場その場の環境に適応するように、体を継ぎ接ぎしてできただけで、センスなんてかけらもないらしいですよ」
加藤がそんなことを言っていた気がする。
神谷は、クローゼットを開けながら笑った。
「お前を見てると。昔の自分を思い出すよ。おとなしいわりに生意気だった」
ふわふわと中に浮かんでいるような気分だった。コップにかけた手にうまく力が入らない。まるで体が自分のものじゃないみたいだった。
俺の方に向き直った神谷は、両手にロープを持っていた。簡単には切れそうのない、強く何かを締め付けるための太いロープだ。
「俺は、どうなったっていいと思ってるんだよな。『警官と賛美歌』って知ってるか?」
俺は首を振ろうとした。けれど、まるで首から先にボウリングの玉をくっつけているみたいに、頭が思い。強烈な眠気だ、と気づいた。全身が心地よい麻痺していく。
神谷は俺の前に膝をついた。ロープの硬い感触が俺の喉に押し当てられる。俺は首を振った。
「次の人生があったら読んでみるといい」
*
小さな部屋の中にいた。正方形のその部屋は、すでに八割が水で満たされている。扉はどこにもない。小さな穴がひとつだけあって、水はそこから流れ出してくる。
水は意思を持ったみたいに、俺の首を締め付け、口に入り込んでくる。俺は天井に逃れた。水から顔を出すと、今度は鼻から流れ込んできた水に激しくむせた。
これは夢だとわかっていた。崖から落ちる直前、呼吸を失う前、苦痛を感じる前に俺は現実に立ち返ることができるとたかをくくっていた。
部屋は水で満たされた。空気を求める体が、静かに悲鳴を上げ続けていた。夢から覚めるはずだった。けれど、虚構であるはずの苦痛はいつまでも消えない。
俺は大きな間違いを犯していた。
逃げる場所はどこにもなかった。扉は見つからない。目の前の壁を必死に叩いた。何度も、何度も。絶対に破れないことはわかっていた。けれど、体の奥底から湧き上がってくる恐怖と、気が狂いそうになる苦痛が、生命の最後の一滴を燃やして俺の体を動かそうとしていた。
やがて、苦しさと衝動に体が追いつかなくなってきた。苦痛がちょっとずつ薄らいでいく。ふと訪れた幸福な瞬間は、眠りに落ちる前のほんの一瞬前のそれと似ていた。
死に至るまでの道のりは、振り返ってみたら明確に見えた。まさか、その起点がほんの一週間前にあるなんてわかるわけがない。
紬に執着したのは間違いだった。
*
アラームの音が聞こえた。