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昨日までとなにも変わらないはずなのに、紬がなぜか別人みたいに見えた。朝、電車の時間がかぶってしまったときには、お互いに見なかったふりをした。ただ向こうは本当に気がついていなかっただけかもしれない。
勉強も部活も捗った。というか、他のことを考えているときだけは、あのときのことを思い出さなくて済んだ。その時にはなんとも思わなかったのに、ふとノートに走らせた手を止めた瞬間に、武道場の前の光景がフラッシュバックする。
感情が現実に追いつくには時間がかかるらしい。思わず、机に覆いかぶさってうめいた。そうしていれば、自分の中に湧き上がった感情が、空気の振動になってどこかに消えてくれると固く信じた。そんな謎現象が起きるわけもない。
自分でもおかしい。しばらくそうしていると、自室の扉の外から「うるさいんだけど」と澪の声が聞こえ、扉が開いた。
「今日も隣行くよね? これ返して欲しいんだけど」
神様は、隣とうちとの間で、きょうだいの組み合わせを間違えたんじゃないだろうか。
「いかない」
「え、なんで?」
「毎日行かないだろ普通」
「樹は普通じゃないから」
「出かける」
「ついでに返してきて欲しい物があるんだけど」
と、追いすがってくる澪を振り払って外に出た。軒下から自転車を引っ張り出してまたがった。走りたい気分だった。
思い切り力を込めると、チェーンが不穏に振動する。噛み合ったギアが音をたてる。このままずっと漕ぎ続けていたら、自転車が分解してしまうんじゃないかと思う。
ただ、通り過ぎていく景色と、熱を発していく自分の足にだけ注意を向ければいい。体が辛い時、人は複雑なことを考えることができない。そのまま、全具が吹き飛んでしまいそうだ。
電車の音が聞こえた。今から全力で漕げば、ホームにやってきた電車に飛び乗ることもできそうだ。定期も持っている。
学校に向かうのとは反対方向から電車がやってくる。駅のホームに、紬の姿を見つけた。制服ではなかった。買い物に行くのも遊びに行くのも、学校に行くのもそっちの方向ではないはずだった。電車は、帰り道の乗客と一緒に、紬の姿を飲み込んで再び走り出した。線路に沿った道にハンドルを切った。
俺がやっていることは間違っていると思う。同学年の異性の後をつけるなんて、どう客観的に見たって気持ち悪いやつだと思った。
見つかったときの言い訳を考えながら、俺はずっと遠ざかっていく電車の後尾を追っていた。俺はおかしかった。自分でも何がしたいのかわからなくなっていた。振り払ってきたどろどろした感情が、首を締め上げてどこか遠くに俺をつれていくような感じがした。恋愛は性欲の亜種だと思っていた。醜いものだとも知っていた。止めようとした。だけど、続けようという衝動のほうが圧倒的に強かった。
こっちの方向には誰の家があるのか思い出そうとしたけれど、思い当たる相手は誰もいなかった。
俺は紬のことをよく知っていると思っていた。だけどそれは間違いだった。俺は、自分の知っていることしか知らない。俺の知らない経験を積み重ねて、いつも一緒だと思っていた紬は、いつの間にか全然知らない人になっていた。あいつのことをよくわかっているなんて、今までどうしてそんなことを思っていたんだろう。
電車が次の駅に停まった。
紬が改札を出るところがに、自転車でぎりぎり追いついた。
駅の周りはアパートや家が立ち並ぶ住宅街だ。車なんて通らない道に設置された意味のない信号を、当たり前みたいに無視して皆が渡っていく。その中で、紬は一人だけじっと赤信号を見つめて待っていた。
他の人がどこかに行くのを待っていたようにも見えた。
俺は自転車を停め、歩いて後を追うことにした。紬は歩き、時々立ち止まって左右を見回した。何かを探しているわけではなさそうだった。
駅からそんなに離れない場所にアパートがあった。自動ドアをくぐって中に入るところまでが見えた。目の前に公園がある。ブランコに座って少しだけ首をあげれば、三階建てアパートの扉は全部見えた。見逃しさえしなければ、紬がどこの部屋に入ったのかわかるだろう。
そんなことを知ったところでどうしようもない。もしも紬に気が付かれたら、きっと一生口を利いてもらえなくなるだろう。まだ傷を追うだけで済んだのに、俺はわざわざ、関係している人全員に致命傷を負わせようとしていた。
俺は本当に普通じゃないのかもしれない。それも悪い意味で。
「何してるの」
男の子が立っていた。顔を上げる。両親らしい姿はどこにもない。
「友達を待ってるんだ」
嘘ではなかったけれど、ひどい解答だと思った。男の子は隣のブランコに飛び乗って勢いよく漕ぎ始めた。
「お父さんかお母さんはいないの?」
「いない!」
ぐん、と最下点に達したブランコが加速して、一段高いところまでその子の体を持ち上げた。
「どこから来たの」
「すぐ近く!」
全然会話にならない。
迷子なら交番に連れて行ったほうがいいかもしれない。調べてみると、隣の駅に交番があった。後から送っていこうと思った。それまでは、ここで遊んでいたことにしようと、心のなかで自分に言い訳をした。
この子が知り合いの子どもだということにすれば、誰かが何かを許してくれるような気がした。
「携帯電話は?」
「ない!」
元気はいいけど、やっぱりいい答えは返ってこない。男の子は夢中でブランコを漕ぎ続けている。羨ましいな、と思った。
アパートの廊下に紬の姿が見えた。三階、右手から三つ目の部屋の扉を開けて中に入った。男の子はブランコから勢いよく飛び降りた。
「友達来ないね」
「君の両親も来ないみたいだけど」
加藤に電話をかけることにした。
「迷子見つけたときってどうすればいいと思う?」
『110にかける』
と言われたのでその通りにした。110にかけるのは緊張した。
『近くの交番まで連れてきてもらえると』
公園を出た後に、アパートの前を通った。前に車が停まっていた。灰色の地味な車だったけれど、そのナンバーが目を引いた。
『え・314』
えんしゅうりつ。3.14。
写真を撮って加藤に送ってやった。お礼ということにしようと思う。
男の子はおとなしくついてきた。全然こっちを怖がらない。
「家はこの近く?」
「あっちのほう」
と、線路のずっと向こうを指で示した。
「電車で来た?」
「違う」
歩道脇のブロックに飛び乗って、落ちないよう歩く。俺はいくつくらいから、こういうことをやらなくなったんだろう。
「友達はいいの?」
「いいよ。迷子の保護が先」
本当にもういい気分だった。俺の方こそ警察に捕まるようなことをしていたんだから。
「君のおかげで冷静な感じになれたよ」
「どういたしまして」
男の子は俺が何を言っているのかわかっていなかったと思うけれど、お礼を言われているらしいことはわかったみたいだ。再び前を向いてブロックの上を歩き始めた。
交番につくと、ちょうど母親らしい人が警官と話をしているところだった。男の子を引き渡してお礼を言われた。元来た道を戻る時、最初に歩いた時よりもずっといい気分だった。
自分のやった悪いことと、良いことがちょうど相殺されたような感じがしていた。このまま家に帰ってしまえば、何もなかったことにならないだろうか。
停めた自転車を引っ張り出したところで、立ち並ぶ住宅向こうに、アパートの屋根が見えることに気がついた。
「なんでいるの?」
夕暮れの風が、俺の全身から熱をさらっていく感じがした。
「なんでいるの? ねえ」
紬が立っていた。俺は声を絞り出すのがやっとだった。
「迷子の子が、いたんだ」
逆光の向こうに立った紬の影が、大きな怪物みたいに俺の影を飲み込んでいた。
「自転車で送ってきたんだ?」
「ああ」
「サドルがついてないのに」
「歩いて来たんだよ」
「そっか」
紬は笑っていなかった。
「お前こそ何してるんだ」
「そんなこと聞いてどうするの?」
「言いたくないなら無理に聞かない」
「友達の家に遊びに行ってた」
その友達の名前を聞くのはルール違反かも、とは思った。
「誰かいたっけ」
「樹の友達は少数精鋭だからね」
「別にこんなところで言葉を選ばなくていい」
「最低」
その表情は穏やかだったけれど、起こっていることは明らかだった。
「最低だよ」
「違う」
なにも間違っていなかった。間違いなく俺は最低だった。つい引き留めようと伸ばした腕を紬は振り払った。
「そんな人だとは思ってなかった」
紬は改札にくぐった。ちょうどやってきた帰りの電車に紬は飛び乗った。俺は遠ざかっていく車両を馬鹿みたいにずっと眺めていた。




