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思い出の場所、というのがある。俺にとっては学校の体育館だ。その日は雨が降っていた。背中に担いだ防具をおろして、両親が迎えに来るのを、渡り廊下の軒下で待っていた。俺と紬は同じ剣道教室に通っていて、家が隣だからという理由で、お互いの親が送り迎えを交代でやっていた。まだ小学生だったから、中学校まで自転車で通うのは危ないと両親は考えていた。
練習を終えた生徒が次々に迎えの車で帰っていく。
「すぐに来るよ」
俺の予想は外れた。俺と紬が二人だけになっても迎えはやってこなかった。
足元の水たまりに無数の雨粒が落ちて波紋を広げ、灰色の雲の向こうにはぼんやりと月の明かりがにじむ。一本だけ立った電灯は切れかかっていて、明かりが明滅する度、紬の不安な表情が暗闇に浮かび上がった。
「剣道、ずっとやるつもり?」
「うーん、行きたくないなってこともあるんだけど、なぜかやめられないんだよね」
紬は剣道に対しては熱心だった。たいていのことはサボるか他人任せにするのに、それだけは自分の上達していくのが楽しかったらしい。そこには純粋な熱意だけがある。俺が迎えを待っている間も、窓ガラスに写った自分を見ながら素振りをしていた。
一方の俺は、毎週練習に出かけるのが面倒で仕方がなかった。早く帰ってゲームがしたいのに、練習が終わって家に帰ると、くたくたになってすぐに眠ってしまう。
「意外と好きなのかも」
俺たちは、学校のこととか、宿題のこととか、先生のこととか、友達のこととか、自分の外界にあるものばかりに関心を向けてきた。けれど今、暗闇の中で行き場を失った視線は自分の内側を向いていた。紬は俺に向かって喋っているんじゃない。自分の内側にあるものの形を、手探りで捉えようとしているみたいだ。
「俺は辞めようかなあ」
「え、なんで?」
「だって毎週来るの面倒じゃん」
「友達いなくなるよ」
「友達作るためにやってんのか?」
「そうだよ。悪い?」
「剣道じゃなくたっていいじゃないか」
「剣道やってる人とは、一番仲良くなれそうだったから」
「性格悪いな」
紬がムッとしたのがわかった。
「樹だって、学校で喋ってるのクラブの友達しかいないじゃん」
「そんなことねえよ」
自分の友達を分類してみようなんて、今まで考えたこともなかった。頭の中でクラスの風景を思い浮かべて、やっと自分がクラブに関わっている人ばかりと一緒にいることに気がついた。友人も、仲がいい先生も。
「クラブの友達が一番多いのは、そうかも」
紬は現実の人間関係をきちんと捉えている。いくら否定したところで、立場が悪くなるだけなのはすぐにわかった。
「人よりも下手でいて、素直に頑張って、でもそこまで変じゃない。それくらい上手に部活とか勉強ができたら、たくさん友達ができるよ。男子は、友達を作るのが下手だから」
「そんな友達はいらない」
「樹がいいなら、それでいいんじゃない」
反論したいことはいくらでもあった。友達はそんなふうにして作るものじゃないとか、そんなのは友達じゃないとか。ただ、何を言ったところで紬は絶対に言い返してくることがわかっていた。黙っていても、反論しても、納得できないままでいなければならないのは俺の方だった。
「それでいいし」
俺の返事はやけっぱちだった、紬が勝ち誇ったような笑みを浮かべている気がしたのは、俺もちょっとだけ性格が悪いからだ。
「でも、なんとなくやってるうちに、好きになってきたのは本当」
車のエンジン音が聞こえ、続いて白い明かりが視界に流れ込んできた。紬は傘をぱっと開いて、水たまりに一歩踏み出した。
「やっと来た」
荷物を積み込んで後部座席に座る。その日の迎えはうちの母親だった。
「樹と仲良くしてくれて、本当にありがとうね」
母がそう言うと、紬は屈託なく笑った。
「私も楽しいので!」
車に揺られながら明るく話す紬を見ていると、さっきまで俺の話していたのが別の人だった気がした。
告白の成功率に場所は関係がない。でも一般的に場所を指定するのがマナーらしいから、きちんと場所を選ぶことにした。その時、思い出したのが雨の日の剣道クラブだった。ただ中学校に集まるわけにもいかないから、高校の武道場の前で代替することにした。
体育館の裏に呼び出して告白するのが定石なら、武道場の正面だっていいやと最後は適当に決めた。今日は、剣道部が休みで人通りもない。
渡り廊下があって、紫陽花の花もある。雨の日にここを通りかかる度、小学生の時に抱いていた感覚を思い出す。紬もそうだったらいい。場所の準備は整った。必要なのは茶番を演じる勇気だけだった。
紬は「わかった」とだけ返してきた。場所も時間も伝えてある。だけど、時間ぴったりになっても紬は現れなかった。
スマホの画面を見返す。紬からの返信はちゃんと残っている。ただの待ち合わせだったら、今どこにいるのか聞くことは簡単だ。なのに、この待ち合わせは普段のそれとはちょっと違う感じがする。張り詰めるような緊張感の中に、ほんの僅かな期待感を混ぜたような感覚があった。
十分が過ぎても、紬は来ない。時々通り過ぎる生徒が、こちらを見ているような気がする。見世物になって展示されているみたいだ。絶対に来ない相手を待ち続けて一人でそわそわしている滑稽な生徒の図。たいていの失恋はネタにこそなれ美しい思い出にはならない。
小動物みたいに警戒心を周囲に張り巡らせていたから、俺の後ろから近づいてくる足音にはすぐ気がついた。わざわざ押し殺すような、こっちに気づかれないようなゆったりとした足取り。肩に手を置かれた。
「加藤?」
「違うよ」
紬は、竹刀を持つ時みたいな格好で左手に傘をぶら下げていた。
「帰ったのかと思った」
「ごめん、職員室に寄ってて」
自分を守ろうとするみたいに、空いた右手で耳にかかった髪に触った。
「それで、話って、何?」
俺たちはきちんとマナーを守っていた。名前を呼ばれたら壇上に登って、一礼をし、両手で賞状を受け取るみたいだ。誰に教えられたわけでもないけれど、俺たちはいつの間にかその手順のことをよく知っている。まるで下手な芝居みたいで、笑ってしまいそうになる。
気温が急に上がった気がした。
「えっと」
うまく言葉が出てこない。止めようかな、と思った。何か言い訳が思いつくなら、いますぐこの場を逃げ出したいと思ったけれど、そんなものはの出てこなかった。
沈黙が落ちた。この不自然な間は俺の責任だ。
「樹は、こういうのが苦手な人だと思ってた」
「苦手でも得意でもないよ。俺はただ、紬が好きなだけだからそうしただけだ。剣道の形みたいなもんだよ」
「これって告白?」
「そう」
同じような詰められ方を、どこかでされた気がする。
「わざと濁したわけじゃない。俺は紬のことが好きだ。だから、付き合ってほしい」
もうちょっと劇的なものかと思っていたけれど、日常会話と全然変わらないお願いみたいに感じた。
「なんか意外だった」
「宿題なんていくら見るよ。大河の分だって」
「大河は自分でやるけど」
紬は答えに迷っているように見えた。やっと、俺は紬に返しの刃を突きつけた。自分の生活の中心に俺を据えるか、それとも、はじき出してしまうか。紬がどう答えても、俺にとっては都合がいいから、どんな答えが返ってきたって平気だった。
「ありがとう。でもごめん」
その表情に、後悔の一端が見えてほしいと思うのは俺のエゴだ。三匹のうち一匹しか選べない相棒とか、文理のどちらかを捨てないといけないこととか。選ばなかった別の選択肢が、お前は後悔するぞとずっとシャツの裾を引っ張り続けて、ずっと俺の胸にわだかまりを残し続ける。俺もせめて、紬にとっての後悔の種になったらいい。
「好きな人がいるから」
心臓を思い切りハンマーで殴られたみたいだった。当たり前だった。この世界に存在する異性は、隣の家以外にだっていくらでもいるんだから。
「嘘」
嘘なんてつくわけ無いだろ、と、冷静な自分がどこかから俺を嘲笑していた。
紬は笑みを浮かべた。誰かに頼み事をするときの、申し訳無さそうな、それでいて人懐っこい印象を与えるあざとい笑みだ。
「誰?」
「それは言えないな」