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 荒川紬は性格が悪い。それでも、紬は自身の本性を、人生で出会うほとんどの相手から隠し通すことができている。

 例えば小学生の体育の授業、二人組を作ってと言われた時、紬は、生まれたばかりのハリネズミみたいに小さくなってきょろきょろと当たりを見回す。そうすれば誰かが声をかけてくれるとわかっているからだ。日直の仕事を相手に押し付けたり、内申点を稼ぐためにわかっていることをわざと質問しにいったりしているくせに、本人は、ちょっとだけ抜けた可愛い女の子ぶって、しかも周りの人間もそう認めている。

 紬は素直さという一見罪のなさそうな仮面をうまく使って生きている。友達担当、体育担当、学校生活担当、紬の周りにはいつも誰かがいる。

「荒川さんって、不思議な可愛さがあるよな。なんというかこう、放っておけないというかさ」

 俺はまた、新しい奴隷がこの世界に召喚されたことを知るわけだ。


『宿題やろうよ』

 今日こそは断ろうという覚悟を決めたところで、紬からの着信があった。俺は隣の家の玄関を叩いた。玄関の鍵を開けて出てきたのは大河だった。

「よお樹」

「宿題やりにきたんだけど」

「それよりAmong USやろうよ、加藤くん呼んで」

「宿題終わったらな」

「また?」

 リビングに続くドアから、紬が顔を出した。

「大河、邪魔するなら部屋戻ってて」

「はーい」

 一番邪魔をしない大河は気の抜けた返事を返して階段を上がっていき、一番邪魔をする姉が後に残る。

「樹も一人でやるよりいいでしょ」

 テーブルの上に広げたノートを、スマホを重し代わりにして開いている。着信を知らせるランプが明滅していた。俺の返信をまだ見ていないのだと思う。

「聞きたいことがあるんだけど」

 紬は、自分が人から助けてもらえることを当たり前だと思っている。いつも加藤が俺に言うみたいに、自分で考えろと言ってやればいい。

「だろうと思ってた」

「さすが樹はわかってる」

 紬が冗談ぽく笑う。それだけで十分な見返りだと思ってしまうのが不公平だ。俺が冗談ぽく笑ったことの見返りに宿題を教えてくれるような人間はこの世界に存在しないのに、それどころか、返って被害損害を要求されたって文句は言えないくらいなのに。

 ずるいと思う。俺が教科書を読み込んで、先生に質問をしに行って、加藤のわけのわからない話を噛み砕いて理解したことを、紬は短い一文をスマホに打ち込むだけで手に入れられる。

 それは、これ以上ないくらい理不尽なことじゃないか。同じように生まれ、同じように過ごしてきたのに、俺と紬は等価じゃない。

「自分で考えたか?」

「もちろん」

 紬はまだにこにこしている。

「それで?」

「樹に聞くのが一番良さそうだってわかった」

「わかった、やるか」

 俺の本能を司っている何かは理性を圧倒して、紬のためにすべてを差し出せと俺に強要する。

 紬は早く宿題を片付けたいだけだ。それなのに、紬はまるで友達と遊んでいるみたいな、気安い表情を浮かべてノートに文字を書き込んでいく。紬は、俺といることが楽しくて仕方がないというふりをしている。そうすれば、俺が進んで有益な情報を提供するだろうとわかっているからだ。

 紬に乗せられていいように使われた経験は何回もある。例えば、窓の外に見える人形だだ。紬は、あれを一号と呼んでいる。そのうち二号を作らせるつもりなのかもしれない。

 十字に組んだ木材に、面、小手、胴をつけ、竹刀を持たせたものだ。紬が、家で剣道の練習がしたいと言って作ったものだった。

 紬とは生まれたときからの知り合いだった。親同士の仲が良かったからだ。そうではなかったら、話をすることもなかったと思う。

 父と母曰く、別に友達と一生一緒にいたかったから隣同士に家を建てたわけではなく、本当にただの偶然だったらしい。いくら仲のいい友人だからといって、長く一緒にいればいつか歪は生じるものだ。今のところ、両親から人間関係の不穏な兆候を感じたことは一度もない。ただ、俺が鈍感なだけかもしれないが。

 当時、二組の夫婦は、お互いがすでに結婚していることは知っていた。近くに住んでいることも知っていた。けれど、わざわざ家なんて建てようとしていることは知らなかった。

 二組の夫婦が同時に家を建てることを考え、その時にたまたま、近くの土地が並んで二つ空いていた。同じ高校に通い、交際を始め、そのまま結婚まで至った奇跡のような二組のカップルが、さらに低い確率の糸穴を通して、隣同士に自分たちの家を作った。

「樹は頭がいいから」

「勉強ができることは頭がいいとは言わない」

「じゃあ何ができればいいの?」

「えっと、そうだな」

 俺が答えられずにいるのを見てにやにやしている。

「私?」

「勉強やらなくても宿題の提出は忘れない人とか、頭いいと思う」

「頼りになる先生がいるからね」

 嫌味のつもりだったのに、紬の笑みはそれくらいではびくともしない。

 はい、とノートをこっちによこしてくる。全部終わっていた。一方の俺はまだ片付いていない。紬の悪質なのはこういうところだ。

「あ、待って」

 飲み物でも用意してくれるのかと思ったら、紬はリビングを出て二階に上がっていた。それと入れ替わりに、大河が戻ってきた。台所に入って、冷蔵庫を開ける。麦茶のボトルを手にとった。

「また姉ちゃんに勉強教えてるの」

「大河のも教えてやろうか?」

「俺は終わった。姉ちゃんと一緒にするな」

 大河は、テーブルに二つコップを置いて麦茶を注いだ。

「こっちも終わった」

「ゲームやろうゲーム」

「俺はまだ終わってない」

「いいように使われてばっかりじゃん」

「大河からもびしっと言ってやってくれよ」

「樹が言えばいいだろ」

 俺は自分のノートを閉じた。

「帰るわ」

「何しに行ったのかな」

 と、階段を駆け下りる足音に続いて、リビングの扉が開いた。片手に文庫本を持っている。

「はいこれ」

 受け取った文庫本には心当たりがない。

「なにこれ?」

「澪ちゃんに借りてたから、返しておいて欲しいんだけど」

 帰れということらしい。

「わかった」

「樹はかわいそう」

 大河は、俺を横目で眺めてから、また自分の部屋に戻っていった。

 友達担当、体育担当、学校生活担当、紬の周りにはいつも誰かがいる。そして俺は雑用担当だった。

 これ以上いいように使われるのはごめんだとは思っていた。好意につけこまれていろいろなものを差し出している間はなんとも思わないけれど、いざ目の前から紬がいなくなると、してやられたという感情が胸の中に渦巻く。

 紬に呼び出されなければ、宿題をやって、余った時間で部活の練習だってできただろう。そうすれば、ちょっとは加藤に追いつくことができたと思う。


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