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 先生だって人間なんだと思った。

 食べて、眠って、朝はいやいや起きて朝食を食べ、皿を洗った後はスーツに着替え、生徒のいない朝の通学路を一人歩いて校門をくぐる。俺たちと大して変わらない。

 黒いスーツの背中がマンションの階段を登っていく。上がった先には神谷先生の住んでいる家がある事実がなんとなくおかしい。

 神谷の後に続いて部屋に入る。一室だけの小さな部屋には、テーブルが一つだけ置かれていた。家具は棚が一つあるだけだ。今日引っ越してきたばかりかというくらい部屋は片付いていた。

「座って待ってて」

 神谷は、冷蔵庫からペットボトルを取り出してコップに注ぐと、俺の正面に座った。この部屋で生活する人間なんだという不思議な実感が、そのコップに並々を満ちていく感じがした。

「驚かせて悪かった」

「いえ」

 俺に口出しする権利はなにもない。紬と神谷が付き合っているからと言って、俺が何かできるなんてこはなかった。

「先生は本当に荒川と付き合っているんですか?」

 神谷は視線を落とした。

「俺が最初に手を出したわけじゃない」

「そうですか」

 だからなんなんだろう、と思った。先生が無理に押し切って、紬が嫌々それに付き合っているだけかもしれないという妄想を抱えたままでいれば、ないはずの幸福を予感しながら毎日を過ごすことができただろう。

「辻村はどうしたいんだ」

「僕が、ですか」

 そんな台詞を吐くなんて信じられなかった。辻村はどうしたいんだ、だって? 

「荒川と先生がいいと思っているなら、僕に何かを言う権利はありません。ただ、誰か他の大人には言うと思います」

 神谷はずっと黙っている。絶対に自分が正しいとわかっている会話は自分の嗜虐心をくすぐるもののはずなのに、俺はもう何もしたくない気分だった。惨めさに体が震える。目の前のコップを手にとって、中身を一気に飲み干した。

 法律や倫理なんてどうだってよかった。俺は、自分の利益のために正義を利用したいと思っている。

「それならそれでいい」

「どうしてそんな他人事でいられるんですか」

「成人男性なんてもう死んでるのと同じなんだだよ。こんな世の中がどうでも良くなってから、しかも学校の生徒から好かれるのか。全く意味がわからないんだよな。その幸運を、もっと人生の前半にシフトして欲しかったよ。神様の設計センスは信用しないほうがいい」

 神谷は立ち上がった。

「生物はその場その場の環境に適応するように、体を継ぎ接ぎしてできただけで、センスなんてかけらもないらしいですよ」

 加藤がそんなことを言っていた気がする。

 神谷は、クローゼットを開けながら笑った。

「お前を見てると。昔の自分を思い出すよ。おとなしいわりに生意気だった」

 ふわふわと中に浮かんでいるような気分だった。コップにかけた手にうまく力が入らない。まるで体が自分のものじゃないみたいだった。

 俺の方に向き直った神谷は、両手にロープを持っていた。簡単には切れそうのない、強く何かを締め付けるための太いロープだ。

「俺は、どうなったっていいと思ってるんだよな。『警官と賛美歌』って知ってるか?」

 俺は首を振ろうとした。けれど、まるで首から先にボウリングの玉をくっつけているみたいに、頭が思い。強烈な眠気だ、と気づいた。全身が心地よい麻痺していく。

 神谷は俺の前に膝をついた。ロープの硬い感触が俺の喉に押し当てられる。俺は首を振った。

「次の人生があったら読んでみるといい」


*


 小さな部屋の中にいた。正方形のその部屋は、すでに八割が水で満たされている。扉はどこにもない。小さな穴がひとつだけあって、水はそこから流れ出してくる。

 水は意思を持ったみたいに、俺の首を締め付け、口に入り込んでくる。俺は天井に逃れた。水から顔を出すと、今度は鼻から流れ込んできた水に激しくむせた。

 これは夢だとわかっていた。崖から落ちる直前、呼吸を失う前、苦痛を感じる前に俺は現実に立ち返ることができるとたかをくくっていた。

 部屋は水で満たされた。空気を求める体が、静かに悲鳴を上げ続けていた。夢から覚めるはずだった。けれど、虚構であるはずの苦痛はいつまでも消えない。

 俺は大きな間違いを犯していた。

 逃げる場所はどこにもなかった。扉は見つからない。目の前の壁を必死に叩いた。何度も、何度も。絶対に破れないことはわかっていた。けれど、体の奥底から湧き上がってくる恐怖と、気が狂いそうになる苦痛が、生命の最後の一滴を燃やして俺の体を動かそうとしていた。

 やがて、苦しさと衝動に体が追いつかなくなってきた。苦痛がちょっとずつ薄らいでいく。ふと訪れた幸福な瞬間は、眠りに落ちる前のほんの一瞬前のそれと似ていた。

 死に至るまでの道のりは、振り返ってみたら明確に見えた。まさか、その起点がほんの一週間前にあるなんてわかるわけがない。

 紬に執着したのは間違いだった。

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