1「英雄out」
『世界はNEO-Nの物になりました。』
いやに機械的な女の音声が世界に鳴り響いた日はいつだっただろうか。
少なくとも、俺が生まれるずっと昔だ。
世界が電力やら亜人やら未知の感染病やら……とにかく、よくわからないことでにぎわっていた時期に、いつの間にかその組織は出来上がりあっという間に世界を飲み込んでいった。
俺はそう聞いている。
それがいつなのかは俺にもわからない。ただ、誰もが口をそろえたこう答える。
気が付いたらいつの間にかそうなっていた、と。
ある日突然現れたそれは世界に高らかに宣言したのだ。
『人の輝かしい未来の為には、幸福でいることこそが人のあるべき姿なのです。幸福の為に皆で努力をしましょう』
それを疑問に思う声が無いわけではなかった。反発もあったし、内乱だって相応にあったのだろう。しかし、その疑問はNEO-Nの圧倒的技術力と軍事力の前に消えて行ってしまったらしい。
その最新技術様を拝むために、空を見上げる。
曇天の、一面灰色の雲の中で光り輝く小さな機械。待ちゆく人々を監視するように――いや、実際に監視しているのだろう。見上げた瞬間、こちらにライトを浴びせるドローンが空を飛び回る。
忌々しいそれに舌打ちをかまし、行きかう人々の間を歩いて抜ける。
しばらくほしい物のないウィンドウショッピングでも楽しめば、興味を失ったように機械は元の配置に戻っていった。
あれがNEO-Nの科学力の髄を集めた国民の監視装置。誰もが平和に、そして幸福に暮らせるよう、平等に犯罪の危険性がある誰かを監視する"監視ドローン"だ。
もちろん、俺たちを見張っているのはあれだけではない。待ちゆく人々の中にも、NEO-Nの犬。もしくは機械が混じっているかもしれない。
どうして、そう思うのかだって?
あいつら――NEO-Nはそう思わせるほどの集団ということだ。
お噂のNEO-N様は、その圧倒的な開発力もさることながら、いったいどこから手に入れたのかと聞きたくなる国内外問わず多くの企業をいくつも買収する資本力。どこの国のスパイを抱え込めば手に入るか分からない情報網をもった謎の企業だ。
どこの国にも属さず、どこの商業団体にもいなかった彼らはある日突然現れ、世界そのものをNEO-Nの物にしていった。
資金も無く、軍事力さえ実質お飾りになっていた祖国は、資本力も開発力も一強となっていた企業のNEO-Nによって、乗っ取られていくのに時間はかからなかった、というわけだ。
ドローンだけならいざ知らず、無人の店の中には監視カメラが。安らげる家の玄関口にも監視カメラ。果ては電子機器。果ては食費や仕事先に至るまで頬すべての物がNEO-Nのそれだ。やろうと思えば、あいつらは私生活のすべてを管理して、不穏分子を見つけることさえできる。
いついかなる時もNEO-Nに監視された社会。もしかしたら、この頭上に広がる曇天の空ですらそのうちNEO-Nの物になってしまうかもしれない。
この世界はいつからかそんな風になっていた。
もう空を見上げるのはごめんだ。空も見えない暗い路地の人気のないバーに身を滑り込ませていく。
路地に入ると電灯の明かりがショートして消えかけている看板があり、『NEO-N公認バーテンダー経営』と表示されていて、その横には壊れて同じことを繰り返す……確か、ヌードルだったかなにかの自販機があった。
味も酷いので、あれを買いに行くのはNEO-Nの兵士か壊れた機械くらいだろう。
何度も見たことがある光景に安心してひっそりと開いているバーの入り口に手をかけて中を覗き込むと、普通に生活をしていたのなら絶対に使わないであろう青や白色のライトがたかれた店内が現れる。
入って右側にはこの店がバーということを表しているバーカウンターが置かれ、青い光はその奥から光らせているようだった。
左側に視線を移すと、テーブル席が数席置かれている。この店に通うようになってずいぶんと経った気はするのだが、いまだにこちらのテーブル席に座った人間を見たことが無いのは、俺の気のせいだろうか。
まあ、他の客が居たところでカウンターに座る以外の選択肢はないのだが。
外の光景とは似ても似つかない光景が広がっていて、いつNEO-Nに冤罪をつけられて捕まるかもわからない世の中とは無縁と感じさせられる。
この光景を拝むたびに、ああ、またここに来ることが出来た、という不思議な安心感に包まれる。
そそくさと促されることも無くカウンター席に腰かけて、その向こうにいるはずの彼女に声をかけた。
「新しいネオ、と輝くって意味でどこかの間抜けが付けたNEO-N様が思い描いていた輝かしい未来はこんなだったんだかね」
「……お客さん。私が知ってるわけがないんですけど」
適当に腰かけた正面。バーカウンター越しのブルネットの髪が呆れたように揺れた。
視線を上げると、閑古鳥の鳴いている店内もあいまいって、カウンターに肘をついた女性のバーテンダー、――対応が悪いとこの辺では有名なバーテンダーのユリネが退屈そうにこちらを……否、俺越しに壁の汚れでも見ているのかもしれない。
ジトッとした緑色の瞳に、店内の薄暗闇の中で暗さを増すブルネットの髪をツインテールにして毛先を巻き、おそらく相当疲れているのだろう。
ただでさえジト目で三白眼なのに、いつもぼうっとしているせいで目尻のラインがメイクなのか隈なのか分からなくなっていた。くたびれたバーテンダーの制服の胸元を大きく開け、適当に相槌を打つさまはたしかに対応が良いとはお世辞にも言えない。
実際この対応を他の人間にもしているのなら対応が悪いと感じる間抜けはそれなりに居るだろうと感字はする対応だった。
俺は彼女の対応が嫌いではないのだが、まあ、万人受けはしないだろう。
そんな彼女の視線を追って振り返ってみるが、薄暗い店内は素材の分からない青い壁で囲まれていて、壁のところどころに張り出された充電の切れかけた情報誌をのせる電子板に、入口上では目に悪いピンク色に光る『英雄out』と書かれた店の名前のネオンがぶら下がっていた。
意味は、なんだったか。
たしか昔、この店の店長に聞いたのだが、このNEO-Nに支配された世界をどうにかしようと試みた集団が居て、彼らは民衆からひそかに英雄と呼ばれていた。そいつらが良く隠れ家にしてたバーがそのまま『hideout』って名前の店だったらしい。だが、そんなやつらをNEO-Nがいつまでも放っておくわけもなく、誰もが気が付いたときにはリーダーの首が民衆にさらされ、あっという間に収束してしまったらしい。
そう言う意味では、NEO-Nは迅速で、完璧な対応だった。
かくして世界はNEO-N様の物になったという。
だから、この店の名前は消えた英雄たちの隠れ家の名前を借りて、『英雄out』。店長曰く昔の言葉で英雄たちを皮肉ったらしいが、どこをどうなったらそうなったのかは知らない。
あの店長は何かとすごい人なのだが、たぶん、店の名前を付けるセンスはなかったのだろう。
俺は視線をユリネに戻した。
「なあ、ユリネ」
「……」
「ユリネ? 聞こえてるんだろう?」
「…………」
「はあ……相変わらずこっちの名前じゃ無視かい。いつになったら名前を呼んでも許してくれるほど仲良くしてくれるんだろうね、ここのバーテンさんは」
「こっちは仕事なんですが。……ああ、あたしの代わりにバーテンの仕事でも受けてくれます? 人手が足りてればあたしももうちょっと対応してあげてもいいですよ」
「遠慮しとくよ。NEO-Nの考えた試験なんて頭の悪い俺にはお手上げだ」
「それじゃあ無理ですね。ちゃんとお客さんとして接してもらわないと困ります」
「じゃあ、妥協点だ。店員側としてでもいい。目つきの鋭いバーテンさんはいつ俺に愛想よくしてくれる?」
「お客様が変な誘い文句をしなきゃ考えたかもですね。注文は?」
「君のおすすめで」
「エンジェルショットでいいならすぐにでも」
「これはこれは。わざわざ美人がエスコートをしてくださるなんて至極光栄だね」
「最悪。皮肉が伝わらない客って面倒だって言われないですか?」
「その方がNEO-N様も掲げる幸福に一番近いんでね」
「皮肉屋ばっかり」
「お互い様だろう。本当におすすめはないのか?」
「じゃあビールで。好きでしょ?」
どこか得意げに、彼女はそう言った。