7、無垢の審判
振り返れば、アリスはこちらを追いもせず、また逃げる様子もなく、同じ場所に、同じ姿勢で立っていた。
だがそれまでの愛想のよさは消え、ヴィクターを見る目はガラスのように空虚だ。見られた方が不機嫌さを隠さず眉をひそめると、唇の両端がすぅっと吊り上がる。
「手袋だって結局、バーリス先生によって外された。シャーロットが気が付かなければ、は無駄な想像でしかない。実際に彼女は花に触れ、倒れたんだから。それだけで、わたし充分だわ」
アリス・ポールマンは満足げだった。
ヴィクターは奇妙に思った。自分の犯罪を隠そうとし、それを見破られた人間の反応として、アリスの様子は違和感を感じさせるものだった。
充分。確かにシャーロットは倒れた。が、結局命に別状はない。アリスの計画はとん挫した。
それなのに。
「危うい計画。それでよかったの。朝に弱くて、そそっかしいシャーロット。婚約者と自分、それぞれ贈られたカードの内容が違うことも確認しない。――伯爵。集合時間が一時間早く書かれたカードを受け取ったのは、あなただけなんですよ」
「……」
アリスの瞳に、哀れみに近い笑みが浮かぶ。
嘲りに限りなく近いそれを受けて、ヴィクターの下瞼がぴくりと震えた。
「予定より早く迎えに来た婚約者に急かされ、慌てて支度するはめになったあの子はお腹がすいていて、目の前のお菓子から目が離せない。『エッグタルトは数が決まっているからばれやすそう、小さなチョコレートを一つだけにしよう』。わかりやすいところもお菓子につられやすいところも、あの頃からなんにも変わってませんでしたね。……変わったのは、結婚観だけだったみたいね」
その一言を境に、アリスの目に憎しみが宿った。
「『結婚相手は身分にこだわらない。でも素敵な恋をして結婚したい。両親みたいに』。ばかみたいでしょ。お金はあってもプライドはない実家で散々甘やかされて、なんの責任も負わない三女だからできる、子どもの発想よ」
アリスの目はヴィクターに向いている。
だが、その視線はヴィクターを見てはいない。
その恨みは、ここにいない誰かの裏切りに狙いを定めていた。
――ヴィクターは気づいた。
この目を知っている。
「……子どものままで良かったの。それが許されるのが、シャーロットだから」
焼却炉の、金属の蓋を叩く音が響く。
噛みしめられた唇から、呻くような声が漏れた。
「それがどうして、急に醜聞に塗れたうわさと共に、あなたと婚約なんて? 少しでもいい身分の家に嫁ぐことに、一体なんの魅力を感じたの? あの子が、あのシャーロットが、わたしの、わたしのシャーロットは、どこにいってしまったというの?」
――過去に囚われた目。
信じていたものに裏切られたと思って、そのことを直視することもできない目。
ヴィクターはそれを知っている。誰にも言えずに抱え込んで、そしてじわじわと内側から自分をむしばんでいくものを。
ヴィクターは、それを職務で埋めて隠して、誤魔化そうとした。
この、目の前にいる女は、それを試そうとした。
試して、そして、――審判を下そうとしたのだ。
アリスは自分の両手で顔を覆った。慟哭のような叫びが花を揺らす。
「……確かめないといけなかった。今シャーロット・フェルマーを名乗る女が、あの学院にいたあの子と本当に同じなのか。私の知るあの子は、どこにいるのかを。――計画はずさんでいい。細い、頼りない道でいい。成功は、すべてうまく嵌ったときだけでいい。この計画で死ななかった女なんて、こっちだってもういらない。わたしが置いて歩いた小さなパンをひとつ残らず拾ってお菓子の家にたどり着いてくれるなら、そうしたら、」
段々と熱を帯びていった声が、そこで途切れる。アリスの視線は自身の両手へと向かう。
「……そうやって死んだときだけ、まだ無垢なシャーロットが実在していたことの証明になるんだから」
最後は、嚙みしめるような、小さな声だった。
こちらに向かってくる足音にもかき消されそうなほど。
アリスは一度、両目を手で覆った。泣いているようにも見えたがすぐに離し、またもとのような美しい笑みをヴィクターに見せた。
「ご結婚おめでとうございます、伯爵。シャーロット嬢はこの先、少し人間不信になるかもしれないけど、どうぞ末永くお幸せに。……もっとも、昔から憎らしいくらい可愛いお顔の持ち主だったから、そこが無事なら卿はご満足かしら?」
出会ったときと変わらない朗らかな笑みと声に、勝利への優越感と、まぎれもない悪意を乗せ、アリスは立ち止まったままのヴィクターの横をすり抜けて、足音の方に向かおうとした。
「彼女の指輪を見ましたか」
その声に、歩みを止められるまでは。
「……ええ。これ見よがしに、つけさせていたでしょう。見事なブルーダイヤでしたね。アーサーにはとてもまねできな」
「あれしかご存じないのですか」
「……あれしか?」
「白い、冷たい、雪のような指輪。彼女の涙を受け止めて、それでも輝いていた、もう一つの指輪の話を、聞いたことは?」
沈黙の中で、ヴィクターがゆっくり振り返った。
その視線の先で、アリスは彫像のように固まってヴィクターを見ていた。
「ご存じなかったなら申し訳ない。まるで彼女のことを何でも知っているかのように話すから、つい。ああお気になさらず、もうあなたには、何の関係もなくなりました。これ以上シャーロットにかかわることのない、あなたには」
ヴィクターは微笑んだ。
ほんの一瞬だけ見せた哀れみと、明確な嫌悪を、他人行儀の仮面にこれ見よがしに覆い隠して。
「よい結婚祝いでした。彼女の前から消えるにあたって、自ら思い出を汚していってくれるライバルほど助かるものもありませんから」
足音が聞こえる。
中庭を横切る警察の、バラがちぎられた枝を調べろ、という声が聞こえてくる。
凍り付いていたアリスは、ようやく今目の前にいる男に猛烈な憎しみと殺意を燃え上がらせたのだった。
***
夏を前に、バラの花が完全に散るころだった。
アーサー・ラグフィールドが、イヴリン男爵邸の居間で項垂れていたのは。
「……アリスは、世の中に失望しきっていました」
ソファに浅く腰かけたアーサーは暗い面持ちで話し始めた。
「出会ったのは、彼女が寄宿学校に入る前でした。互いの父親は婚約を意識して引き合わせたと思いますが、彼女は私に何の関心も示さなかった。……寄宿学校時代、私の話が出ることはなかったでしょう? 最初から、微塵も期待されていなかったんです。初めて会ったときからずっと」
運ばれてきたときから一度も口をつけられていない紅茶を見つめ、男は力なく組んだ手を見つめている。
同じ部屋にいる誰にも、合わせる顔がないというように。
それは同じ事件の被害者同士とは誰が見ても思えないありさまだった。
「変わったと思ったのは、学校を卒業した後のアリスを見てからです。彼女は救われていたんだと思います。私には何が彼女を変えたのかわからなかった。クローディアと同じ髪飾りを大事そうに持っていたから、あの二人が仲を深めたのかと思い、クローディアから話を聞こうとしたこともありましたが」
事件後、クローディアが語ったことは、入学前から何かと頭が上がらなかったアリスの指示で、成り上がりの男爵令嬢を無視していたということだった。
級長しか頼れなかったシャーロットを世話するふりをして、アリスはしばらくその惨めさを影で笑って憂さ晴らしにしていたという。
『ある日、それが急に“もういいわ”と言われたの。ひとりで世話をするのも面倒くさくなったから、同室のよしみで見てやれって言われて……』
それが、アリスの中でシャーロットの存在意義が変わった頃合いだったのだろう。
結果的に、二人きりで過ごす時間が多くなったことが、いじめをやめさせ、そしてアリスの歪んだ執着を生む原因となった。
そう語る男の声と眼差しには、後悔が滲み出ている。
意味もなく組み替えた手に、わずかに力が入った。緊張を表しているようだった。
「外の情報なんてろくに入ってこない、隔絶された空間で、アリスは、シャーロット嬢を自分の聖域に仕立て上げたんだと思います。卒業後、自分のあずかり知らぬ人間関係を築くのが我慢ならないほど、潔癖な聖域に」
一拍の静寂の後、居間にため息の音が漏れ落ちる。
「……なるほど。ロヴェンス子爵家のご令嬢の異常なふるまいについて、あなたがずいぶん同情的だということはよくわかりました」
客人の向かいに座って話を聞いていた屋敷の主の声は冷たかった。
「それで、貴殿は一体何をしに、はるばる我が家までいらしたのでしょう。かの家からの謝罪は一切受けないと、噂は回っていないのですかな」
男爵の痛烈な皮肉に、アーサーが表情をゆがめる。
「こんな話が、なんの釈明にもならないとはわかっています。……けれど、どうか、手助けをしてくれませんか。私を含め、被害者側からの嘆願は陪審員にも強く働く。そうしたら、彼女はきっと精神病院に送られるでしょう。そこにいるときも、そこをもし出られたとしても、私が一生監視します。絶対、ご令嬢には近づかせないと誓うから、どうか」
ソファに座ったときからずっと床を見つめていた男は、そこでさらに頭を下げた。
子爵家からの遣いをことごとく追い返した男爵は顔に怒りを浮かべたままで、向かいのソファにいるアーサーに対し今にも退出を促そうとした。隣に座って沈黙を守っていたグレイスも同様だった。
「待って」
それを制する声は、窓際に置いた肘掛椅子から聞こえてきた。
「……シャーロット嬢」
黙って聞いていたシャーロットへ、アーサーが恐る恐ると言った様子で顔を向ける。
「アーサー様。我が家から協力はできません。許すとも、わたしからは言いません」
でも、と、絶望に染まった顔のアーサーへ、シャーロットは窓を見たまま続ける。
「……ロズバーン弁護士事務所へ、ご相談に向かってみてはどうでしょうか。雇い主はとても口が悪い男ですからお忙しいかもしれませんけれど、あなたのお茶の相手くらいならするかもしれませんから」
――客人は、声を震わせて礼を言う。
その様子を、絵の中の少女が、くもりのない笑みで見下ろしているのだった。




