3,人違い
手首までの手袋をはめなおしながら、シャーロットは庭の奥から元のバラ区画の手前まで戻ってきた。
そのときだった。どこからか、「シャーロット」と聞きなじみのある声で呼ばれ、足を止めたのは。
「クローディア!」
植え込みの向こうに波打つ亜麻色の髪をハーフアップにした友人を見つけて、シャーロットは口元をほころばせて駆け寄った。
クローディアは寄宿学校時代のルームメイトだった。
父親は男爵だが、イヴリン男爵よりよほど旧家であり、入学当初こそシャーロットとは反りが合わなかった。だがそれも最初のうちだけで、一ヶ月も経つ頃にはアリスも交えて三人で過ごすことが多くなっていた。
「久しぶりね! 元気にしてた?」
「ええ。婚約おめでとうシャーロット。それにしても、ずいぶん早くから来てたそうね?」
「時間、アリスに間違えて教えられたのよ」
そう言うと、クローディアは驚いたように目を見開いた。それから「そう」と、何かに逡巡するように視線をさまよわせて、やがてシャーロットの青い目にじっと焦点を合わせた。
「ねぇ、このまま少し、話したいのだけどいいかしら。あなたに伝えたいことがあって」
シャーロットはピンときた。
(アリスの婚約者のことね)
手紙の文面を思い出しながら頷くと、隣を歩くクローディアは前を向き、かたい面持ちで口を開いた。――が。
「やあ、クローディア!」
邪魔したのは、弾むような男性の声だった。同時に、背後から伸びてきた二本の腕が、シャーロットをそのままぎゅうっと抱きしめた。
「来てるって聞いたから探していたよ蝶々ちゃん! で、こちらは?……あれ、こっちもクローディアだ」
男性が、ぽかんと気の抜けた声で、本物のクローディアが驚き固まっているのに気が付いた時。
「――きゃぁぁあああーーーーーーーー!!」
絶叫と同時に、シャーロットの肘が男性のみぞおちに入った。
「いっ……!」と立ち消える悲鳴が続き、巻き付いていた腕が解かれる。さらにシャーロットは腹を押さえてうずくまっているその男を突き飛ばした。
「ご、ごめ、待って」
「クローディア逃げてっ、いいえ応援呼んできて! っこの、痴漢野郎を、わたしが引き留めてる間に!」
勢いで芝生に転がった男の上に、シャーロットは無我夢中で馬乗りになった。抗議しようとした男の顔を渾身の力ではたいたそのとき、クローディアも負けず劣らずの慌てようで叫んだ。
「やめてぇ! その人、アリスの婚約者のアーサー・ラグフィールド卿よ!」
シャーロットはその言葉に目を丸くした。
だがもう、二発目に向けた右手は相手の頬に向けて振り下ろされている。
相手が引きつった顔で目を閉じる。しまった、と思ったそのとき。
勢い任せの手のひらは、相手にぶつかる直前、背後から掴まれ止められた。
「……本当に油断も隙も無い」
呆れかえった声が降ってきた、と思うと、ぐんと強い力でシャーロットは後ろから抱きかかえられ、男の上から芝生の上へ、ぽすんと安置された。
文字通りシャーロットを回収したヴィクターは仏頂面で彼女を見下ろしていた。
「……あ、ありがと、助かったわ」
「若干手遅れでしたけどね。どういたしまして。……大丈夫ですかアーサー殿」
ヴィクターは気遣うような声を出し、いまだ芝生の上で仰向けになっていた男に手を差し伸べた。
アーサー・ラグフィールドは混乱しているようだったが、よく見れば目元も涼やかで整った顔立ちをしていた。しかし顔は青ざめ、シャーロットを見る表情は引きつり、ぶたれた頬はやや赤くなってはいる。
はたから見ると、誰かに乱暴されかけた貴公子というていであった。
心配して男を見下ろしていたシャーロットはそのことに気づき、さっと青ざめた。
「待ってヴィクター、誤解しないで! こ、この人が先に仕掛けてきたのよ!」
「はいはい」
シャーロットがそれまでとは別の理由で慌てふためく傍ら、アーサーがのっそりと体を起こした。「ああ……まぁ、なんとか」と、空いている手をヴィクターに伸ばす。
――が、むき出しのその手がヴィクターの手袋越しに握られた直後、みしっと不可解な音がした。アーサーの表情がまたこわばる。
「いだっ……!」
「ああ、失礼。……婚約者の悲鳴で、こちらもまだだいぶ混乱しているようです」
しれっと謝罪しながら手を離さないヴィクターには、自分の婚約者が突然男を押し倒した原因が、バラの木の隙間からしっかり見えていたらしい。
違う、すまない、そんなつもりじゃなくて、と宣いながら悶絶するアーサーを前に、焦るクローディアがまた口を開きかけたが。
「ちょっと、何してるのあなたたち! 応接間にいないと思ったら」
屋敷の方から走ってきたアリスの上ずった声に、ヴィクターが男を解放した。「ちょっと間違えただけなのに……」と泣きべそをかきそうな男に、アリスが大股で近づく。
「アーサー、大事な日なんだから、変な騒ぎ起こさないで」
「誤解だ……きっかけはともかく、七割くらいは僕が被害者だった……」
手を押さえて涙声でぼやく男から、アリスはすぐに視線を移した。
「クローディアもなんでここにいるの。応接間に案内されたでしょ?」
「っ、ご、ごめんなさいアリス。シャーロットがこっちに行ったって聞いたから、つい」
クローディアが口元に指を這わせて小さく謝る。それを見て、シャーロットも『変な騒ぎ』の片棒を担いだ自覚はあったから一緒に謝ろうとしたが、アリスの目はシャーロットではなくヴィクターへと向かった。
「伯爵も、あまり自由に動かれては困ります。父との話、ずいぶん早くに終わっていたんですね……アーサー、手袋どうしたのよ」
ヴィクターから逃げるように場を離れようとしていた男の手が剥き出しなのを、アリスが刺々しく見とがめる。まったく心配されていないアーサーは「別に……」と視線を泳がせた。
「さっき脱いだ。チョコ摘まむのに汚れたら困るから」
「はぁ? まだ始まってないのに、勝手に食べたの?」
呆れた声を出すアリスから隠れるように、シャーロットはヴィクターの背後でさりげなく、丁寧に、指で口元を拭った。手袋は既にはめ直してある。心底安堵した。
「お客様がいるのに、意地汚い真似しないで。……もう準備できるわ。他の招待客も集まり始めたから、みんな応接間に向かってくれる?」
そう言って主催者が客人たちを急かして、バラ園を後にする。
歩きながら、シャーロットの心は完全に萎え、代わりにモヤモヤとした不信感を漂わせていた。視線が
アーサー・ラグフィールドに向く。
黒い髪を揺らして、シャーロットの肘鉄を受けた脇腹よりもヴィクターに握りしめられた手を気にしている男。伯爵家の次男で、子爵家を継ぐアリスに婿入りが決まっている貴公子。
(……このひと、さっき私のことクローディアって呼んでたわよね?)
クローディアからの手紙には、“軽薄な遊び人”と書かれていた。シャーロットも気を付けて、とも。
その手紙を書いた本人が、婚約者よりも気遣わしげな視線を男へ送っている。
シャーロットの目元は自然と険しくなった。
(まさか、その遊び相手が、忠告してきた本人ってこと?)
横目で見ていると、まるで視線に気づいたかのようにクローディアがこちらを見た。
「……あの、シャーロット」
向けられた小さな呼びかけを、とっさにシャーロットは聞こえなかったふりをした。足を速め、ヴィクターの腕を取る。
――まさか。友達の婚約者に手を出して、さらに他人事のような文面で警告をしてくるような子ではない。
いや、わからない。
もしかしたら、あれは警告ではなく牽制だったのかもしれない。
(最初こそとっつきにくかったけど、いい子だと思ってたのに……いえ、まだ決まってはいないけど……)
さっきの“話”は一体何を言うつもりだったのだろう。まさか、浮気に協力しろとでも?
シャーロットは困惑していた。口元を引き結び、足元を睨みつけながら歩いた。
一方、女たちの一連の動きを見ていたヴィクターが、くっついてきた婚約者の思い詰めた顔に、密やかに囁きかける。
「シャーロット」
「……何よ」
「本当に痴漢を前にしたら、逃げてください。戦って勝とうとしないで」
「わかってるわよ」
本当に?という視線で見下ろされて、頬を膨らませる。
「でも、さっきは無我夢中で」
「目撃者が自分の婚約者と友人だったことに感謝してください。肘打ちまではともかく、馬乗りでビンタ二回はやりすぎ、と言われたら、うちの弁護士だってなかなか反論できませんでしたよ」
冷たい言い草にかちんときて、シャーロットはヴィクターの腕から自分のそれを離そうとした。
が、それを阻むように手を上から抑え込まれる。
「万が一、向こうが反撃してきていたらと思うと、俺だって血の気が引く」
シャーロットは少し目を見開き、それからしゅんと眉を下げた。
しかし少しだけ膨らませた頬はそのままだ。代わりに、離れようとしていた腕に、またくっつきなおす。
ぽんぽんと、さっきアーサーの右手を握りつぶそうとした手がシャーロットの指先をなだめるように優しく叩く。
「反省してるもん」
「ならよろしい」
「……そっちだって、わたしに怪我させないって言ったからには、ちゃんと守ってよね」
「……それはおおいに反省しています」
上下に動いていた手が、きゅっとシャーロットの指先を包み込んだ。
鳶色の目がやや翳っているのを上目遣いに確認する。それでシャーロットも留飲を下げ、その証に青い目を細めてにこっと微笑んだ。
「ならよろしい」
偉ぶって言うと、ヴィクターも表情を和らげる。端正顔が、シャーロットのそれへと近づいてくる。どきっと胸を高鳴らせたシャーロットが、友人たちの視線を気にして周囲を慌てて見回したとき。
「――手袋の端のココア、落ちてませんよ」
シャーロットは勝ち誇った顔の婚約者から両腕を取り返し、顔を真っ赤にしてショートグローブのふちを叩いた。




