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【電子書籍化】この恋は秘密と醜聞で溢れている  作者: あだち
番外編 無垢の審判

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72/79

1、外出の準備

電子書籍配信開始、ありがとうございます。


 春らしい、日曜日の朝。

 応接間に通されたヴィクターは、白い壁に飾られた少女の肖像画を見つめていた。


「シャーロットです。十四歳の頃、寄宿学校の制服が出来上がった記念に」


 背後から聞こえた解説に、ヴィクターは「そうでしたか」と殊勝に頷く。


 絵の中の少女は、波打つ金髪をすっきりとまとめ、青空のような瞳と木苺のような唇を惜しげもなく見せて、こちらに笑いかけている。

 白いブラウスに重ねたグレーのジャンパースカートに、襟もとを飾る細いリボンタイは、彼女の好みからするといささか地味だ。だが、あどけない表情や今より丸みを帯びた輪郭に、その素朴さがかえってよく似合っていた。


「とても可愛らしいですね」

「ありがとうございます。お客様にお見せするような絵ではありませんが、親バカな父がたいそう気に入っているもので。……いえ、姉バカと笑うかもしれませんが、私も最近とみにこの絵が心に響きますの」


 なにせ、とグレイス・フェルマー――イヴリン男爵家の総領娘が、切れ長な目の奥に剣呑な光を宿しながら、口元だけの笑みを深くする。


「まだ、あくどい遊び人の手に落ちる前の、無垢で、穢れを知らない、けして取り戻せない尊い妹の笑顔ですもの……」


 冬から敵対的な姿勢を崩さない未来の義姉に、ヴィクターは笑顔を貼り付けたまま「誤解ですよ」といつもの通り否定し、視線を絵に戻した。


 この制服を誂えて過ごした、ニ年間の寄宿学校生活。成り上がり貴族ゆえに気苦労もあったとは本人談だが、そう悪くもなかったのだろうと推測する。


 でなければ、当時の学友がわざわざ彼女のための婚約パーティーを主催するなんてことが、起ころうはずもない。

 自分と出会う前の恋人の姿を想像しながら、ヴィクターは視線を油絵から柱時計へと移した。


(……遅いな)


 婚約者もぜひ一緒に、と先方から送られてきた招待状に従い、ヴィクターは朝からこの男爵邸にシャーロットを迎えに来ていた。

 しかし、応接間に通されてから早三十分、未来の妻は一向に現れない。おかげで、偶然実家に戻っていたらしい長姉に捕まり、ネチネチ嫌味を言われている。


 ただ、二階からは慌ただしい足音と「ねぇぇっ!修理から戻ってきた蝶の髪飾りどこぉー!?」などといった切羽詰まった声だけは、さっきからひっきりなしに聞こえてきていた。

 

「……シャーロットはまだかかりそうですね」

「すみません、寝坊したみたいです。早寝早起きは得意だったのに、誰かがあの子に夜遊びを教え込んだのかしら?」


 わざとらしいため息。落ち着きがないのは元からだろうと内心で毒づいた、そのとき。


 ――階上から、ガシャンと陶器が割れる音が響いた。

 ヴィクターは瞬時に目元を険しくした。同じように顔をこわばらせたグレイスの横を通って廊下へと向かいかける。

 が。


「わーーーん! 誰かほうき持ってきてぇーーーっ!!」


 間の抜けた泣き声に、男は固まり、グレイスは遠くを見た。


「…………失礼いたします、伯爵。どうぞごゆっくり」


 優雅な礼をして、美女はきびきびと応接間を出ていく。

 それから間もなく、階上から「何やってるのシャーロット!!」という小姑の怒声が降ってくるのを、男は呆れかえって聞いていた。



 ***



「紅茶を諦めれば良かったんですよ」


 馬車の中、隣に腰掛ける男にそっけなく言われ、シャーロットは手袋をつけていない左手の甲をさすりながらむくれた。


「わかってるわよ! そんなこと、言われなくても」


 確かに、出かける時間を勘違いして、迎えが到着したというメイドの声がかかるまで寝こけていた自分が悪い。

 そのあと大急ぎで支度して、せめて一口と紅茶を飲もうとしたカップを手からすべらせ、咄嗟にキャッチしようとして素手で中身を浴びたのも、自分以外誰のせいでもない。淹れたてでなかったのは不幸中の幸いだった。


 でも。


「……でも、火傷しかけた婚約者にかける言葉がそれってどうなの?」


 すねた口ぶりでそう言えば、ヴィクターも黒に近い鳶色の目を細め、しばし無言でこちらを見つめた。


「手をこちらに」


 そう言われて、手を差し出される。シャーロットは大人しくむき出しの左手をそこに預けた。

 何をする気だろうと見つめていると、わずかに赤みの残る手の甲が、男の口元に持っていかれる。


「えっ」

「痛かったか」


 赤くなった箇所を避けて、薄い唇がやわな皮膚の上で動く。

 囁くような声。痛ましげに寄せられた眉。いつもの意地悪で尊大な男の変貌に、シャーロットは硬直し、それから慌てふためいた。


「きゅ、急になに……」

「カップの割れた音がしたとき、背筋が冷えた」


 動転したシャーロットは相手に預けた左手を引き抜こうとした。それを、強く掴みなおされる。


「大事にならなくて良かった」


 いつの間にか、ヴィクターの逆の手はシャーロットの後ろ頭をおさえていた。

 逃げ場を塞がれたと気がついた一瞬後、額に熱を感じる。口付けられたと理解すれば、顔は手の甲よりもよほど赤く、熱くなった。


 もともと肌が白いから赤みが目立つだけで、正直なところ、そこまで心配してもらうほどの火傷ではない。至近距離から注がれる眼差しに炙られながら、なんとかそう伝えようと口を開きかけたとき。


「でも紅茶は諦めるべきでしたよ、寝坊したとわかった時点でね」


 上がる口の端、すがめられる目、乾いた声。それまで宝物のように扱われていたのに、急にポイっと投げ出された左手。

 シャーロットは自由になった片手を揺らして唖然とし、――からかわれたと思い至ると、今度は怒りに頬を赤らめた。


「ヴィクター!」

「走行中に暴れないでください。()()怪我でもしたら、御者が叱られるんですから」

「私の心配をしなさいよ!!」


 狭い場所で腰を浮かせかけたシャーロットの肩を抑えつつ、ヴィクターは切れ長の目を細めかすかに笑った。


「万一って言ったでしょう。俺の目の前であなたが怪我なんて、するほうが難しい」


 ――なんという自信。


 毒気を抜かれたシャーロットは、尖らせた唇から「あっ、そ……」と言葉少なに返して、赤いままの頬を隠すように俯いた。目を逸らした隣から、元凶の涼しげな声が届く。


「今日訪問するお宅は、ロヴェンス子爵邸でしたね。バラが有名な」


 男の口から出てきた爵位名に、シャーロットはぱっと顔をほころばせた。


「そう! そこのお嬢さんが、寄宿学校時代の親友だったアリス・ポールマンっていう子! ほかの友達も呼んで、私の婚約を祝ってくれるって……言って、たんだけど……」


 口の動きが、徐々に重くなる。青い目に浮かんだ憂いを、ヴィクターはいぶかしげに見つめてきた。


「……嬉しいけど、よく考えてみたら複雑なのよね。アリスも、半年前に婚約を結んだ相手がいるんだけど、その人とあんまりうまくいってないらしいって、ついこの間クローディアが手紙で教えてくれたの。なんでも、明るくて優しい人なんだけど、軽いというか、婚約後も浮ついた話が途切れない人らしくて」

「へぇ」


 クローディアの説明を失念しても、ヴィクターはその名がシャーロットの旧友の一人だと見当をつけてくれたようだった。

 シャーロットは十六になる年の春に学校を卒業した後、ひょんなことから知り合った大貴族の嫡子・フェリックス・ロザード――“前恋人”のことで頭がいっぱいだった。親友と会うことはあっても、ひそやかに交わされる社交界の噂にはとんと疎かった。


「前に会ったときも、婚約者さんのことで悩んでたのかしら。私ぜんぜん気づかなかったわ」

「でしょうね」

「……なんで急に同意するの?」


 含みを感じて睨みつけると。


「俺はあなたの意見には大抵同意してるじゃないですか」


 白々しく答えられ、シャーロットは新品のパンプスの先でコツッと相手のつま先を蹴った。ヴィクターは表情を変えず、足を組み直す。


「あと憂鬱なことといえば、……そう、バーリス先生も呼ぶって、招待状に書いてあったわ! 行儀作法の先生!」 


 狭い空間で突然響き渡った大声に、ヴィクターがうんざりしたように馬車の天井を見上げる。シャーロットは「あ、ごめんなさいね」と恥じたように口元を手袋越しの右手で抑えた。

 それでも、黙るという選択肢はない。薄桃色に色づいた唇から、やや絞ったボリュームで言葉が続く。


「でもね、こんなふうに言ったら失礼だけど、正直お祝いの席で見たい方じゃないわ。ヴィクター知ってる? バーリス先生のこと、アデル様から話聞いたことある?」

「いいえ」


『んなわけあるか』という相手の辟易した視線に頓着せず、シャーロットは脳裏によみがえる記憶に頭を抱えた。


「すっごい厳しかったの! お花の生け方とかおもてなしの采配とか教えてくれる人だったんだけど、もー目の付け所がすっっっごく細かい上に言い方キッツくて! こう、教鞭でね、生徒の机の端をピシピシやって……、あ~あの嫌味な声で何度“フェルマーさん、ここは貴婦人を育てる場所です、野人は森へお帰り”ってチクチク言われたことか!」

「でしょうね」

「……」


 シャーロットは息をゆっくり吐いて気を取り直した。


「……まぁでも、今日招かれて来る友達は、私の家のことも差別しないでくれたいい子たちよ。久しぶりに会うから、ヴィクターもご挨拶お願いね」


 ヴィクターは冗談ぽく「先生に叩かれないよう気をつけます」と微笑み、それから続けて言った。


「いい友人を持ちましたね、シャーロット」


 そこに含むものはない。シャーロットも素直な気持ちで「ええ」と頷く。

 なんだかんだ言っても、大事な友人たちにこの人を紹介できると思うと心は浮き立つ。口元の笑みをそのままに窓の外へ視線をやれば、子爵邸はもうすぐそこだった。


 舞い込む花の香りに心を躍らせて、シャーロットは左手にゆっくりと手袋を嵌めた。

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