第六十七話 きっと(1)
母との思い出を捨てようとしない父に、呆れると同時に、シャーロットは少し、嬉しくなった。
いつか、自分も、こんな風に、たったひとりを愛し、愛される恋ができたなら。離別の悲しみも、それで乗り越えることができたなら。
それはとても幸福で、尊いことのように思えた。
――真実の愛って、きっと、そういうものだ。
***
その声に、シャーロットの中で嬉しさよりもいたたまれなさが勝った。
相手の視界から、逃げ出したくなる。けれど、本当に逃げたらあまりにもみっともない。
「……あら、冗談なんかじゃありませんわ、伯爵」
シャーロットは素早く手を伸ばした。張りぼての鎧でも、無いよりましに思えた。
「なにせわたしたち、とっても仲良くなりましたし」
離れていったダミアンの腕を、全力で掴んで引き寄せる。腕を絡めて背後を振り返れば、予想通り、紅茶色の髪の男がグラスを片手に立っていた。にこやかに笑うシャーロットを見たその鳶色の目が、みるみるうちに丸くなる。
――驚きに目をみはるその顔すらも、この宴会場の誰よりも、シャーロットには凛々しく、美しく見えて、心苦しかった。
「……それはそれは、初耳ですね」
短い沈黙の後にそう言ったヴィクターの目と口も、シャーロット同様ゆっくりと弧を描く。その動きに合わせるように、シャーロットがしがみつく腕が固くこわばっていった。
「しかし、ダミアン殿の方は具合が優れないようです。その腕、解放して差し上げては?」
「伯爵が睨むからびっくりしてるんですわ、彼は繊細ですので」
「腕に猛獣が巻き付いているから恐れ慄いているのでは? 顔が青いのは、血の巡りが悪くなっているせいでしょう」
「だとしても、震えが止まらないのは目の前に悪魔がいるせいですわ。ご挨拶もすみましたわね、ではわたしたちはこれで」
最後に笑みを一層深く刻み付けて、シャーロットは再びヴィクターに背を見せた。違う、誤解だ、とうわ言のように呟く男を引きずって、その場を立ち去ろうとする。一刻もはやくと、息切れした心が急かす。
それなのに、シャーロットは足を止めた。止めざるを得なかった。
「っな、なにするのよ!」
シャーロットは反射的に振り返った。青い袖の上から二の腕を掴み、後ろへ引いた男へ、思わず抗議の声が出た。
見上げた先で、ヴィクターは先程から一転、今は並々ならぬ怒りをその顔に浮かべていた。次いで何か言いたげに口を開いたが、声に出す直前で思い止まったようにぐっと堪える表情に変わり、結局いつものすました表情になった。
「……見たところ、男爵はそばにいらっしゃらない模様。彼の代わりにあなたの蛮行を止めるのは、暫定でまだ俺の役目かと?」
「ばっ!? そ、それは言い過ぎでしょっ!」
「ほら、獲物が逃げましたよ」
言われてはたと気がつくと、ダミアンはその場から消えていた。シャーロットの意識がヴィクターに集中した一瞬の間に、腕を振り払って客人の波間に隠れたらしい。
(こ、こんなに分かりやすく男から逃げようとしてる女を前に、守る気ゼロとか、ほんと血筋以外取り柄ないわねあの男……!)
新たな怒りと憎たらしさに震えるシャーロットだったが、その目の前に差し出される手があった。
「……あなたに無くても、俺にはあるんですよ。あなたと、話したいことが」
「っ、……」
こっちには無いってわかってるのにか。
そう突っぱねることは簡単だった。
それなのに、結局人気の無いところへと共に移動しているのは、“二人で話せる最後の機会かもしれない”と思ってしまったせいだった。
――しかし、誘なわれてたどり着いた場所に、シャーロットは口角を下げた。
「……なんでここ?」
ひんやりとした暗い室内で、暖炉に火をくべるヴィクターの背中へぼそりと投げ掛ける。忘れようもない、二人は前回の宴でヴィクターが使っていた客間に来ていた。
「不満なら、庭に出ますか。きっと誰もいませんよ」
「……」
雪こそ降っていなくとも、春にはまだ早く、夜は凍える寒さである。シャーロットは黙って部屋の奥に進み、窓辺でカーテンの端を弄くってみた。
野次馬の目がなくなっても、シャーロットの気分は落ち着かなかった。一つには、明らかに使う予定の無さそうな部屋へ入るのに、ヴィクターが家主の了解を取っていないことが容易に想像できるからだ。
そして何より、これから切り出されるであろう話が、シャーロットにとって憂鬱なものでしかないとわかっているからだった。
「……いくら人に聞かれないためとはいえ、こんな場所で二人きりって、万が一でも誰かに見られたら困るんだけど」
「伯爵夫妻も使用人も、客のいる宴会場に集っているのに、わざわざ誰が来ると?」
一応、と口に出してみた懸念事項をあっさり一蹴される。冷ややかな口調に、ただでさえ沈鬱ぎみだったシャーロットの感情がチリ、と逆撫でされた。振り返れば、相手は暖炉の炎をじっと見つめて立っていた。
「さっきから、なに怒ってんのよ。あなたにわたしの今後を気にしてもらう必要はないけど、今くらい気を使ってくれてもいいんじゃないの。どうせ、自分には幸せな明日が待ってるんだから」
言ってから、みっともなさに気づいて後悔した。これではままならない現実にすねて八つ当たりをしているだけだ。告白したのも、アデルの居場所を教えたのも、シャーロット自身が決めて実行したことなのに。
しかし、放った言葉は拾って片付けられはしない。シャーロットはこれ以上墓穴を掘らないよう口を閉じて、決まり悪く窓の外に顔を向けた。
「……俺とのことが終わったら、ダミアン殿と婚約を進めるんですか」
ややあって背後から聞こえてきた言葉に、シャーロットは拍子抜けし、ため息を吐いた。やけに苛立っていたのは、そんなことのためか、と。
ヴィクターは相当ダミアンが気に入らないらしい。ついさっき自分も心の中でけなした次期公爵に、シャーロットはほんの少し同情した。
「ええ、そうね。相手は未来の公爵様だし、射止めたとなったら実家も連日連夜の宴でも開いちゃうわね」
「……確かに、俺が相手でいるより、あなたのお姉さんもイヴリン男爵も喜ぶでしょうね」
「…………えぇえ、そうそう。だんだん相手のランクをあげていって、最終的にわたしは王家との縁組みを目指すのよ」
軽口と皮肉の応酬をしながら、シャーロットは虚しい気持ちになった。ランドニア公爵もステューダー伯爵も、本来の『イヴリン男爵令嬢』には縁遠い存在だったはずだ。
(そう、最初から不自然な組み合わせだったんだもの。さっさと収まるべきところに収まるのよ)
「……人が絶対来ないとも限らないんだから、早く話を済ませましょ。……婚約解消の理由の、すり合わせでしょ」
吐き出した口の中に苦みが広がるのを耐える。さも何でもないことのようにふるまうシャーロットが見つめる窓ガラスに、暖炉の燃える部屋がぼんやりと映りこんでいた。ヴィクターの立ち姿もだ。ただ、その表情までは目視できなかった。
「……まず、あなたに礼を言わせてください」
予想外の言葉にシャーロットは金色の眉を寄せたが、すぐに合点がいった。
喉に悪魔を住みつかせている男が素直に礼を言うとなれば、内容は限られている。
「会えたのね」
誰に、と確認する必要もなかった。
シャーロットの記憶の中の女性は、人違いではなかった。修道院も今回はステューダー伯爵を撥ね付けられなかったのだろう。ともかく、二人はとうとう再会したのだ。
「ちゃんと言えたの?」
はい、と男が肯定する。その短い言葉はまっすぐ飛んだナイフのように、さく、とシャーロットの背中に刺さった。
胸まで貫いたその痛みに耐えて、おめでとうと、口の動きだけで祝った。
そうとくれば、これから必要なのは、偽りの婚約の幕を閉じる口上だけだ。告示もしていないのだから、何食わぬ顔で赤の他人に戻るだけでもいいはずなのに、シャーロットが美術館で騒いで噂を広めてしまったから、そうもいかない。
始まりから終わりまで、つくづく醜聞に事欠かない婚約期間だった。
――ならいっそ、破談の理由もできるだけみっともないのがよかった。それこそ、今後しばらくシャーロットの縁談が遠ざかるような。
「ねぇ」
「おかげで、ようやく終わらせられました」
二人の声が重なった。
シャーロットは数秒間、聞き取りにくかったその言葉を脳内で反芻した。が、やがてその意味を理解すると、手入れ不足のブリキ人形のようなぎこちなさで振り返った。
「……は?」
「言うべきことをすべて伝えて、改めて、別れを言うことができました」
「……なんて?」
「……言うべきことを、すべて、伝えて」
「違うわよ!」
丁寧に繰り返そうとしたヴィクターに、体ごと向きなおったシャーロットは狼狽えた声で遮った。




