第六十五話 帰り支度(2)
シャーロットは伏せていたまつげを上げた。
青い目に、どこか固い表情の男が映り込んで、思わず苦笑しそうになった。
(いけない。今、彼の前で笑うのは、あんまりにも嫌みよね)
さっきの言葉で、かつての婚約者のことを思い出させてしまったかもしれない。無神経な言い方だったと、シャーロットはまたヴィクターから視線をそらした。倦怠感をおぼえ始めた頭で、別の話題をぼんやり探す。
「……シャーロット」
呼ばれて顔を向ける。大して熱心にやっていなかった話題探しは霧散した。
「俺は明朝、ランドニアへ戻ります」
シャーロットはわずかに目を見張った。ずいぶん強行軍だ。
「……あ、ああ、レティシア様に、指輪がすり替えられてること教えに?」
言いながら、つぅ、と頭を過る可能性に、表情が歪みそうになるのを耐えた。
(……もしくは、領主館で酷いこと言ったわたしとは、一緒に帰りたくない、とかかしら)
それはそれで仕方ない。先に拒絶したのはシャーロットである。それどころか、顔も見たくない相手の命を救いにきてくれたことへ、むしろ感謝を深くするべきところだ。
「……いや、そうでなく、旅装が丸々あそこにあるので」
「…………あ、そうね。そりゃそうよね」
自分の穿った捉え方に、シャーロットは今度こそ躊躇うことなく乾いた笑いを浮かべた。
「指輪については、ケインズから吐かせた警察から連絡がいくでしょうし。だいたい、あなただって荷物はバットンに残してきているのでは」
気恥ずかしさと、邪推した自分の心の裏に根付く感情を振り切らんとして、シャーロットはため息とともに視線を外し、わざとぞんざいに返事をした。
「いいのいいの、わたしは。ここの主人にお金払って頼めば、きっと持ってきてくれるでしょ。近道なら好都合だわ、わたしはこのままさっさとコートリッツに」
「シャーロット、一緒にランドニアまで戻って頂けませんか」
シャーロットは、自分の心臓が止まっていないことを確認するように、ひそかに深呼吸した。
「……なんで。わたしはあそこに用ないわ」
「無くはないはず。フェリックス殿が自殺ではなかったのだから、きっと彼は」
「やめて」
「……」
「やめてよ」
もしも、協力者であることを引き合いに出されたら、シャーロットはおそらく拒めなかった。
あり得なくとも、一緒にいたいからと言われていたら、シャーロットはきっと喜び勇んで腰を上げていた。相手は怪我人で、まだ夜明けも遠いというのに。
「今さら、何しに行けっていうの。確かに自殺じゃなかったけど、もう真実はわかったもの。黒幕も捕まえた。ならもう、引き返す必要なんて……フェリックスの家にあなたと行く理由なんて、わたしにはないわよ」
よりにもよって、フェリックスの名前を引き出されては、今のシャーロットには相手の顔を見ることすらできなかった。
「それこそ、レティシア様だって嫌がるでしょうし。あの方、信頼していたケインズの裏切りで泣くでしょうから、少しは優しくしてあげたほうが」
「俺にはあるんですよ、あなたと戻る用が」
話を逸らすことを許さないと言うように、ヴィクターは引き下がらなかった。
明後日の方を見ていたシャーロットも、ようやくその目を見返す。
(……そうね、わたしも、あなたには用があったわ、まだ)
男の表情はいつもとそう変わらないように映った。口調も落ち着いている。なのに、こちらに向く鳶色の目はどこか必死さを滲ませていた。
何を言うつもりなのか、シャーロットには予想ができない。
「一緒に戻ってください。でないと、あなたはいつまでも」
「聖メルディオ女学院」
「……は?」
何を言うつもりなのか、シャーロットには予想はできなかったが、聞く気も、はなからなかった。
遮られたヴィクターが怪訝な顔をする。
「わたしがいた寄宿学校の名前。言い忘れる前に、伝えておくわ。貴族の子が多かったけど、一応、どんな有力者でも外部からの干渉は認めないってことになってたの」
「急に何を、」
「それともうひとつ、これも言っておかなきゃ。好きってこと」
瓶の乗ったテーブルを挟んで十秒、二人は何も言わずに互いを見つめ合った。
「……何が?」
「あなたが」
シャーロットは耐えきれなくて、ふ、と吹き出した。
出会った夜、寝室で向き合ったときとそう変わらないような大真面目な顔をして、いやに間抜けな質問をしてきたからだ。
そのまま呆気にとられた鳶色の目を見ていると、やがて次々に言葉が口をついて出てきた。
不思議と、緊張も、照れもしなかった。
「丁寧な物腰のくせに言うことひどくて、偉そうで、有能な割には手先が不器用で、育ちが悪いはずないのに乱暴で、責任感が強くて、情に篤くて、一途なところが好き。……見た目も結構好き。あと、それからね」
ひとり捲し立てるシャーロットは、ヴィクターが何も言えなくなっているのを幸いに思った。
――一年前は、こういう気持ちをどう伝えたのだったか。
「人の恋にも真剣になっちゃうところ。フェリックスのことになると、ことさら優しくなるところとかね。……それが残酷だって、わかってないところ」
一年前は、一ヶ月とすこし前は、この言葉を他の男に向ける自分なんて、想像すらしなかった。天井を向き、鼻から息を吐く。
言うべきことはあと少しだと、自分を鼓舞する。
「――それは、」
「あとね、さっき言った寄宿学校だけど」
シャーロットは、また口を開くと同時に顔を正面に戻した。そのタイミングがちょうどヴィクターも何か言おうとしたところだったとわかったが、シャーロットは構わず自分の話を優先した。
「併設された女子修道院に、アデルって名前の若い修道女がいたの」
きっと自分の話の方が価値があると、確信していたから。
そしてシャーロットは、自分の判断の正しさを実感した。先程から驚きに硬直していた鳶色の瞳は、明らかにその種類を変えていた。
――ほらね。
そう言うつもりで口の端を上げて、目を細めた。なるべく、左右対称になるようつとめた。
「姓は知らない、でもきれいな人だったわ。教壇に立たない修道女とは、学生は無駄におしゃべりしちゃいけないんだけど、そうでなくても無口で、今思うと、人目を避けたがってる感じだった」
ヴィクターは口を挟まないどころか、息が止まってしまったかのようだった。シャーロットは続けた。
「いるのは世間知らずのお嬢さん学生ばっかりだったから、少し年上かなってくらいの修道女が、外で醜聞の渦中にいた令嬢だなんて誰にもわからなかった。でも、その人一度だけ、家柄の浅さを馬鹿にされて中庭でふてくされてたわたしの話に付き合ってくれたの。歴史の長い家も、そんないいものじゃないわよって、そう、さっきの、使用人への横暴さの一件とかね。……授業に出てないわたしを探しに来た修道院長がアデルって、彼女をその名前で呼んでいたわ。
ごめんね、顔は覚えてたんだけど、話したのはその一回きりだったから、名前までは忘れてたわ。ほんと、ついさっき思い出したのよ」
記憶の端に残っていた、灰色の修道服。
美術館で思い出したときには、それを自分が着たら家族は悲しむだろうかなんて、悲劇ぶって思い返していた姿。
――列車の中で初めてその名を聞いたときの既視感が、この記憶に基づいていたことに、どうして今まで気づかなかったのだろう。
「……まさか」
「……信じられないのも、無理はないかもしれないけど」
侯爵令嬢の失踪とくれば、当時はおそらく各地の修道院にも、捜索協力の依頼が回ったはずだ。
それを、聖メルディオ修道院は素知らぬ顔でやり過ごしていたのだ。頼ってきた女性を守るという強い理念に加え、醜聞を恐れるエルノー侯爵側が大っぴらに圧を加えられないことを見越していたのかもしれない。
言葉を続けられない男が相変わらず自分の方を、穴でも穿ちそうな真剣さで見つめてくるのを、シャーロットはわずかな胸の高鳴りと、それに対する呆れで以て受け止めた。
だけど、喜んでしまうのも仕方ない。この瞬間、自分は間違いなく今までで一番、ヴィクター・ワーガスにとって大事な存在となっているのだ。
なにせ今のシャーロット・フェルマーは彼にとって、協力者でも、偽の婚約者でもない。
愛する人の居所の手がかり、なのだ。
「聞いた以上は気になるんでしょ。確認しにいけばいいじゃない、現地へ」
――今さら、躊躇わないで。
シャーロットは、容赦しないことにしていた。
その喉元に、ナイフを突きつけるように。追い詰めるように。
都合のいいものだけを見て、夢想にすがるなんてもう許さないと、逃げ道を絶つように。
「会いに行きなさいよ。わたしは、フェリックスに、もう会えないんだからね」
シャーロットは容赦しないと、そう決めたのだ。
不埒な己へ向けた切っ先に、精一杯の力を込めることを。
***
「おはようさん。おい旦那、昨夜のお貴族様に挨拶させとくれ。ここの宿に泊まったんだろ?」
「あれ、村長。あの紳士なら夜明けすぐ、朝ごはんも食べないで馬乗って出ていきやしたよ? 朝っぱらから、お嬢様にって馬車やら用心棒やらの手配で、もうこっちは大変で……。いやまあ、シードル……ご自分が泊まった部屋の修繕費用にってずいぶん置いてってくだすったんで、文句なんてないですけどね」
町の人間たちの快活な声が、二階の客室まで響いていた。
それを聞き流しながら、開いた鞄からのぞく衣類や宝石の入った小物入れを、シャーロットはひとつひとつ手にとっていく。
失くなった物がないかを、確認しないといけない。
燕のブローチはない。
祖母の懐中時計もない。
紅茶色の髪に鳶色の目の男も、見当たらない。
来るときに携えていた大事なものは、ことごとく失くしたけれど。
「……問題なさそうね」
階下から、馬車の準備ができたと呼ぶ声がして、シャーロットは鞄を閉じた。




