第五十六話 甘い香りの漂う暖炉(1)
シャーロットを乗せた馬車が、雪道を遠く去っていくのを見届けてから二日後の、朝。
ランドニア領主館の外では、風に煽られた雪が花びらのように舞い上がっていた。
(……なんて言えばよかったのだろう)
客室の書き物机には、転がるだけのペンと、ほぼ白いままの報告用紙が行儀よく並んでいる。
その前に腰かける紅茶色の髪の男はといえば、飽きもせず去来する思考に足をとられ、沈痛な面持ちで頬杖をつくばかりであった。
傷つけるつもりはなかった。それは本心である。
しかし、ヴィクターは結果的にシャーロットに黙って行動に移した。それは真にシャーロットのためを思ってのことだったかと言われれば、自信がなかった。
(見たくなかったんだ、俺が。冷たい現実に直面する彼女の、落胆する様を)
できれば、思い違いであって欲しかった。
冷静に考えれば考えるほど、組み立てた仮説が望んだ方向とは真逆に進んだとしても。
その結果がこれだ。
(言うべきは昨日じゃなくて、あの夜だったのか。うちひしがれた彼女に、覚悟をしておけと)
おそらく、そうするべきだった。たとえそれで、自分の言葉で、彼女の顔を痛みに歪めることになっても。
少なくとも、違う選択をした今の顛末を見る限りは、そういえた。
気がつけば、二年前から、自分は何も変わっていないらしかった。
見たくないものから目を逸らすことしかしなかった頃から、何一つ。
アデルのときと同じだ。ヴィクターはシャーロットとの関係を壊したくなかったのだ。
そこまで考えて、ヴィクターは重く凪いだ自分の心の内に、ひとつの答えが浮かび上がっていることに気がついた。今まで幾度となく浮かんでは答えが出なかった、シャーロットへの自分の態度に対する“どうして”という問いに。
どうして、今も、こんなにも気落ちしているのか。
アデルを失ったときのことを重ねながら、思い描くのは真逆の少女のことばかりなのか。
つまり、それは――。
がたん、と、風で窓が揺れた。
ヴィクターはそれを横目で一瞥して息を吐くと、何度目かの頭の切り替えを試みた。今さら、そんなことを考えても無駄だと。
ひとまず自分は、目の前の義務を遂行しなくてはいけない身分だった。手始めに、怠けているとしか思えない進行具合の書類を見つめる。
女王からの調査命令に対し、結論は固まった。不審な男を事故死させたのは手痛い落ち度だが、証拠となる毒物の瓶も協力者が王都に送った。
もはや彼も、最後の報告書を終わらせて帰途につくべきだった。
それなのに、ペンが一向に進まない。両利きの訓練をした以上、右肩の負傷は言い訳にならなかった。
(妹を失ったフェリックス殿が、従者ゴルバックに毒を盛り、その瓶をグース駅で処分。バットンまで馬車で進んで、その森で自死。赤毛の男は……)
ヴィクターの思考はそこで再びつまずいた。
「……本人に尋問できないのは歯痒いな」
当然のことを不貞腐れたように呟く。
わからないのはそれだけではない。
「……動機も、わからない」
妹の後を追ったのか。
手紙だという遺書の文面は、確かに兄から妹への深い悔恨が感じられた。恋文と読み間違えるほどに。
しかし、あまりにも極端な選択ではないか。
もしかして、あの手紙の内容以上に、フェリックス・ロザードがメアリー・コートナーへ強い自責の念を抱くようなことがあったのだろうか。
なにか見落としていないかと、手帳をめくる。
(……彼は自殺として処理されて、死因解剖はされていない)
公爵も、レティシアも、シャーロットが言うにはダミアンも、自殺だとは思っていないのに。
彼らの意向を握り潰せるのは――。
「……いや」
にじり寄ってきた自分の考えを押しのけるように、額を片手で覆う。
この二日、どうにも考えがまとまらなかった。
さらにヴィクターを憂鬱にさせたのは、今この瞬間、部屋へと近づいてくる足音があることだった。まとめた紙類を手早く鞄に仕舞うと、カモフラージュの便箋を机上に出した。
まもなく響いたノック音に返事をすると、姿を見せたのは予想通りレティシアだった。
「おはようございます、伯爵。……その、もしお時間があるのでしたら、ぜひ、ご案内したいところがございまして」
彼女にしては控えめな笑みを前に、どう断ろうか、ダミアンを誘おうとでも言ってみようか。
そう思っていたヴィクターだったが、相手から続いた言葉で気を変えた。
「おに……フェリックスと、メアリーのためにも」
***
「部外者に見せることを禁ずるものですから、ブレイドに怒られてしまうかもと、迷っていたのですけれど。ただやはり、こんな辺鄙なところにお越しいただいたのですから」
そう言いながら、レティシアは屋敷の奥まった一室へと客人を案内した。
中は花柄の壁紙に、白く塗装された優美な家具で彩られていた。花器や置時計も華やかな細工物である。
一見して貴婦人用の私室と分かる作りであった。しかし、レティシア本人の部屋というには、人の生活の痕跡が見受けられない。花器には何も生けられていなかった。
「公爵夫人の部屋ですか。……失礼、暖炉を焚いても?」
「ええ。ごめんなさい、お客様ですのに。使用人にも、いたずらに見せたくはない物なので……」
そう言いながら、レティシアは鍵穴つきのチェストへと向かった。ヴィクターがマッチを擦る。程なくして、白いマントルピースの奥にはオレンジ色の影がちらちらと踊り始めた。
「伯爵、これこそが、フェリックスがこの屋敷に来た目的ですわ」
火の大きくなる様子を確認していたヴィクターが向き直る。レティシアの片手には、部屋に入るときとは別の鍵束が下がっており、もう片手には、滑らかな光沢の青いビロードが覆う小箱が抱えられている。
「本来なら、公爵夫人か、女公爵立ち会いのもとでしかお披露目されることのない逸品。本当は鍵も母が持つべきものですが、ここに来るに当たってお借りしてきましたの。母は田舎を好かずブレイドに任せっきりで、ろくにここには来ませんから」
開けられた箱の中には、覗きこむヴィクターの予想した通り、“女主人の指輪”がその中央に鎮座していた。
流水のような模様を施された金のリングの上に、光を細かく反射する大きなダイヤモンドが置かれ、それより小さなダイヤモンドが支えるように囲んでいる。女王を守る女官さながらに。
ダイヤモンドの産出で財をなした旧家らしい宝物であった。
しかし。
(……?)
ヴィクターは一瞬感じた違和感を押し隠して、レティシアに向き直った。
「さすがと言うべきか、とても素晴らしいですね。……しかし、どうしてこれを急に」
「……メアリーとフェリックスを死なせた原因は、この指輪にあったのかもしれないと思ったからです」
「フェリックス殿が、この指輪の保管状況の確認のためにここへ向かっていた、という件ですか」
レティシアは視線から逃げるように俯いた。
「それもありますが……」
ヴィクターはレティシアに近づき、暖炉の前へと誘導した。
「……なにか、お伝えしたいことがあるのでは」
抱えたままの箱ごと指輪を見つめていたレティシアの口が、開いては閉じるのを何度か繰り返す。
やがて、ごく浅くだが、レティシアの頭が縦に揺れた。
「伯爵、あなた様のお口が固いことを信じて、懺悔させていただきたいのです。……シャーロット様は、ダミアンと近しいでしょう。悪意ある協力者ではないにしても、あの従兄にお話ししてしまうかもと思うと」
「…………なるほど」
ダミアンと近しい、という一言への反射的な否定を飲み込み、差し障りのない相槌にすり替えた。どうにもまだ、集中しきれていなかったらしい自分を引き締める。
ヴィクターは左手で自分の鼻の周辺を覆いながら、レティシアの様子を伺った。横から見る灰色の目はぼんやりとして、何か思案しているようでも、逆に何も考えていないようでもあった。
それを見ても、罪悪感はない。ヴィクターとしてはより確実な方法を踏むだけである。
――これを知ったらシャーロットは、果たしてどんな反応を示すだろうか。嫌悪するだろうか。
案外、『まぁあなたならやるでしょうね』くらいですませるのかもしれない。
湧き出した雑念は、暖炉から漂いはじめたかすかな、官能的な甘い香りとともに手で払いのけた。




