第五十一話 慰めのチョコレート(1)
十七年前。レティシアは、さる侯爵家の一人娘、つまり跡取り娘として生まれた。
しかし侯爵が早くに亡くなると、侯爵夫人ベティは法定以上の財産と引き換えに、レティシアの後継としての立場、権利の一切を叔父一家に譲り、何の未練もないとばかりに実家に戻った。レティシアが十歳になろうかという頃だった。
それは、母と叔父の取り決めを覆す力はなく、かといって生まれ育った家を忘れることもできない年頃だった。
それから、彼女が母親とともにランドニア公爵のもとに迎えられたのは、今から五年ほど前、齢十二になる頃であった。
「……この家には、既に後継者がおりました。空席となっていた女主人として入る母はともかく、今さらロザードの血も流れていない娘が入ってくるなど、無意味そのものだったでしょう」
“生まれた家にすら既に無い居場所が、他人の家にあろうものか”
そんな心細さから心を閉じていたレティシアを待っていたのは、驚くほどあっさりと妹の出現を受け入れるフェリックスだった。
「それでも意地を張るわたくしに対しては、メアリーがつきっきりで支えてくれました……。なんなのでしょうね、父親は全然そんなことないのに、あの兄妹、そういうところはそっくりでしたわ」
暗い小屋の中でのレティシアの独白に、ヴィクターを横で支えながら聞いていたシャーロットはなんとも言えない気持ちになる。結局彼女も、自分や、ダミアンと同じなのだ、と。
「……ごめんなさい。あなたのこと、誤解してました、レティシア様」
「……お互い様ということにいたしましょう」
レティシアは、暗がりの中で、呼吸の荒いヴィクターに複雑な視線を向けてそう呟いた。
「あ、あのっ、レティシア様、どうかヴィクターのことも誤解なさらないでください。彼は……その、わたしに協力的なあまりに、極端な方法を取ってしまったのです!」
「……ええ、わたくしも、早合点して失礼な態度を取りましたこと、どうかお許しくださいませね」
さすがに女王命令と話すわけにもいかず、シャーロットがそう取り繕うと、レティシアは気まずそうに目を伏せた。
「……いいえ、こちらこそ、人に褒められないことをしましたから」
謝るヴィクターの声には、先程よりも力がない。レティシアは頬を拭うしぐさののち、「急ぎ屋敷へ戻りましょう」と扉の方に向き直った。
馬に乗ったケインズを伴い、三人は急ぎ屋敷へ戻った。
邸内では、消えたシャーロットと、時間になっても戻らないヴィクター、そして猟銃を片手に飛び出していったレティシアを案じ、戸惑う使用人たちによって出迎えられた。
「すぐに医師をお呼び! それから、敷地内に入り込んだ不審者を急いで探し出しなさい」
玄関ホールに入るなり、レティシアが鋭い声で命じる。使用人たちは突然重傷を負って帰ってきた客人に目を剥いたが、ケインズが頭や肩に薄く積もった雪も払うのを惜しんできびきびと指示を出し始めると、おのおの、やるべきことへと向かっていった。
そうして気がつけば、シャーロットはヴィクターが治療を受ける部屋の隣室で、レティシアと共に時間が過ぎるのを待つ身となっていた。
ソファにかけて向かい合う二人に挟まれたローテーブルには、ホットチョコレートが置かれていたが、どちらも手をつけてはいなかった。
「……大丈夫かしら、ヴィクター……」
「田舎とはいえ、公爵家が抱える医者ですから」
「そ、そうですよね……」
シャーロットは自分を落ち着かせようと、運ばれてから時間のたった白いカップに手を伸ばす。ミルクと共に温められたチョコレートからフランボワーズの香りが立ち上った。
それでも暗い表情のシャーロットに、レティシアは小さな声で気まずげに声をかけた。
「……こんな時ですけれど、シャーロット様、伯爵からお聞きになっていること、どうか他言無用でお願いいたしますわね。わたくしがあの日、暗い小屋にひとり、拘束され、目隠しをされて、閉じ込められていた、なんて……」
「そう、そうですね……えっ!」
神妙な顔から一転、突然聞かされた言葉にシャーロットが絶句すると、その反応にレティシアも不審げな顔つきとなり、続けて眉を跳ね上げた。
「ま、まさか。この醜聞、もう誰かに言って回ってらっしゃるのっ?」
「えっ! ……い、いいえ、まさか! そ、それよりヴィクターの様子は」
「お待ちになって、こんな、誰かに攫われて閉じ込められたなんて話が広まったらわたくし、もう文字通り生きて外は歩けませんっ。ブレイドにも言っていませんのよ! い、一体、誰に言いましたのっ?」
「えっ、いや、えっ」
攫われて、閉じ込められた?
ヴィクターへの心配と、思いがけない告白にシャーロットの頭が混乱する。その動揺を誤解したレティシアが、これぞ我が身の危機とばかりに詰め寄る。
そこでシャーロットの脳裏にも、はっと思い出される言葉があった。
『彼女は、三日の午後から翌日の昼頃まで、誰にも会えなかった。自分でそう言いました』
『申し訳ないのですが、詳細はまだ、誰にも。ただ、ここから彼女は動いていない、と言っています。それなりに信憑性はあるかと』
ヴィクターはこれを、薬で朦朧としたレティシアから聞いた。おそらくは、シャーロットがダミアンの尋問にあったときと、同じような状況だったのだ。
(だからヴィクター、わたしに、レティシア様の証言を信じる根拠を言えなかったのね……)
ダミアンをどう悪し様に言っても、結局同じ手法を使った負い目があったのだろう。ましてシャーロットは薬を盛られた直後だった。
そんなところで気を遣って、結局、シャーロットからヴィクターへの心証は悪化したのだから、意味がなかったと言える。
(べっつに、仕事中のヴィクターが非紳士的であることなんて、こっちは言葉通り身を以て知ってるんだから、気にしなきゃいいのに)
昨日、レティシアが出てきたティーセットの置かれた部屋。あれがまさしく、静かな尋問の場だったのだろう。シャーロットはかみ合わない自分とヴィクターの思考にため息を吐いた。
「……大丈夫です、レティシア様。その、わたしも誰にも言っていませんし、言うつもりもありません。そもそも、言う相手もここにはおりませんもの」
シャーロットは、腰を上げかけたレティシアの肩に手を置き宥める。その言葉に、「ダミアンにも?」とさらに念を押されれば、もちろんと力強く頷いた。
「そう、なら良かった……。それにしても、お二方がダミアンと無関係であるとわかったのは安心ですけれど、シャーロット様に我が家の秘薬まで使ったとなると、ますますあの男、放置していられませんわ」
ソファに掛けなおして、憎々し気に吐き捨てたレティシアに、向かいに座ったシャーロットは一瞬迷ったが、「……あの、実は」と、ダミアンが当時、王都である女性と一緒にいたことを伝えた。
「……けれど、ダミアン本人ではなく、その息がかかった者が動いた可能性はありますわ。あの男、従兄だなんて言ったって、以前からなにかとフェリックスにつっかかっていたのですから」
シャーロットの話を聞いても納得しない様子のレティシアに言われ、シャーロットはそれ以上、何も言い返せなくなる。
バットンでは赤毛の男含め、余所者はいなかったと聞いたが、村人の目から隠れてことをなした可能性も、ゼロではない。
そしてヴィクターも、レティシアよりもダミアンに対して懐疑的だったと思い出すのだった。
(……)
その理由について、一瞬浮かんだ可能性に、シャーロットはいやまさか、と心の内で否定し、チョコレートをもう一口飲み込んだ。
――まさか、彼がシャーロットに不躾に近づいたから、な訳はない、と。




