第四十七話 ほどかれる過去(1)
――姪宛てではない縁談を、すごすごと持ち帰る伯母を見送ったあと、父に言ったことがある。
再婚しないの、と。
帳簿から目を上げた父は、少し驚いて、それから渋い顔をした。
モテない父への嫌味かね、と。
そう話す男の書斎に置かれているのは、古い手編みレースのクロスがかかったローテーブルに、色鮮やかなステンドグラスのランプシェード、とうに香りのしなくなったポプリがつまったガラス瓶。サイドボードには陶器のバレリーナが踊るオルゴールがあったが、壊れたまま、長くねじを巻かれていない。
女主人がいなくなって久しい屋敷のなかにあって、そこはいっとう貴婦人の趣味が漂う空間だった。
母との思い出を捨てようとしない父に、呆れると同時に、シャーロットは少し、嬉しくなった。
いつか、自分も、こんな風に、たったひとりを愛し、愛される恋ができたなら。離別の悲しみも、それで乗り越えることができたなら。
それはとても幸福で、尊いことのように思えた。
***
「っああああ!」
シャーロットは、凭れていた壁から弾かれるように身を離した。肩にまとわりついていた、重みのある長い物も振り払って。
「お、おち、おち、おちっ……」
落ちた、と思って辺りを見渡すが、周囲に雪も枯れ木もない。青空は遮られていても昼の明るさはあったはずが、それすらない暗闇に、シャーロットはわけがわからなくて一層混乱した。
懸命に目を凝らし、目覚めたばかりの頭でどうにか現状を理解しようと、首を巡らせる。座り込んでいるのは固い床で、足元には小さなオレンジ色の光。底冷えのする、冷たい空気が漂っていた。
手をついている壁はほのかにあたたかい。ふと不思議に思って手を動かせば、さわさわとした手触りの塊が付いている。周囲のせいか、色は暗い。それなりの大きさがある、球体だった。
シャーロットはまさか、と唾を飲み込んだ。
「……ここが、地獄?」
「……堕ちる心当たりでもあるんですか」
悪魔の頭部かと思っていた毛玉の塊から耳慣れた声がして、シャーロットは盛大に飛び上がって驚いた。遠慮なく手をついていたのは、壁ではなく男の胸元だったのだ。
むくり、と塊が上へ動けば、王都からともに旅をしてきた男の胡乱気な目元が覗いた。
「ヴィ、ヴィクター、ここって……」
オレンジ色のかすかな光に照らされた顔は近い。シャーロットは、自分が抱き込まれる形で床に座り込んでいたことを知った。気がつけば、自分の深い緑の外套のさらに上から、男の黒い外套が掛けられている。
気を落ち着けて、薄闇に慣れてきた目で改めて確認すれば、そこは木造の小さな小屋だった。固い床ではあるが、獣の毛皮が足元に敷かれている。ぼんやりとした光は、敷物を避けて置かれたランプの灯だった。
「……領地内の狩猟小屋でしょう。もう使われていないのか、鍵もずいぶん古くなっていました」
掠れた声に言われてみれば、確かに壁には猟銃やクロスボウのほか、獲物だったとおぼしき動物の頭のはく製がかかっているのが、うっすら浮かび上がって見えた。
なるほどと納得しかけて、シャーロットはハッと気がついた。
「あ、あなた怪我は……!」
ヴィクターは答えなかったが、誤魔化すように俯いた顔色が赤いのは隠せていない。頬に当たる紅茶色の髪を上げれば、額にはこの寒さだというのに汗が浮いていた。
悲壮な顔をしたシャーロットに、ヴィクターは息を整えてから「止血の心得ぐらいありますよ」と吐き出した。
「熱は痛み止め薬の副作用です。ご心配なく」
「ご心配するわよバカッ! だ、暖炉があるじゃない、待ってて!」
「火を焚けば、煙で襲撃者に場所を教えてしまう。寒いでしょうが、我慢してください」
立ち上がりかけたシャーロットは、その言葉に動きを止めた。恐怖と焦りに加えて、怒りすら覚えていた。
今、寒さが堪えるのは、どう考えてもヴィクターの方だというのに、と。
「なんで……」
「……雪深い土地であることが幸いしました」
落ちた二人は、もともと崖からの高低差が大きくなかったことと、深く積もった雪のおかげでたいした怪我には至らなかった。ヴィクターは気絶したシャーロットを抱えて、厩番に聞いていた狩猟小屋まで歩いたという。
「もうさすがに、鍵なんて開ける余裕はありませんでしたね。不器用なりに、力だけはあって良かった」
自嘲するように言われても、シャーロットは笑えない。「そうじゃなくてっ」と思わず相手をなじる声が出るのを止められないまま、自分に掛けられていた大きな外套を男の肩に回す。途端、全身に這い寄る冷気に、震えそうになる体を叱咤した。
「バカじゃないっ、わたしに言うべきこと、もっと他にあるでしょ! そもそも……」
シャーロットは相変わらず、ヴィクターの立てた膝の間に座り込んでいる。目覚めたとき、肩に感じた重みは十中八九、男の腕だったはずである。
さながら、守られるかのように、囲われていた。
「……あいつを捕まえられなかったのも、ちゃんと応戦できなかったのも、わたしがいたせいでしょ……っ!」
『あなたがいなければ追ってますけど?』
体の震えは耐えられても、声の震えは、完全には押し止められなかった。いつの間にか、怒りは、シャーロット自身に向けられていた。
ヴィクターがシャーロットを屋敷に押し込めようとしたのは、厄介ごとを増やさないためだと思っていた。
しかし、今の現状をかえりみれば、それは人目のないところにシャーロットを連れ出す危険を、予見していたからかもしれないのだ。
それなのに、ヴィクターは歪に笑って、わざとらしく嫌味な言葉を返した。
「一回言ったこと、繰り返し言いませんよ」
「言いなさいよ! 聞きわけのない女だって知ってるでしょ!」
「なおさら言うだけ無駄じゃないですか」
言い返そうとしながら、シャーロットは自分の肩に覚えのあるぬくもりが掛けられたのに気がついた。「いい加減にして!」と半ば叫びながら、再び外套を持ち主の肩に掛けなおす。
ついで、男がこれ以上いらぬ世話を焼かないようにと、拘束する意図も込めて外套の上からきつく腕を回す。抱きしめる、というよりはしがみついているような形になっていた。
「……シャーロット」
「……なによ。ご存じのとおり、やめろったって聞かないわよ」
額に熱い息がかかる。金色の前髪を揺らしたのは、諦めのため息だった。
「……こっち、外套の、内側に入ってください。その方が、あなたが熱を保っていられる。……結果的にお互い、楽ですから」
「……」
身震いしたシャーロットは、仏頂面のまま、言うとおりにした。
「……誰か、わたしたちのこと、探しに来てくれるかしら」
「女中たちに、あなたから目を離すなと言ったので、今頃血相変えて探してくれてる、……と、良いんですが」
苦笑交じりに言われても、シャーロットは怒るに怒れない。相手の左肩に右の頬を寄せながら、血が滲んでいるだろう右肩を見つめた。
「……わたしのこと、いったんここに置いて、ヴィクターだけ屋敷に戻ればよかったのに」
足が無事なら、それも可能だったろう。そう思えば、シャーロットはぽつりと呟いていた。
「まさか。そんな恐ろしいこと。……同じ失敗、二度もするものか」
予想以上に強い否定にあって、シャーロットは身をすくませた。
立てた膝に置かれていたヴィクターの腕が、ぐっとシャーロットの肩に回される。
「……それ、二年前、馬車が崖から落ちたって話……?」
言ってから、シャーロットはそろり、と上目遣いで相手の様子を伺った。黒い――よくよくみれば濃茶の視線は遠くを見つめていたが、瞬きを境にシャーロットの青い目を見つめ返してきた。
その眼差しに、冷たさはない。
しいて言うなら、諦念を感じさせる瞳だった。
「ほんと、女の人ってどこで噂をかき集めてるんだかわからないですね」
「……話さなくていいから、体力温存して」
「二年前は、まだ陛下からの仕事も受け始めて間もないころで」
「黙れって言ってんでしょっ! なんなの、隠したがりの癖に!」
肩を小さく震わせて、ヴィクターは笑った。
「まぁ、時間潰しと思って聞いてくださいよ。……噂でも、憶測でもなく、俺から、ちゃんと」
自嘲するような、縋るような笑みだった。




