第四話 照らす月光、捕まる女
「……っ」
シャーロットは、自分にのし掛かる相手を振りほどこうと全力で身をよじったが、拘束は少しも緩まなかった。右手に握りこんだ懐中時計の鎖が、むなしく擦れる。
それどころか、口を覆う相手の手から逃れようとする勢いで、頭にかろうじてひっかかっていたシーツが完全にめくれる有り様だった。
「……女?」
相手の呟きに返事もできないまま、シャーロットは自分の体が持ち上がり、反転したのを感じた。
「な、っ!」
口が自由になるなり混乱で思わず漏れた声を、今度は自ら飲み込む。とっさに正体を隠そうとしたからだが、シャーロットは相手の行動の意図に気づくと青ざめた。
ヴィクターはシャーロットを苦もなく窓際へと引きずっていき、厚いカーテンを端に寄せたのだ。
冷たい空気と無情な月光から、シャーロットは反射的に顔を背けようとしたが、男の手は細い顎をとらえて許さなかった。
「……今度は使い走りの子どもでなく、ご本人自ら乗り込んできたか」
冴え冴えとした光に、シャーロットもまた相手の顔をはっきりと視認した。
見下ろす黒い目には、圧倒的優位な状況に勝ち誇る様子はおろか、侵入者への侮蔑すらも浮かんでおらず、ただ淡々と事実を確認する不気味な冷たさがあった。
恐怖と焦燥に固まったシャーロットの喉を震わせたのは、相手の視線が懐中時計を持つ右手に動いたからだった。捕らえられた獲物のように萎縮していたシャーロットの心に、怒りがぶり返す。
「放しなさいよ、この泥棒っ!」
言い放つと同時に、シャーロットは相手の顎先めがけて床を蹴った。
「……っ!」
ごつっ、と鈍い音がしたように、シャーロットには感じられた。それが相手の顎からだったのか、自分の頭からだったのかはともかくとして。
「いっ……!」
シャーロットは打ち付けた上半身の痛みも止まないうちに増えた頭の鈍痛に耐えながら、一瞬緩んだ腕を渾身の力で振り払い、寝台を挟んだ向こうの扉へと走ろうとした。
しかし、身を隠すためのシーツが、そこで仇となった。
「きゃあっ!」
まとう布を後ろから強く引かれ、シャーロットの体はまた横倒しに転がった。ただし、今度は先ほどよりずっと衝撃が弱い。
「……っ、何すんのよ!」
「盗人猛々しいにもほどがあるだろうが。泥棒呼ばわりは自己紹介の間違いだろうな?」
寝台の上に引き倒され仰向けになったシャーロットは、馬乗りになって肩を抑え込んでくる相手に向かって無我夢中で手足を振り回した。
一度目の不意打ちのようにはいかず、攻撃はろくに当たらないながら、聞き捨てならない言葉にはしっかり反論して。
「ふざけないで! 泥棒はあなたよ、これが誰のものなのか、わたしは知ってるんだから!」
「ああ、もちろん俺のじゃない。それはフェリックス・ロザードを殺した犯人が落としていったものだ」
「そうよ、これはフェリックスの……」
シャーロットの手足は、そこでぴたりと止まった。絡まりあった金髪が寝台に広がる。
「……フェリックスを、殺した?」
呆けた顔で言葉を繰り返したシャーロットに、ヴィクターは眉をひそめて「自分のしたことも忘れたか?」と投げ掛けた。
シャーロットはそこで、自分を寝台に抑えつけている男にとんでもない勘違いをされていることに気がついた。
「ま、まって、わたしはそんなことしてない、するわけない! それより、どういうこと? フェリックスの死は自殺じゃないのっ?」
「大声を出すな」
「だ、出すわよ、答えないと、大騒ぎしてやるわよっ!」
反射的にそう返してから、シャーロットは自分が答えを間違えたことを悟った。
「……少し、声量を落としていただけますかね、シャーロット嬢」
相手に掴まれた左肩が、みし、と、今までに聞いたことのない音をたてたからだ。
「……」
シャーロットが青い顔で頷くと、ヴィクターは華奢な左肩を掴む己の右手の力を少し抜いた。そうであっても、腰に跨がられたシャーロットは起き上がることができなかったのだが。
「……その懐中時計を、単身男の寝室まで忍び込んで取り返すほどだ。よほど後ろ暗いところで失くしたと見えるが?」
「……ち」
違うわ、とシャーロットは声が震えそうになるのを耐えながら、なんとか答えた。
「これは、もともとわたしがフェリックスに贈った物よ。あ、あなたが持ってるわけないから、つまり彼から盗んだってことで、取り返しに来たの」
威厳も迫力もないのを知りながら、それでもシャーロットは相手を睨みつけながら吐き捨てた。
ヴィクターはその言葉をきくと、訝しげに繰り返した。
「贈った?」
「こ、恋人同士だったんだもの!」
数秒の沈黙が、部屋に重く垂れ込めた。
「……ここに来る前に、もう少し嘘を練ってきた方がよかったんじゃないか。気がすんだら、フェリックス・ロザード殺しの動機を話してもらおうか」
「嘘じゃなっ、……う、嘘じゃないわ……」
つい大きな声を出しかけて、相手の目の冷たさに言い直した。
「彼の私物からは、おまえとの関係を伺わせるものなんて何一つ無かった」
「……隠してたもの。うちは成り上がりの男爵家、ロザード家とは釣り合わないから、だから」
「ほう、そこはもっともらしく考えたな」
「なんですって!」
潜めた声も次の瞬間には元に戻るシャーロットの口元に、大きな手が被せられる。
「……それで、ろくに将来も約束できない関係を続けていたと言い張るのか。それを証明できるものはなんだ? 遺体のそばに落ちていた、その懐中時計だけか?」
「……」
遺体。
その言葉に、シャーロットは反論の言葉を喉に詰まらせた。
(……この時計、最期のときまで、フェリックスのそばにあったんだわ……)
懐中時計は、いまだにシャーロットの右手の中にある。
はじめてフェリックスと話したときも、この時計がきっかけだった。
表立って物を贈り合えない自分たちの気持ちの証しにと渡したものだ。
シャーロットが知らない、最期のときも、この銀色の時計は見届けたのだ。
「……」
大人しくなったシャーロットを前に、ヴィクターはゆっくりと口元から手を離した。
「……この時計と交換した、彼のブローチが家にあるわ。あのとき、彼が着ていたフロックコートに付けていたもので、裏にイニシャル入りよ」
息を整えながら、シャーロットは静かにそう告げた。
ヴィクター・ワーガスを前にして、感情を溢れさせないようにと、そればかりに集中した。
「あのとき?」
「彼とはじめて会ったとき。去年の騎士競技大会よ」
ヴィクターは表情を変えないまま、またも否定の言葉を重ねた。
「それをおまえたちが事前に交換していたことを、証明できる人間はいるのか。時計はフェリックス・ロザードの亡骸の近くに落ちていた。それを失くしたことに殺害現場で気がつきながら、見つけられずにいたおまえが、今の言い訳のためにブローチを盗んだわけじゃないと、どう示す。……だいたい」
相手の言葉に奥歯を噛み締めていたシャーロットだったが、さらにヴィクターが続けた内容は、その胸を一層深くえぐった。
「彼は、公爵家で働いていた女中と、浅くない仲にあったようだが」
シャーロットの顔が固まる。
その身にまとわりつくシーツを掴む左手が、懐中時計を握りしめる右手が強張った。
――シャーロットは、父の読んでいた新聞で恋人の死を知った。
それから、何紙もの新聞を取り寄せて、フェリックスの死の記事を探し、その詳細を知ろうとした。
しかし、そのどれもが似通った内容で、たいした収穫はなかった。“ランドニア公爵の嫡子、雪深い旅先で自殺”、“原因は女中との許されざる恋か”と。
無論、新興貴族の娘への想いなど、どこにも、どんな低俗なゴシップ紙にも、書かれていない。
それを当然と思う一方で、ただの誤報だと思おうとしていたスキャンダルが、いやに目についた。
周囲に知らしめたいわけではなかった。
だが、世間はこう思うのだ、と、シャーロットは考えずにいられなかった。名も知らぬ女中が、フェリックス・ロザードの愛した女だと。
自分を襲った衝撃と悲しみを慮ってくれる人間など、当のフェリックス以外ひとりもいないのだと、実感せずにはいられなかった。




