第三十九話 形勢逆転
「――起きなさい。いつまで寝てるのよ」
シャーロットは椅子に座って――座らされて、項垂れた栗色の髪の男の頬を、腹立たしさに任せて荒く叩いた。
「う……んっ?」
痣の上をはたかれたダミアンのまぶたが細かに動いたと思うと、次には勢いよく見開かれる。シャーロットはよし、と頷くと、腕を組んで相手を見下ろした。
ダミアンは自分の両手が椅子の背もたれの背後でひとくくりにされ、両足首が椅子の足に拘束されていることに気がつくと慌てふためいて声をあげた。
「な、なんだこれはっ」
「大きな声を出さないで。この瓶の中身、無理やり口の中に流し込まれたら嫌でしょ」
そう言ってシャーロットは相手の鼻先に、床に落ちていた小瓶を揺らす。思惑通り、ダミアンはさっと青ざめて口をつぐんだ。
その目が悪魔を見るようにシャーロットを見上げてきたので、つんと口をとがらせて釘を刺す。
「言っておきますけど、先に喧嘩売ってきたのはそっちですからね。こっちは穏便に話を聞きに来ただけなのに。ま、形勢逆転、今度はこっちの質問に、大人しく答えてもらいましょうか」
正直、シャーロットはどうして相手が昏倒していたのか、よく分かっていなかった。しかし取り合えず、会話の主導権は取っておくにこしたことはない。シャーロットは居丈高に言い放つ。
その尊大さの裏には、それまでの恨みと、大の男を椅子に座らせて拘束するのに予想以上の労力を割かされて苛立っていたという背景もある。
「~~っ、この、悪女が。そもそも招待もされず、約束もしていなかったのに突然やってきた不審人物はお前の方だ、疑われるのは自分自身のせいだろっ」
「ふん、だからって顔に水までかけられるいわれはないわよ」
「それは本当におまえ自身のせいだよっ!」
よく分からないので、その反論をシャーロットは無視した。淑女を淑女と扱わない男の言うことなど気に留める必要はないと。
「まず、……そうだわ。わたしのお茶に混ぜられてたお酒、あれはなに? 後からへんな症状出たりしないでしょうね?」
「……」
「教えてくれないなら、自分で調べるしかないわ。――鼻摘まんで流し込まれれば、飲み下すしかないでしょうね?」
客間の方から持ってきてテーブルに置いていた茶色の瓶を、これ見よがしに揺らす。中で甘い香りのリキュールが緩く渦巻いた。
ダミアンは苦く顔を歪ませて、唸るように白状した。
「……自白剤の一種だ。かつて公爵家が政敵を招待してもてなすときに使ったって聞いてるが、死にはしないはずだ。たいてい、相手の弱みを握るために使ってたんだから」
「……死ななきゃいいって話じゃないのだけど。じゃあこっちは?」
シャーロットは床から拾いあげた、小さな瓶の方を持って振る。今度は、よりはっきりと男の頬が引き攣り、答える声は低く、小さくなった。
「それも自白剤だが……使う相手が違う。おもに戦時中、捕虜だとか敵方の間者への尋問用だ」
「……効果が強いってこと?」
「……ベラドンナの成分が混ざってる。強いのもそうだけど、扱いが難しくて、……まぁ、つまり、そういうことだよ」
使用された後の命の保証はできないということか。シャーロットは平然とした態度を装いながらも、自分の背筋に冷たい汗が伝ったのを感じていた。
黙って頷きながら見下ろしてくるシャーロットの様子に、ダミアンが焦ったように言葉を付け足す。
「い、言っておくが、殺すつもりだったわけじゃない。身を以て分かってるだろうけど、酒の方は、放っておけば効果は切れる。透明のそれも、戦時中は必要なかったから中和する方法も確立されてなかったって話だが、今は誤飲に備えて解毒薬もこの屋敷の至る所に常備してあるんだ」
「へぇぇ。じゃ、あなたがわたしに誤って飲ませても、もちろんその逆も大丈夫ってわけね」
「答えてるだろうがちゃんとっ! 勘弁してくれ!」
「次の質問よ。青百合商会のことを知ったのは、“フェリックスの身辺を探ってたから”って言ったわね? 何をかぎまわってたの? どうしてそれがわたしのことだと?」
ダミアンは言いあぐねていたが、卓上の茶色い瓶とシャーロットが持つ無色透明の小瓶を交互に見て、観念したように嘆息した。
「……ここ数カ月、いやもうすこし前かな、フェリックスの様子がおかしかった。慎重な奴だったのに、突然メアリーのことで伯父上に働きかけたりして。僕はもともとあいつのことはよく思ってなかったから、何か弱みでも掴めるかなと、探ってたんだよ。青百合商会のことはそのとき知ったんだ」
商会そのものを最初に怪しんだというよりは、頻繁にやり取りをしている割に、買い物や投資の気配がまったくなかったことに気がついたときに、引っかかりを覚えたのだという。
「結局あいつの生前にはわからずじまいだった“青百合商会”が、君のことだとわかったのはつい昨日だ。夕食のとき、あの懐中時計を持ってただろ。……僕は公園のそばでフェリックスと鉢合わせしたとき、それを持っていたことを覚えていたのに、死んだあとは遺品の中からいつの間にか消えてて、おかしいとは思ってたんだよ」
「……な、なるほどね」
自分の迂闊さに目を泳がせながら、相手の目敏さに舌を巻いた。
時計が消えたのは公爵が女王にそれを預けたせいだが、シャーロットは言わない。ヴィクターの仕事は秘密だからだ。
「……じゃあメアリー・コートナーのことだけど、彼女、一体あの人とどういう関係にあったの? 恋人じゃないなら、あの遺書は何? なぜ二人は相次いで亡くなったの?」
憮然とした顔で口を閉じた相手の頬を、シャーロットはガラス製の小瓶の底でぐりぐりと抉る。しかし、これには男の方も暫く耐えていた。
余程言いたくないようだが、シャーロットも次期公爵を縛り上げるまでした以上、引き下がれない。
男の頬に抉れた跡を残した小瓶を一瞥し、わざと小さく、しかし二人きりの空間ではかすかに聞こえるように「まぁ、いざとなったらお父様のお金とヴィクターのツテでもみ消してもらうしかないわね」と呟いた。
その独り言が耳に届いたであろう男の顔色を横目で見ながら、シャーロットは小瓶のガラス蓋に手をかける。
「分かったっ! 言う、言うよっ! メアリーはフェリックスの恋人なんかじゃない。――腹違いの妹だったんだ! フェリックスの奴、伯父上に、メアリーを公爵家の一員としてすみやかに公表してくれって直談判してたんだよっ」
「……何ですって?」
シャーロットは唖然とした。
吐き出した後の相手の苦々しい表情を見つめたまま、思わず小瓶の蓋をぽんっ、と開ける。ダミアンが椅子ごと引きずるようにのけぞる。
「本当だって! やめろ、よせよせ、君は使用方法も解毒薬の場所も知らないだろっ! 僕に何かあったら、君の家族もただじゃすまないぞっ!」
「……だって、フェリックスそんなこと一言も」
「はぁっ? 言えるわけあるかっ、メアリーの母親は、く、詳しくは知らないけど、多分めちゃめちゃ身分が低いんだ。そんな女に産ませた娘、厳格さを美徳だと思ってるような古い家から世間に公表できるわけないだろっ!」
シャーロットはいったん動揺を押し込めて、小瓶の蓋も閉めた。椅子ごとひっくり返りそうになっていたダミアンも、その目を小瓶から離さないままでも、ほっと一息つく。
そんな恐ろし気に扱うものをシャーロットに使おうとしていたことは大いに気になるが、今はそれ以上にフェリックスとメアリーの事実の方が、彼女の頭の中に大きな衝撃をもたらしていた。
それと同時に、いくつかの謎が解明されるのも感じた。
(……そう、メアリーさんが死んだとき、屋敷の人と公爵家の人だけでお葬式が行われたのは、公爵家こそが、彼女の身内だったからなのね)
そして、遺書の不自然さ。
愛するメアリー。いつかきみを日の当たるところへ。
「……遺書は恋人じゃなくて、妹への言葉だったのね」
フェリックスがシャーロットへ伝えた『いつか妹に会わせたい』という言葉も、傲慢で血の繋がらない妹ではなく、世間に隠された異母妹のことのように思えてきた。
「……シャーロット嬢。君こそいつフェリックスに近づいたんだ。それともまさか、正体は隠したまんま、商会を名乗って手紙だけでやり取りしていたのか」
考え込んでいたシャーロットは、ダミアンの問いかけにつられて我に返った。
憎々しげな男の顔に面食らったが、相手のしたことを思い返して冷たく切り返す。
「別に、いつでもいいでしょ。過ぎたことよ」
「いいわけない。そもそも何をしに来たんだ君。……まさか本当にこのまま僕まで殺す気か? もしかして、レティシアと仲が悪いのは見かけだけで、あいつと組んでるのか?」
シャーロットは心外だと口の端を下げた。
しかし憔悴した男の顔からは、至って本気でシャーロットを疑っていることが見てとれた。
「新聞で読んだだの、遺書だの、白々しいな。明らかに報道以上のことを知ってるくせに。……自殺じゃないなら、なんて興味津々を装って、実際のところは君自身がよくわかっているんだろ。
……はっ、しかしメアリーのこと、レティシアに教えてもらえなかったあたり、君こそ近々あの女にトカゲの尻尾として切られるところだったかもな」
シャーロットをフェリックス殺しの犯人だと決めつけたような男の口ぶりに、反論しようとした。しかし、ぶつぶつと続いた独り言に、出かけた言葉は彼女の喉につまった。
「……レティシアのやつ。こっちだって、誰が好きこのんでフェリックスの後釜になんか座るかよ」
俯いて吐き捨てられた言葉に、シャーロットは予想外の本音を垣間見た。
「……ダミアン様は、公爵の跡を継ぎたくないの?」




