第三十七話 口達者で世間知らず
苛立ちは、馬車を降りる前からずっと蓄積されていた。
「わたしがっ! いつっ! すき好んでっ! あのスケベ男とふたりっきりになろうとしたっていうのよっ!」
案内された客室で一人きりになると、シャーロットは大きな枕をぼすぼすと叩いて鬱憤を吐き出していた。
「あの高慢女だってっ! あいつがっ! 婚約を断ったこととっ! なんの関係もないわたしが迷惑被ってるっていうのにっ!」
殴るだけでは飽きたらず、両手で枕の端を掴むと豪奢な天涯つきの寝台にばすばすと叩きつける。
「もーーーっ! ……」
一通り暴れ終えると、疲労感の到来とともに心なしか気も晴れて、シャーロットはよろよろと猫足の長椅子へと歩いていった。
クッションに寄り掛かるように身を預けて、幾分すっきりした頭で先程きいた言葉を反芻してみる。
「……メアリー・コートナーは、フェリックスの恋人じゃなかった?」
しかも、ダミアンも自殺に懐疑的だと話していた。ダミアンの立場からしたら、フェリックスの死亡についてはそっとしておいてほしいことではないのか。
その死を他殺と疑われれば、嫡子の死で大きな恩恵を受ける男が真っ先に疑惑の目を向けられる。
不快な男だが、フェリックスの死については疑われない自信があるのか。
途中で口をつぐまれたから余計に、そこに隠された事実が気になってきて仕方なかった。
「……」
シャーロットの頭に、ついさっきヴィクターから釘を刺された言葉が蘇る。
ダミアンとふたりきりになるな、という。
「……そういえばあの人、ヴィクターの一回目の婚約のことも何か知ってるみたいだったわね」
旧友を酔い潰してまで、ヴィクターがシャーロットに隠そうとすること。
ただ単に過去の醜聞を掘り返されたくないだけかもしれない。
「……」
シャーロットの脳裏で、再びヴィクターの言葉が繰り返される。
男相手にも見境なく動く。
猪。
暴走癖。
「……」
シャーロットは立ち上がった。
ここで暴れたらヴィクターに迷惑がかかってしまうだなんて、殊勝に我慢することははなから期待されていないと、結論が出たからだった。
――わたしがっ! いつっ! すき好んでっ! あのスケベ男とふたりっきりになろうとしたっていうのよっ!
ほんの数分前に朗々と言い放ったことも、聞きとがめていた人間はいない。
――とはいえ、さすがに密室でふたりきりになる気はなかった。
シャーロットは女中に声をかけてたどり着いた扉の奥へ招かれると、部屋の扉を開けたままにするよう言いつけて、出入り口に近い方の椅子に腰かけた。
「なんだつまらない。せっかく来てくれたのに、ずいぶん警戒してるじゃないか」
「ちょっと、お聞きしたいことがあるだけですので」
「フェリックスのことなら、あまり余人にはきかせられないんだけどなぁ」
シャーロットにとって相手にニヤニヤ笑いがないのは幸いだったが、歓迎する風でもない。ダミアンは運ばれてきた二人分の紅茶にガラス棚から出した蒸留酒を少しずつ落とし、シャーロットに渡した。
「部外者のわたしに言えることが、使用人に聞かせられないほど繊細な話題なんですの?」
「ふん。君といいレティシアといい、若い女は世間知らずのくせに口ばっかり達者だよな」
リキュールの甘く香る紅茶を一口飲んで、シャーロットは相手の嫌味を聞き流した。向かい合う相手は冷ましているのか、ティーカップの中でスプーンをくるくると回すだけで取っ手に手を伸ばそうとはしない。
なるべく長居したくないシャーロットは、相手が一息つくのを待たずに本題に切り込むことにした。
「フェリックス……様がメアリー・コートナーさんと恋仲じゃないなんて、なんで言い切れるんですか? 新聞では、女中の恋人にあてた手紙が残されてたって報じられていたのに」
「なんでもなにも、そういう関係じゃなかったと知っているからとしか言えないよ。恋仲だなんて思われたのは、まぁ残された手紙の内容だけがなぜか新聞社に伝わったからだろうけど」
「じゃ、ふたりはどういう関係だったんです? あの手紙の真意は何だったんです?」
ダミアンは片眉を上げてしばらくシャーロットを観察するように見ていた。右手は相変わらずカップに浸かったスプーンを摘まんでいる。
「やけにフェリックスとメアリーの関係にこだわるな」
シャーロットはぎくりと身を強張らせた。
「……っ、そ、そりゃ、身分違いの恋の果てに自殺だなんて、コートリッツでは大騒ぎでしたもの。気になりますわ。……だって、自殺じゃないってなったら、誰かが次期ランドニア公爵を殺したということになるんですし、恋人じゃないなら、遺書は犯人が捏造した物のようではありませんか!」
「なるほどねぇ。で、フェリックスが死んで得をする僕を怪しんで、わざわざひとりで乗り込んできたわけか」
「……いえ、やだ、そんな」
シャーロットは口角を意思の力で引き上げながら、誤魔化すようにもう一度カップの中身を一口飲んだ。
蜜漬けの杏子のような甘い香りが口元から顔を覆う。緊張で敏感になっているのか、シャーロットにはいやに香りが強く感じられた。
「あいにく、奴が死んだ二月三日の夜……四日の朝なのかな。どっちにしろ、僕はコートリッツでビルダース伯爵夫人と一緒にいたんだよね。彼女はすっとぼけるだろうけど、ご主人にばれてると思うからそっちに確かめてくれよ」
男がここにきてにやりと笑みを見せる。おかわりはいるかと、酒瓶を微かに揺らした。
いい話ではないが、これが本当ならやはりダミアンはフェリックスの死に関わっていなさそうだ。シャーロットは頭の中にビルダース伯爵夫人の名前をメモしつつ、不愉快な笑みから焦点を若干逸らした。
ききたいことは、まだあった。
「そんな、疑ってなど。お茶の方、いただいても?」
「お茶だけだと、ここじゃ温まらないだろ。なんにしろ、君と婚約した伯爵の苦労が偲ばれるな。あいつ、もてるわりに女運ないほうかな」
絵付けされた陶器のカップが満たされる。ヴィクターの髪と同じ色のそこへ、男の手によってスプーン一杯ほどの琥珀色の酒が混ざる。
「……それ、どういう意味です?」
眉をかすかに寄せたシャーロットは勧められるままにカップを持ちあげ、傾ける。あたたかな紅茶が喉を通って胃へ伝っていく。鼻を抜ける酒の香りがいっそう強くなって、頭まで回る。
視界も、回った。
「ようやく、温まってきたみたいじゃないか」
シャーロットが大きな眩暈に襲われた次の瞬間、“ガチャッ”と無作法な音を立ててカップの底がソーサーにぶつかった。
「どんな手段で結んだ婚約だか知らないけど、ステューダー伯爵は知らないのか? ――今度の婚約者が、口ばっかり達者で世間知らずで、死んだ公爵嫡子と深い仲だった上に、こんな無防備にほかの男の部屋に来ちゃうような人だってこと」
両手をテーブルについて倒れ込もうとする上体を支えながら、どくん、どくんと自分の心臓が常になく大きく耳に響くのを、シャーロットは感じていた。
頭の中が、ぐわんぐわんと、既視感のある浮遊感に苛まれている。
『シャーロット、あ、あ、あ、あなたって子は……子は……!』
(違っ、リンディ、違うのよ、あのときも、今も、わたしそんなつもりじゃなくてっ……!)
指先にも、腕にも、力が入らなくなる。
耐えきれずにテーブルに突っ伏したシャーロットが、カップの中身を倒すことはなかった。向かいからのびた男の手が、すんでのところでソーサーごとシャーロットの前から離したからだ。
「さて。邪魔者もなしで、ゆっくり話そうか、シャーロット嬢。……いや」
いらないところで気遣いを発揮した男は、そう言って席を立った。顔を上げることができないシャーロットには、その気配だけが伝わっていた。
朦朧とした頭の横を、足音が通り過ぎていく。ほどなくして、開け放しておいた扉が閉まり、鍵の回る音が無情に響いた。
「……“青百合商会”殿」
シャーロットのウォッチポケットから垂れ下がっていた鎖を、戻ってきたダミアンがたぐり寄せる。天使と百合の懐中時計が、青い目の見つめる先でゆらゆらと揺れていた。




