第三十六話 ランドニアの領主館
まだフェリックスの死が自殺だとは断定できない。ヴィクターはそう言った。
けれどもし、自殺だったなら、理由は恋人の死だけではなく、恋人の裏切りを知ってしまった絶望もあるのかもしれない。そんな考えが頭を過った。
(不思議ね。裏切られていたのはわたしも同じなのに、会いたいとは思っても、死にたいとは思わない)
自分では、情に篤い方だと思っていたが、存外、冷たい女だったのだろうか。
案外、自分のことすらわかっていないものだ。シャーロットは物々しく自分たちを迎えたランドニアの城館を見上げながら、そう思った。
***
「すごい……」
入り口を通って案内された廊下を歩きながら、シャーロットの口からは無意識のうちに感嘆のため息が漏れていた。
数百年前に建てられてから幾度もの改修を経ても、大貴族ロザード家の本拠地ともいえる城館は広く、重厚で、そこかしこに飾られた絵画や彫刻、武器などは歴史の長さを感じさせた。
フェルマー家も祖父や曾祖父が収集した宝飾品や美術品は所有しているが、家宝として奥深くにしまわれている。客人の目に触れる場所に百年単位で古い希少なものはないうえ、そもそも貴族としても、領地と紐づけられていない爵位の授与だったため、地方の領主館自体がなかった。
(お父様はいずれ、売りに出された貴族の別荘を買いたいみたいだけど、うちには重すぎる財産な気がするわ……)
時折爵位の返還とともに領地が手放されることはあるが、管理費用があってもフェルマー家には似つかわしくないように思えた。高い天井画に描かれた天使たちに見下ろされながら、シャーロットはゆっくり歩を進める。自然、先を歩いていたヴィクターとの距離が広がっていく。
「すごいのは先祖であって、伯父上も含めてその恩恵を汲んでるだけだよ」
「きゃっ!」
背後から突然かけられた声に、ぼんやりしていたシャーロットは肩を跳ねさせた。それを、背後の男の手が軽くおさえる。
「おっと驚かせた? 悪いね。でも目を離すと、君はひとりで迷子にでもなりそうだ」
「……すみません」
シャーロットは断りもなく肩に触れてきた手に対する嫌悪感をそれとなく視線に込めながら、ダミアンから一歩離れた。
「なにせ広いからな。ステューダー伯爵も似たようなつくりの城を持ってるから歩くのに困らないだろうけど、シャーロット嬢には僕が個別で案内してあげようか?」
「……ご配慮、ありがとうございます。でも、ヴィクターが困らないならわたしも大丈夫ですわ」
シャーロットは引き攣った顔の上になんとか笑みを取り繕うと、大きな一歩で男から距離を取った。
(なんっであなたとふたりでここを回らなきゃいけないのよ!)
そう思ってシャーロットは前を向き、離れてしまった紅茶色の髪を探して歩を速める。
しかし、ほどなくして見つけた前方の光景に、シャーロットの足はすぐに止まった。
「でもほら、君の婚約者はうちの従妹と、なにやら楽しそうだよ?」
「……」
苦笑交じりに追い打ちをかける言葉のとおり、ヴィクターは少し離れたところでレティシアと話し込んでいて、シャーロットのことなどお構いなしだ。
背中をむけるヴィクターの表情は見えないが、笑みを見せるレティシアは時折ヴィクターの言葉に対して指先を顎に添えて考えながら答えている。ただの雑談というより、ヴィクターの方から彼女との会話を掘り下げているようだった。
「君たち、フェリックスの弔問に来たということだったけど、レティシアはあいつとそんなに仲は良くなかったと思うよ。彼女はあの性格だし、親の再婚はほんの五年前だし。……なんなら、僕の方が従兄弟として、フェリックスのことを知ってると思うけどな」
耳元でささやかれた言葉に、シャーロットは悪寒よりも興味を呼び起こされて、相手の顔を見上げた。
「一報が入ったとき、伯父上含めて全員混乱していたけど、僕も驚いた。フェリックスは自殺するような奴じゃない。ましてや、メアリー・コートナーが死んだからって」
「……メアリーって……」
「ここにきて知らないふりはいいよ別に。フレックの宿でブレイドと話してたじゃないか、フェリックスから聞いてたんだろ。かまやしないよ。あの子の名前を伏せたのは本家の判断だけど、僕には関係のないスキャンダルだし」
「……恋人への遺書を残していたのに、なんで自殺するはずないって言いきれるんです?」
そこでシャーロットが怪訝な表情を見せると、ダミアンのにやけた顔も、意外なものをみつけたような驚きのそれに取って代わった。
「……君、もしかして、メアリーが恋人だったと思ってんのか?」
「え?」
「……いや、いい。なんでもない。……さすがに勝手に言えない」
「は?」
ダミアンの言葉の後半は、ひとりごちるようにごく小さく呟かれた。
聞き返したシャーロットには構わず、かがんでいた姿勢をただした男は何食わぬ顔で彼女の横をすり抜けていった。
「ちょ、ちょっと、メアリーさんは恋人じゃなかったの? じゃあ、あの遺書の文言は何だったのよ!」
自分の肩を触られたことも忘れて、シャーロットは反射的に相手の腕を掴んで引き留めていた。
思いっきり引っ張られてよろけたダミアンは、ため息交じりにシャーロットの方を振り返った。
「いったいな、放してくれ。伯爵はフェリックスの友人なんだろ、あいつに聞けば……」
「そうですよ」
突如、シャーロットの目の前に立っていた栗色の髪の男が、紅茶色の髪の男に変わる。いつの間にか近寄ってきていたヴィクターがふたりの間に立って、ダミアンの腕をつかむシャーロットの手に自分のそれを重ねていた。
一瞥してきた黒い目に、シャーロットの青い目が動揺で揺れる。
向けられた視線の厳しさに、つい怖気づいたのだと気づいたとき、シャーロットの手は丁寧に、しかし力強くダミアンの腕から離された。
「すみませんダミアン殿。シャーロットは人と距離を詰めるのが早くて、戸惑われたでしょう」
「……いや、大丈夫だよ」
瞳に気圧された自分に驚いていたシャーロットは、穏やかな顔で言い放ったヴィクターの言葉に眉を跳ね上げ、弾かれたように顔を上げた。
「ちょ、ちょっと……!」
反論しようとしたシャーロットの腰に、ヴィクターの腕がまわる。
それは婚約者を抱き寄せる、というよりは、聞き分けのない子猫の首を噛む親猫のしぐさを彷彿とさせて、その指先の固さがシャーロットに『静かにしろ』と如実に伝えていた。
離れていくダミアンの背中を見送るヴィクターの横顔は作り物めいた笑みを形作っていて、シャーロットに向けた威圧感はもちろん、今何を考えているのかもすっかり隠されている。
その泰然とした態度とは真逆に、シャーロットの胸の内は理不尽さへの怒りがくすぶっていた。
「……なんで私の方が礼儀知らずみたいな言い方するのよ」
ヴィクターはシャーロットがダミアンにフレックで言われたことも、ついさっき遠慮なく触られたことも知らない。
だからといって、シャーロットの中の腹立たしさは収まらない。
恨みがましい声音に、ヴィクターの顔がようやくすこし下の、青い目へと向けられる。
苛立ちをはらんだ黒い目に、不満を抱えたシャーロットの顔が映り込む。今度は彼女も毅然と睨み返していた。
「男性の腕をつかむなんて、あまり感心できる行動ではないと思いませんか」
「……そっちはレティシア様と楽しそうだったじゃない」
「楽しそう? あなたは俺がここに遊びに来たわけじゃないと知っているでしょう。関係者に話を聞かずして、一体何をしに来たと思っているんですか」
「わたしだって、ダミアン様からフェリックスのことを聞いてただけよ!」
強い口調で言い返したシャーロットに、ヴィクターの目がいっそう不機嫌な色を滲ませる。その不遜な態度に、ますますシャーロットの中では反感が湧き上がっていく。
「……それは俺が聞きます。ことの結論はあなたにも伝えますから、勝手なことをしないでください。特に、あなたは相手が男でも見境なく動くんだから。――くれぐれも、ダミアン殿とふたりきりにならないでくださいよ。事件について、自殺の決定的な証拠がない以上、彼だって怪しむべき容疑者なんですから」
「言われなくても、わかってるわよっ!」
語気も荒く話を終わらせると、シャーロットはヴィクターを振り切り、早足で案内の使用人のもとへと歩いていった。




