第三十二話 ランドニアの人々(2)
――正直、今が夏であれば、野宿の方が楽ではなかろうか。
そう思っても、今が真冬であることは変わらない。凍死したくないシャーロットは「ええと、まあ、父たちの決めたことですので」と貴族令嬢として当たり障りのない答えをした。
「……ロザード家とのつながりを拒んで、フェルマー家と? まさかね? もしかしてあなた方、伯爵になにか卑怯な罠でも仕掛けて、彼を脅したんじゃありませんの?」
あなた方、とは自分とその家族のことかと、シャーロットは推測する。
と同時に、思わず「そんなはずないでしょ!」と憤慨したように言い返してしまった。
(むしろ、懐中時計を餌に罠を仕掛けられたのは私の方だったのよ!)
突然語気を強めたシャーロットに驚いたのか、レティシアは一瞬目を見開いて身を引いたが、すぐにまた不機嫌な顔で「どうだか」と吐き捨てた。
「あの方の良心や弱味に付け込むような、策略でもめぐらせたのではないの? 悪徳商人そのもののように」
「な、なんですってっ、だいたい、レティシア様こそ何を急に……」
耐え性のないシャーロットの口から反論が噴出しそうになったとき、その頭の中で突然相手の言葉の違和感に気がついた。
(“ロザード家とのつながりを拒んで”?)
「……もしかしてレティシア様」
驚き顔のシャーロットが己の口元を手で隠し、自分の失言に気がついたと思しきレティシアが眉を跳ね上げて何か言おうとしたところで、宿の戸口からまた鐘の音が響いた。
「シャーロット、……おや、ご歓談中でしたか」
シャーロットを置き去りにした男が、まさか自分が話の主役だとも知らずに顔を見せた。
とっさになんという顔をしたらいいのか分からなくなったシャーロットの横を、黒髪の女がすり抜けてヴィクターのもとへと向かう。
「――ヴィクター様、久々にお会いできると思って、わたくしいても立ってもいられずにお迎えに上がりましたの。ランドニアへ向かわれるなら、わたくしも領主代理として、ちょっとご相談があるのですけれど……」
唖然とするシャーロットをよそに、レティシアは両腕を馴れ馴れしくヴィクターの腕に巻きつけ、引きずるように扉の外へと消えていった。
「……なにあれ」
「あからさまだろ。下品で見てられないったら」
ロビーに取り残され、無意識に呟いたシャーロットは背後から聞こえた声に肩を跳ねさせた。
振り返ると、いつの間にか談話室に戻ったはずの男が、執事よりももっとシャーロットに近いところに立って、口の端を上げながら見下ろしてきていた。
「ダ、ダミアン様……」
「一年ちょっと前かな。ベティ、ああ、レティシアの母親が、娘に頼まれてステューダー伯爵にあいつを売り込んでたのさ。それをのらりくらりとかわされてからの婚約宣言だから、レティシアは君が羨ましくて仕方ないんだ」
「ま、まぁ、それはそれは……」
シャーロットと比べれば、家柄的にはずっと問題なさそうな縁組だが、ヴィクターからしたら悪夢そのもののようだ。
「ただでさえアデル嬢の件から時間も経ってなかったのに、無神経な母子だよなぁ。まぁ、レティシアはあのときまだ寄宿学校から帰ってなかったから、外のことに疎かったんだろうけど」
(……また『アデル』がでてきたわ)
列車でも聞いた名前に、シャーロットの心がざわついた。レティシアが寄宿学校にいた時期というのは、シャーロットのそれとも重なる。
とすれば、シャーロットがその名前にぴんと来ないのも自然なことだ。修道院付きの寄宿学校では、あまり外部のことは生徒たちに届けられない。同級生とのうわさ話より、新聞購読を楽しむ習慣のある娘でもない限り。
ヴィクターの一度目の婚約解消はそんなに話題になったのだろうか。いったいどこの家のアデル嬢なのか、とシャーロットは聞いてみようとした。
しかし、シャーロットは臆面もなく顔を凝視してくる目の前の男と長話をするのを、なんとなく躊躇していた。
「とはいえ、レティシアじゃないが、僕も君と伯爵の婚約には興味があるな。……それこそなにか、君は彼のような引く手あまたの男すら、からめとって離さないような、秘密でも持っているのかな」
「っ、ひ、秘密って……なんのことだか……」
相手の言葉に、シャーロットは狼狽えて一瞬目を泳がせた。確かに、シャーロットとヴィクターの婚約には人に言えない事情ががっちり絡まっていたからだ。
まさか、このダミアンという男は、それに勘づいているのか。実はフェリックスの死について後ろ暗いところがあり、だから馬を駆って自分たちの邪魔をしに――。
が、そこまで考えたシャーロットは、自分の目をのぞき込むように、有り体に言えば、顔を近づけようとするためにかがんできた男の茶色がかった緑の目に、下卑た興味の色が見え隠れしているのに気がついた。
「公爵家と男爵家じゃ、お互い、そうは馴れ馴れしく話せない者同士だ。どうだろうね、せっかくの機会だし、その手練手管、一回お手合わせ願いたいものだけれど。相手が“ランドニア次期公爵”ではご不満かな?」
「は……? ――っ!」
低く囁くようにほのめかされた内容の意味を理解するなり、シャーロットの胸に屈辱と怒りが湧き上がる。
――この男、レティシアよりよっぽど下品ではないか。
「……なんのことだか存じませんが、失礼しますわ。ヴィクターが外で待っておりますので」
シャーロットは全身を動かそうとする衝動を、理性でなんとか抑え込んでそう言った。
ここで感情に任せて相手の鼻先目掛けて頭突きでもしようものなら、きっとヴィクターにも迷惑がかかるに違いない。
シャーロットはダミアンへの軽蔑を冷ややかな声音と眼差しに精一杯盛り込んで、男のそばから離れる。頭のなかでは、不愉快な顔面をつららで散々殴り飛ばしながら。
去り際にもう一睨みぐらいしてやろうと扉の前で振り返ると、つまらなそうな表情のダミアンの後ろに、まったく何の歯止めにもならなかった公爵家の使用人が、やはり止める気配もなく佇んでいた。
(罠ですって? からめとって離さない秘密ですって? 失礼にもほどがあるでしょうがっ!)
そう思って、宿から出たシャーロットは雪の中に足を一歩踏み出し、自分たちの婚約のきっかけを思い出す。
シャーロットがヴィクターの寝室に忍び込み、それを家主たちの前で大仰に騒いだ結果、後に退けなくなったことを。
(……レティシア様に家ごと潰されそうだし、ダミアン様にも“ほらやっぱり”って顔されそう……)
叩けば叩くほど醜聞がわき出る婚約経緯に、改めて肩を落とす。
さくさくと歩みを進める足から伝わる冷気が、火照った頭にまで沁みるようだった。
その上、シャーロットたちの婚約はそう遠くない未来に解消される。
そのとき、無関係なはずのレティシアが勝ち誇ったように高笑いして、やはり無関係なはずのダミアンがにやにやと理由を聞きに来る想像まで鮮明にできてしまって、シャーロットの気持ちはいっそう沈み込むのだった。
――自分がフェリックスでも、彼らに恋人なんて紹介したくない。使用人はもちろん、男爵令嬢ですら。
失われた男の人柄がいかに公爵家の奇跡だったかと思うと、名家の損失の甚大さに、そりゃ公爵本人だって卒倒するだろうと同情を禁じえなかった。




